第50話 一人で背負うには重いだろう?

 アイリーンは、クラウスと親たちの期待を一身に背負い、ウドルフの元へ向かっていた。

 十二歳になったアイリーンは、クラウスと婚約していたと知らされ、それをウドルフに伝えに行くのだ。


「どうして、ウドルフ様は聞き入れてくださらないのかしら」


 父から聞かされた話では、アイリーンとクラウスとの婚約を、どうやらウドルフは理解しないようなのだ。

 エーヴァルト家の方がどれだけ言っても、「騙されない」との一点張り。


 わたくしも驚きましたし、きっとウドルフ様も驚いていらっしゃるのね。


 アイリーンからも伝えてみてはくれないか、とそう言われてウドルフと話をしに行くのだ。

 よく遊んでいたとはいえど、それは遊びを禁止される以前──二年前の話。

 久しぶりに出会う婚約者クラウスの兄に緊張もする。


 待ち合わせたエーヴァルト家の裏庭に行くと、すでにウドルフはそこに居た。

 待たせてしまったことに少しの申し訳なさを覚えながら、声を掛ける。


「ごきげんよう、ウドルフ様。お待たせしまって申し訳ございません」


 背を向けていたウドルフがぱっと弾かれたように振り向いた姿に、アイリーンは息を呑んだ。

 たった二年、会わなかっただけの彼が、まるで別人のように大人びていたから。

 成長期だからなのか、男性だからなのか、ぐんと成長した姿はクラウスが成長した姿を思わせた。

 髪色に瞳、性格こそ違えど、見た目はさすが兄弟。似かよっている。


「ああ、アイリーン。君がくると聞いて、居ても立ってもいられなくてね」


 そう言ってアイリーンへと微笑みを向けるウドルフは、婚約者だとわかり最近また会うことが増えたクラウスとはやはり違っていて。アイリーンはここへきた目的を思い出す。


「あら、ありがとうございます。実はウドルフ様にお伝えしたいことがございまして」

「……なんだ?」

「クラウスとの婚約について、なのですけれど」


 アイリーンが切り出した話には、予想に反してウドルフは溜息を一つ落としただけであった。


「ああ、なんだ、その話か。もっと楽しい話だと良かったんだが」

「ふふ、申し訳ございません。ウドルフ様にもきちんとお話しておかなければと思ったものですから」


 ウドルフの反応に、アイリーンは気が楽になった。

 父が言うほど深刻な様子には思えなかったからだ。クラウスとアイリーンの婚約話をウドルフは理解しているではないか。

 一緒に遊んでいた頃のように、アイリーンは気の抜けた笑顔を見せたが、次のセリフに固まってしまった。


「君にも本当に迷惑をかける。わざわざそんな戯言を聞かされて、かわいそうに」

「……え?」

「貴族の務めもあるにはあるが、好きでもない男と一緒にならなくてはいけない決まりはない」


 アイリーンの身を案じてくれているのかもしれないが、ウドルフの提案はアイリーンにとって喜ばしいものではない。

 むしろ困るのだ。


「……そんな! 好きでもない、など」

「まさか、君は、クラウスのことを好きだと?」


 言い淀むアイリーンにウドルフの鋭い視線が刺さる。それは怒っているようであり、また悲しんでいるようでもあった。

 首を傾げながらアイリーンは本音で語る。まだ幼さの残るアイリーンは本心を隠すことを知らなかった。

 手を胸の前で合わせて、ふわりと笑う。


「……ええ! 婚約したと聞いて喜びましたもの」


 二年前、庭を走り回って遊んだ。

 まだ性別の違いがよくわかっていなかったのだ。兄やウドルフ、クラウスとともに、自分の役割も気に留めず好きなことをして過ごしていた。

 でも急に会えなくなって寂しく思って、突然教えられたクラウスとの婚約で理解した。


 わたくしは、クラウスを好いていたのね。


 それで舞い上がっていたのかもしれない。自分が嬉しいと思った婚約を全員に祝ってほしいと思ってしまった。

 正直に伝えたところで、祝うどころか、憎く思う人物がいることを予想できなかった。


「私が、君を愛していると言ってもか?」

「は、」


 予想もつかない言葉にアイリーンは固まった。戸惑ったように、

 その表情でウドルフは察したのだ。

 アイリーンが求めているのはクラウスで、自分ではないのだということを。


「……本当にあいつは、私の欲しいものばかり奪っていく……」


 おめでとう、と笑ってくれるものと思い込んでいた。

 ぼそりと聞こえたウドルフの呻きに近い声に、アイリーンは震えた。

 ウドルフの言葉を借りるなら、アイリーンを愛しているがために、ウドルフは、クラウスとアイリーンの婚約を、認めようとしていないのだ。


「あいつなんていなくなればいいんだ」


 そう言って鞘から抜いた剣を片手に歩き出したウドルフは、恐ろしい形相でクラウスの方へ向かう。

