果ての渚

風のみた夢

果ての渚

 大気が鉛になったような気がする。肩と背中が重く、僕は風船がしぼむような溜息をついた。うんざりする。自分にも、他人にも。嫌になる。やるべきことは沢山あるのに、何一つやる気がしない。なにも、できていない。

 疲れていた。安らぎを求める場所もない。会いたい人もいない。暗く散らかった家に帰って、今朝起きたままのベッドに横になるのも嫌だった。

 あてもなく足を進め、知らない道をさまよう。犬が僕に吠え立て、首についた鎖を激しく鳴らした。体がすくみ、早足で逃げる。

 遠い所に行きたい。静かな、なにもない、宇宙の果てに行きたい。

 夕暮れに赤く染まった山の陰に太陽が消え、紺色の夜が蓋をしてゆく。ひぐらしの声が静まる。

 どこまででもいい、バスに乗ろう。

 水田を横切って伸びるあぜ道を歩きながら、そんなことを考えた。暗がりで何かが跳ね、稲がざわめく。僕はまたびっくりして足を速め、遠くに見える道路の明りに向かった。国道まで出ると、場所も方角も分からないまま道沿いに進み、バス停を探す。行き交う車やバイクは次第にまばらになり、周囲の住宅の明りが消えていった。暗いアスファルトに視線を落とし、ガードレール沿いを歩き続ける。

 斜面沿いのカーブを曲がると、明かりに照らされた標識がみえた。時刻表と丸いバス停の看板が、自動販売機の光を反射している。

 停留所のベンチに、僕は腰掛けた。冷たい風が、乾いた落ち葉を転がしていく。身体が芯まで冷えていった。上着をぎゅっと寄せ、背を丸めてうずくまる。目を閉じて、眠ろうとしてみる。自動販売機に、虫がコツコツと当たる音だけが聞こえた。

 そのまま、長い時間が経った気がする。とうに最終バスは出てしまったのかもしれない。

 モーターが止まる音が聞こえた。黒い石の塊のような車が僕の前にあった。ガスが抜ける音とともに扉が開き、赤いランプの灯った機械が整理券を吐き出す。

 バスだ。

 耳鳴りに似たノイズが機械から聞こえている。案内用のマイクが壊れているのかもしれない。ぼくは整理券を引き抜いて、後ろの座席に腰かけた。

 エンジンの始動する重い音に座席が揺れ、車はゆっくりと走り出した。幾人かの乗客がいて、バスが角を曲がるたびに乗客の頭が振り子のように振れるのだった。見知らぬ文字が刻印された整理券を握り、僕は窓に額をつけて眠った。

 目が覚めたとき、僕は窓の下に銀河を見下ろしていた。反対の窓を薄紫に照らしているのは、マゼラン星雲だろうか。車内を光で撫でながら、後方へと過ぎていく。星の下をくぐりながら、バスは幾つもの星団に立ち寄った。虫の羽音みたいなアナウンスが響き、押しボタンのランプが灯る。すると山道をくだるように弧を描いて惑星に降り、バス停に停まるのだった。その度に乗客がおりていく。

 やがてバスの中は僕だけになった。

 外の星は次第に少なくなり、黒いガスのトンネルに入っていく。水素の融合する微かな光が、時折車内をオレンジ色に照らした。幾度か目のアナウンス音が響いたとき、僕は押しボタンを押した。

 真っ暗な路に停車したバスは、ドアを開いて僕の降車を待つ。財布の中をのぞくと千円札が幾枚かと、五円玉と一円玉が入っていた。僕は両替機に千円札を突っ込む。宇宙数字で書かれた運賃表はよく分からなくて、僕はその文字を順番に数えてみた。小銭を指でつまみながら運賃箱を前にモタモタしていると、車掌が舌打ちした。

「すみません」。

頭を下げながら、千円札何枚かと五百円玉を料金箱に入れて、僕はバスを降りた。

 渚が、砂を濡らせながら砕ける波の音を響かせていた。砂浜だった。僕は足元の砂を掌にすくってみる。在るのか無いのかも分からないような粒が、指の間からこぼれ落ちた。その浜辺に、遠い星々の光が寄せては砕けていた。しばらく砂を踏んで歩いたあと、僕は波打ち際に腰を下ろした。細かな粒子がビーズクッションみたいに深く僕を受け止める。見渡せばにじんだ絵の具のように星団が広がっていて、それは僕の知らない場所のように思えた。

 しばらくすると砕けた光の海が満ちてきて、僕は足首まで浸かってしまった。仕方なく立ち上がり、暗がりの岩場を登って歩く。岩に打ち寄せる光が、青緑色や橙色に光っては消える。果てしなく続く星屑の海が、ぼんやりと七色に閃いていた。

