第10話

2月2日。水曜日。


津島さんイチオシのラノベ『東方帰譚』を読み始めた。

ずっと読書は紙媒体だったが、たまたま津島メモにあった『Re:ゼロから始める異世界生活』と『転生したらスライムだった件』がKindleだとセール中だったこともあり、一昨日、「まあたまには」と軽い気持ちで電子書籍も良いかとダウンロードした。

まず『Re:ゼロから始める異世界生活』を普段は仕事でしか使わないiPadで読んだ。

なんかめちゃくちゃ読みやすい。

iPadの紙の質感を持った画面を言っているのではなくて、文章が読みやすかった。

サクサク読める。

あれよあれよとページが進む。

物語の割りと序盤、一回目の時間のループ(作中でいう『死に戻り』)のあたりで、俺はようやくその読みやすさの秘密に気づいた。


文章がほとんど『完全な口語体』になっているのだ。

数学は数IIで挫折し、以降の人生を文系として生きてきた文学部卒の俺だ。小説の文章スタイルに関してはそれなりの勉強はした。


日本の小説は、明治時代以降のものが『近代文学』と呼ばれている。

「近代」なんて、ちょっとばかり大ざっぱな分類な感じがするけど、日本の文芸の歴史の中では、夏目漱石も森鴎外も、現代の村上春樹もひっくるめて『近代文学』の作家の一人と扱われるのだ。

これは「明治の文明開化=日本の近代化」ということでもある。

明治時代になって日本の文芸もまた文明開化したという理論だ。


で、俺がその通称「リゼロ」をびっくりするくらいサクサク読めた理由はたぶん、その明治時代の文芸シーンに起きた「とある革命」にある。


その「とある革命」は日本の小説史の中で、『言文一致体運動』などと呼ばれてる。漢字七文字。パッと見、中国語に見えるがこれも立派な日本語だ。

現国でも出てくるから、名前は有名だと思う。

けど、多くの人がその名前しか記憶してないのと同じように、俺も文学部に入って毎日のように文学周りの勉強をするようになるまでは、その具体的な意味がよく分からなかった。


「とある革命の言文一致運動」

この真の意味を理解するには、昔の日本語を思い出すだけで済む。

ちょっと不謹慎かもしれないが、すごく有名なものなので、あの、昭和天皇の読み上げた『玉音放送』を思い出してもらいたい。

特に有名な一文。

「耐え難きに耐え、忍び難きを忍び、以て万世の為に太平を開かんと欲くす・・・・・・」

めちゃくちゃ古風だ。

特にこういった政府が発表するような文章ほど、古風を通り越して、ほとんど「漢文」の「読み下し調」になっている。


昔の日本語は基本的にはようするに、「漢文の読み下し調」がデフォだった。

例外として夏目漱石が影響を受けた江戸時代のベストセラー作家・井原西鶴みたいな人もいるけど、基本は漢文調。

そこに文明開化が起きた。

小説の文章が「漢文の読み下し」から「喋り言葉」にシフトした。

それが『言文一致運動』だ。


明治時代の文豪でロシア文学の翻訳家だった、二葉亭四迷の小説『浮雲』あたりがよくその代表作と言われている。

その「革命」は文芸の世界を飛び出して、すぐに「新聞」や「公文書」にも採用され、日本の文章の書き方が大きく変わった。勉強すればするほど、四迷たちの活動は本当に大革命だったと思う。


『リゼロ』や、その次に読んだ『転スラ』の文章を眺めながら俺は、

「その意味では、明治時代の革命を現在も行っているんじゃないか」

とまじめに考えてしまう。

俺の普段読む小説、いわゆる『文学』なんて堅っ苦しく呼ばれる分野は、今でもちょっと小難しい文章のものが多い。

「ザ・小説」って感じの文だ。

それに比べて『リゼロ』も『転スラ』も、圧倒的に読みやすい。

理由はきっと、その文章が出来る限り「口語調」、言文一致体で言うところの「言(喋りことば)」にされているからだ。


ここまで口語体の文章は、以前の日本の小説にはほとんどなかったと思う。

だから俺は新しい革命に鉢合わせしたという驚きと読みやすさで、あっという間にその2冊を読み終えた。

ネットフリックスにアニメ版も来ているようなので、次の土日は一気観するつもりだ。

あと津島さんの読書記録にあった『無職転生』『幼女戦記』『ソードアート・オンライン』『この素晴らしい世界に祝福を!』『蜘蛛ですがなにか?』『オーバーロード』も気になる。全部アニメ化されてる。まじか。ハマったらこれ、絶対に底なし沼だぞ。


で、今日。

俺はリモートワークで、またしても突然フリーズしたあと通信途絶した部長、指示とまったく違うことをするDTに胃をムカムカさせながら、ある大きな企業から受注したプログラムの作成をこなしていた。

最近本当に思うことだが、こういうプログラムを組み立てる仕事は俺や多和田、あと2、3人の腕の立つメンバーだけでやった方が明らかに速い。

ていうかプログラムを作るのがプログラマーなんだから、他の奴らは何をやってんだよ?