 何も考えずに、本音を晒す。それが兄弟の仲を裂くとも知らず──それは、幼かったアイリーンの罪。







「大丈夫かい。彼らは屋敷へ連れて行ったよ」


 ウドルフの剣からクラウスを助けてくれた男の人が手を差し伸べてくれる。

 アイリーンはみっともなく芝生に座り込んでいた。

 目の前に出された指先から徐々に顔を上げ、ゆっくりと瞳に映せば、そこには綺麗な顔の紳士である。


「……あなた、は」

「ああ。名乗りもせずすまないね。リーヴェル領当主ロイモンド・アーレンベルクだ。お嬢さんは、エーヴァルト家の?」


 ここはエーヴァルト家であり、そう思われても仕方のないことだった。


「……いいえ」

「ふむ。では、もしかして、フレンツェル家のお嬢さんかな?」


 すぐに言い当てる彼は、家の内情に詳しい人間であるようだった。おそらく父たちと面識があり、親しいのだろう。


「……何があったのか教えてくれるかい? ああ、もし秘密にしてほしいのであれば他言しない。……一人で背負うには重いだろう?」


 エーヴァルト家の長男が、次男に向かって真剣を振り回した。

 醜聞でしかないその事件の、真実を語れるのはおそらく自分だけだ。けれどその元凶は自分なのだ。自分の言葉ひとつで、クラウスが殺されるところだった。

 つ、とアイリーンの頬を涙が伝う。

 怖かった。ウドルフが弟を刺すこともクラウスが傷を負うことも、アイリーンがその全ての元凶となることも。


 アイリーンは止まらない涙をさらけ出したまま、少しずつ言葉にする。

 クラウスと婚約していること、ウドルフがアイリーンを愛していたということ、アイリーンがクラウスを好きなのだとウドルフに伝えてしまったこと。

 彼の言う通り、自分一人で抱えることはできない事件だった。


「わ、わたくしが、何も考えずに、伝えてしまったばかりに、彼は激昂してしまって、まるで魔物のような顔で」

「……ああ」

「わたくしがクラウスを好きなどと言わなければ、もしかしたら、」


 ウドルフもあそこまで怒ることはなかったかもしれない。クラウスを危険に晒すこともなかったかもしれない。

 たどたどしいアイリーンを急かすこともせず、最後まで話を聞いていたロイモンドは、顎に手をやって考え込んでいるようだった。

 しばらくして顔を上げたロイモンドは、悪戯っぽく笑う。


「そうか。じゃあ、私を隠れ蓑にしてはどう? 君が安心できるまででいい。一時的に逃げる場所が必要だと思うから」


 ロイモンドは冗談のように、これでも女性に人気のある方なんだよ、と片目を瞑る。

 たしかに目の前の彼ほど、顔の綺麗な男の人をアイリーンは見たことがなかった。


「んー、例えば。偶然通りかかった私が、剣を振りまわした兄弟喧嘩を軽く諫めたのを見て、ときめいたとかはどうだろう」

「え?」

「ほら、彼が怒ったのは、君が弟を好きだと言ったからなんだろう? その好意の相手が別の人間になれば、怒りの矛先は別の人間になるはずだ。少なくとも君に関することで弟に敵意を向けないだろう」

「え? でも、それでは、貴方が」


 クラウスのように敵意を向けられるかもしれないのに。

 震える唇で提案を断ろうとするアイリーンの頭を、ロイモンドはぽんぽんと撫でる。


「ああ、大丈夫。心配しなくても私は大人だし、強いからね。もし狙われたとしても傷一つ負わないよ。まあ、おそらく狙われることもないだろうけれど」

「どうして?」

「年齢差がありすぎるのさ。私には君と同い年の息子もいるしね。君が私を好きだと言ったところで本気の恋だとは思われないだろう。口先だけでいいんだ、正気じゃない彼の気を逸らすために。もちろん彼の気を逸らせるだけの演技力は必要だけれど」


 クラウスを守りたかった。ウドルフも守りたかった。

 そしてクラウスを諦められない。

 そんなアイリーンに付き合ってくれる大人の人を目の前にして、どれも手に入れたいアイリーンはこくんと頷いた。


「……君は少し、休んだほうがいい。辛い場面を見たね。すべてを自分のせいだなんて思わなくていい。君は何も悪くないから」


 あやすように頭を撫で続けてくれる大きな手のぬくもりを感じながら、アイリーンは音もなく涙を流す。


「……彼の怒った顔が怖くなくなることを祈ってるよ。この話も君の希望通り、父君には知らせないよ。もし力が必要な時はいつでも頼ってくれて構わないからね」


 アイリーンが落ち着くのを待って、彼は屋敷まで送り届けてくれた。

 アイリーンの泣き腫らした目を「少し驚かせてしまったんだ」と自分のせいにして謝罪までしていってくれた。

 立ち去るロイモンドの背中を見送り続ける。


「……ご当主様……」


 この日から、アイリーンはロイモンド愛を口にするようになったのである。

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