 僕はただ歩き続けた。

 青白い星団に照らされた岬が見えたとき、そこに明りが灯っているのが分かった。岬に小屋が建っているのだ。近づいてみると、小屋は波しぶきに黒ずんで、風が吹くたびにガタガタと鳴っている。

 ぼくは扉をノックしてみた。しばらくの沈黙の後、重く軋んで扉が開く。不安げな少女が、隙間から僕を覗いていた。

「あなた、誰」

 ぼくは地球からここまで来たことを話した。わけも分からずバスを降り、行くあてもないのだと話した。

 後ろから潮風が吹き込み、部屋を走り抜ける。吊られたランプが揺れ、カーテンが巻き上げられた。

「入って」

彼女は僕を部屋にあげ、ドアを閉める。ぼくを椅子に座らせると、彼女はコーヒーを淹れ、そしてカップに注いだ。この場所のことを尋ねると、彼女はコーヒーをしばらく見つめていた。

「ここは果ての渚」

彼女は小さな声で答える。

「確率の果て、無いことにされた世界なの」

確率? ぼくはよく分からないまま聞いた。

「極限値の行きつく場所、ゼロにされた世界よ」

なるほど。分からないけれど、そういうものなのかもしれない。

「どうして、君はここにいるの」

ぼくは質問を変えてみる。

「私は、いない存在だから」

そうか。そう返事をして、僕は何と言えば良いのか分からなくなった。彼女ももうそれ以上話すことはないみたいで、あとは僕らがふたり、コーヒーをすする音だけが部屋に残った。

 外の風が静まると、波が寄せる音がかすかに聞こえた。彼女は席を立ち、壁に掛けてあった鞄をとって斜めにかける。

「ちょっと、出てくる」

少し振り向き、玄関を開けた。待って、と僕もその後を追いかける。小屋の横には幅の狭い階段があって、彼女はそこを一段ずつ、ストップウォッチの秒針みたいに降りていった。彼女の背中を見失わないように、僕は崖にすがって階段を降りる。

 十段ほど降りたとき、滑って足を踏み外し、僕は慌てて岸壁にしがみついた。その間に白く揺れる彼女の服が、闇にまぎれて見えなくなる。岩をつかみ足の触れる先を探って、慎重に海に近づいていく。潮騒のなかに降り立つようにつま先を伸ばし、ようやく地面にたどり着いた。

 僕は少し安堵する。海は先刻より少しひいていて、濡れた岩礁が現れていた。岩には微かに光る粒が溜まっていて、それは星の欠片みたいに見えた。彼女は岩の上にしゃがみ、それを拾い集めていた。

「本来この子たちには、対になる誰かがいるはずだったのよ」

プリズムのように光る粒を丁寧に掻きよせ、掌に集めながら彼女は言った。左手がいっぱいになると、彼女は鞄から白い麻袋を取り出す。

「正と負、陰と陽。相反する対称性を持って生まれ、弾け、宇宙に散らばっていくの。引き寄せあい、漂う他のものたちと集まって、様々な形を作っていく。ふつうなら、何にでもなれるはずだったのよ」

言いながら、集めた粒を袋の上で落とした。やせた手のひらから一筋の線を描いて、光の粒子が袋の中に納まっていく。

「でも、ここに打ち寄せられた子は、そうじゃなかったのね」

麻袋の口を紐で縛り、鞄にしまう。替わりに取り出した瓶に海の水をすくって入れた。

「対になるものがないまま生まれて、誰かと引き合うこともないままここに流れ着いた」

瓶にふたをすると、彼女は立ち上がる。

「行きましょう。またすぐに闇が満ちるわ」

 僕が這うように崖の階段を登っていると、彼女は岬の上からランタンの光を揺らしてくれた。その明りを頼りに、どうにか小屋にたどり着く。

「ありがとう」

そう言った僕の服はぐしょぐしょに濡れて、肌に張り付いていた。

「風邪をひくわよ」

彼女は小屋に入り、戸を開けて僕を待った。

 手にしたランタンを机に置いて、彼女はキッチンの奥に入っていった。僕は玄関に立ったまま、ランタンのなかで揺れる炎を眺める。チリリ、チリン、と鈴が鳴るような音をたてて、蒼い炎が光って弾けた。ランタンのタンクを鈍色に照らし、机や壁や天井に家具の影を躍らせる。

 きなりのワンピースに着替えた彼女が、畳んだ服と麻袋を手に戻ってきた。

「着替えたら」

と服を僕に渡し、彼女はランタンの横に麻袋を置いた。袋の布越しに、蒼い光が洩れ出している。彼女はランタンのタンクについたキャップを指でひねって外した。次に袋のくちを開くと、小さな匙で粒をですくい、タンクの中に入れる。リリリリ、リリン、とランタンが鳴って、光が幾分明るい紅に染まった。粒が弾け、真鍮の容器の中でぶつかっているようだ。僕は濡れた服を脱いで着替えながら、その様子を眺めた。

「ちゃんと光るんだね」、と僕は言った。

「ちゃんと、あたたかい」。

そうね、と言って彼女はランタンを手に持ち、椅子に上る。

「光ろうと思えば、光れたのかもしれない」

言いながら天井に手を伸ばし、引っかけ金具にランタンを吊るした。

「光りうる光を光らせられない場所に、生まれてきてしまったのかしら」

 半袖のシャツに腕を通したとき、白い袖口に赤い染みが付いた。さっき海へ降りる途中、肘を擦りむいていたみたいだ。

「怪我、してるわね」という彼女に、大丈夫、と僕は答える。

「汚してごめん」

腕を上げ、袖の汚れを確認しながら僕は言った。彼女はキッチンに行くと、棚を開いて硝子のボトルを取り出した。

「じっとしてて」

僕の肘を持ち、傷口を確認しながら彼女は言う。

「海の水を精製したものよ」

ボトルの蓋を開け、傷口に寄せてそっと傾けた。冷たい水が皮膚をつたう感触に、腕が少し震えた。痛いの、と彼女に聞かれ、「大丈夫、痛くはない」と答える。

 水の雫が傷口のうえに薄く留まり、油膜が張ったようにみえた。血と混じり、ぼんやりと光る。しゃぼんのように色と形を変え、やがて白く光ると、そのまますうっと色が褪せて、肘から傷がなくなった。

「あれ」と言って、僕は自分の肘に触れてみる。やはり傷はなくなっていた。彼女も不思議そうに見ている。

「魔法みたいね」

とつぶやいた。

「水に溶けている粒子が、あなたの存在に干渉して形を変えたのかしら」

首を傾げ、探るように彼女は話す。

 彼女はボトルを持ってキッチンに戻ると、髪を上げて紐で縛った。棚を開いてボウルを取り出し、そこに麻袋の粒を匙で何杯か入れる。ボトルの水を注いで手でこねると、ジャリ、ジャリ、と砂の潰れる音がした。やがて粘り気をおびた生地になり、彼女の手首に付いて仄かに輝く。生地をちぎり両手で包んで転がすと、指の間から黄色や赤のネオンみたいな光がこぼれた。光る団子を五つこしらえて皿にのせると、テーブルの上に運ぶ。それはもう輪郭もなく、ぼんやりと輝く光の玉だった。

「あなたもどうかしら」と言う彼女の意図が分からなくて、僕は首を傾げた。彼女は椅子に座り、指で光球をつまむと、自分の口に運んだ。赤い輝きが唇に付き、それを舌で舐め取る。

頬があたたかく光り、喉がこくんと音を立てる。長い髪が、ふわりと輝いた。

「食べられるんだ、それ」

珍しい食事を、僕は驚いて見ていた。

「ひとつ、食べてみてもいいかな」と聞くと、どうぞと彼女は答える。

光の玉を摘まむと静電気みたいな感触がする。恐るおそる、かじってみる。ザリ、と砂をかむ感触がした。海水でこねた砂粒の味だ。手に持っていた玉までも灰色のかたまりに変わり、僕の手の中で崩れる。

「口に合わないのね」

という彼女に、僕は頷いて答える。彼女は桃色に光る団子を食べながら、なにか思いついたような顔をした。

「さっきみたいにさ」僕の肘を指さしながら言う。

「あなたの想うものをイメージすれば、形になるんじゃないの」

にわかにそう思えなかったけれど、彼女の言うとおり、僕は何かを想像することにした。

 彼女が炊き立ての米に水をつけて、具を入れておにぎりを握る。そんな想像をして玉をつまむと、それはおにぎりになっていた。あたたかく、なかに梅が入って酸っぱい、美味いにぎりめしだった。

「なにそれ」と彼女が言うから、おにぎりだよ、と僕は答える。

「私にもひとつ作って」

そう言われて、僕は皿に残った光の球をおかかのおにぎりに変えた。彼女はそれを一口食べると、いぶかしそうな顔をして「こんなの食べるの」と少し笑った。

 食事を終えてベッドで寝ていると、ガタガタと窓が鳴った。

「風が強くなってきたね」と僕は言った。

かたまりのような空気が窓を打ち、隙間から吹き込むナイフのような風がカーテンをひるがえす。天井から下がるランタンが揺れて、明りが、ふ、と消えてしまった。

「闇が来るのよ」

彼女は布団を頭までかぶり、丸く小さくなっている。壁を抜けるように、隙間風が流れ込んでくる。空気の震えが甲高い音をたて、柱と屋根を揺らし軋ませた。

「大丈夫だよ」

僕は彼女の背中にそっと手を当ててみる。

「あなたは何も知らないから」

強張った身体で、彼女は呟くように言った。風は勢いを増し、飽くことなく家を揺らした。カーテンもテーブルも椅子も揺れ、棚は食器がぶつかる音を響かせる。本当に小屋がつぶれてしまいそうだ。僕は彼女の背に触れたまま、ベッドに腰かける。

 窓の隙間から、青いもやが入ってきた。インクを水に溶かしたみたいに、空気をにごらせてゆく。蜘蛛の糸みたいにまとわりつくもやを、僕は手ではらった。けれどそれは消えることなく、次第に部屋を染め、暗みを帯びていく。ベッドや布団、床の上にも広がり、染み込んでいく。もやのついた物は、暗がりと見分けがつかなくなる。触れると、ぬめるような不愉快な感触がした。ベッドに触れても、床を踏んでも、布や板の感触が失われていた。

 輪郭のない闇のぬめりが皮膚を包んでゆく。何もかもが曖昧になっていく。全てが輪郭を失っていく。

 僕は彼女の腕を探り、手をつかんだ。

 その手が僕を握り返した。

 それが全てだった。にぎった手を頼りに、彼女を抱きしめる。細い身体がおぼろげに感じられた。

「私は、いない存在だから」と彼女は言った。

「初めから、何処にもいなかったのよ」

風の音にまぎれそうになる彼女の声が、かすかに聞き取れた。

「きみは、ここにいるよ」僕は言った。

「僕と、いま、ここにいる」

願うように言葉を吐いた。

 彼女がいることを、分かりたかった。僕がいることを、伝えたかった。なにか、彼女が言ったような気がした。けれど、ラジオのチューニングが合わなくなっていくように、声は聞き取れなくなってしまった。繋いだ手の感触も、分からなくなってしまう。

 握りしめた手のなかに残る彼女の感触を追うように、ありがとう、と僕は呟いた。

 気が付くと僕は真っ暗ななかにいた。何も見えないし、何も聞こえない。いつからそうしているのか、よく分からなかった。長い間そうしていたような気もするし、ついさっき来たばかりのような気もした。

 歩いていた。感触のない足場を踏んで、重い足を進めた。

 そのうち、道路を照らす二つのライトが近づいてくるのが見えた。僕の前を横切るように停まると、ガスの抜ける音とともに扉が開き、虫が飛ぶような音で整理券を吐き出す機械が動いた。

 乗客は誰もいなかった。後ろの席に座り、窓に額をつけて外をながめる。辺りをおおう星間塵が、バスのライトで灰色に染まる。曇った闇の隙間から、時折、遠い星団が煌めいて見えた。

 ぼくは独りだった。最初から独り、暗がりのなかを生きていた。遠くに見える煌びやかな景色を、憧憬や嫉妬とともに眺めてきた。

 慟哭のようなため息をついて、眼を閉じる。底のない孤独が、僕を包んでいく。救いのない闇のなかに、最初から居たのだ。寂しさに、胸の底まで冷えてしまう。うすく目を開けて、指で涙を拭う。

 後方に、小さな星がみえた。

 宇宙の果てに消え入りそうな、微かな星だった。光を放つには小さすぎる。それでも自分の質量をエネルギーに変えて、身を焼いて光っている。そんな星だった。消えそうな声で、私はここにいます、そう言っているような気がした。

 目を凝らして光を追ったけれど、塵に遮られ、すぐに見失ってしまった。

 降りたバス停は、港の堤防のそばだった。くもった夜の海は空との境界がなく、一面の闇に船の明りだけを揺らせていた。繰り返す波の音が、岸壁まで潮の満ちていることを僕に伝える。海は何もかもを飲み込んでいきそうだった。堤防の縁に腰掛け、僕は船の明りを眺めていた。

 やがて空が紺色に色づき、海岸線に茜色がさす。雲と、海と、世界が色づいていく。いつまでも眺めていたかった。もう何処にも行こうとは思わなかった。

 僕はここにいる。

 胸の奥で、そう繰り返した。

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