この前なんか今年42歳になる先輩の村本さんと一緒にある案件を担当することになったのだけど、村本さん、マジで何もしない。

部長に報告する時だけは「順調に進んでいます」と堂々と言うのだけれど、あいつ、マジでなんもしてない。

しかも初めから分担作業になっているので、俺が自分に与えられた仕事を二日で終えてDTのサポートをしている間も、村本さんは「順調」を繰り返すだけで、何もやっていなかった。

堪えかねて一度、

「あの、本当に仕事進んでるんですか?」

と尋ねたら、村本のやつ、無言で固まって、あれ、画面フリーズした? と俺の脳が錯覚した頃、

「順調」

真顔で言った。

「嘘だろ?!」

俺は心の中で叫んだ。

同時に凄まじく嫌な予感がした。

その嫌な予感は当たり、仕事の期日の前日の午後になって突然、

「なあ、浅井くん、ちょっと手伝ってくれないか?」

言ってきた。

うわ、来た!

そう思った。胃が痛くなった。

「どこまで出来てるんですか?」

俺は胃の不快感をなるべく顔に出さないよう、そう尋ねると、

「いやぁ、ほとんど」

困った顔で首をかしげられる。

なんでそんな顔するんだよ。

困るのは俺のほうだろ!

けっきょく、その日は徹夜で村本さんの仕事を片付けるはめになった。

しかし翌日、部長と三人だけでzoomで繋いで仕事の完了を報告した際、村本さんは堂々と、

「二人で完成させました」

そう言いやがった。

うそつけ!

俺の心が叫んだ。

95パーセントは俺の仕事だろ!


けど、社畜とはそういうものだ。

今ではもう諦めている。

きっと今度も俺が徹夜する羽目になるのだろう。なぜか部長は俺にばかりその尻拭い役とでもいう仕事を回してくる。

それでも無理そうだったら、工学科卒のオートマトン系女子の多和田や、一人キャンプが趣味で外見はラガーマンにしか見えない渋澤先輩も巻き込もう。二人には迷惑かもしれないが諦めてもらうしかない。だって悪いのは俺じゃないんだから。


「あとは自分でやれ」

俺はまた手作りしている途中のプログラムがエラーに見舞われてパニクっていたDTに、論理的におかしな部分を修正したものを返して言った。

「さすが先輩!ウチの部署が誇る我社のジョン・ペトルーシ!」

「知らねえよ、その人」

「やだなあ、ドリームシアターのギタリストじゃないですか!」

DTが、何を当たり前のことを、と言う声音で返してくる。

当たり前の知識じゃねえよ。

「圧倒的なテクニック!まるでピアノを弾くような華麗な速弾き!それもそのはず、彼はアメリカを代表する名門音大バークリー音楽院を卒業したギタリストですからね。先輩の仕事人としての姿を例えるのにこれほどピッタリの人物はそういませんって」

「絶対もっと他にいるだろ」

褒められているのに例えが不可解すぎてちっとも嬉しくない俺はため息を吐いてから、

「それよりお前、野矢茂樹の『入門!論理学』は読んだのか?」

「あっ完全に忘れてました。で、何の本でしたっけそれ?」

DTがとぼけた声を出したので、イラッとした俺は、

「論理学の本だろ。お前のコーディングはよく論理的に破綻してるからそれ読んで勉強しろって言ったんだよ!」

つい怒鳴ってしまう。

しかしDTはケロッとした声で、

「あー。なんか言ってましたねぇ」

とまるで他人事だ。

ダメだこいつ。

また胃が痛くなってきた。

「ところでもうお昼過ぎてますけど、先輩はご飯食べないんですか?」

パソコンの時計を見る。もう昼の1時前だ。昼飯にしようと椅子を立ちかけたところでこいつに泣き付かれたのだから、腹が減ってるに決まってる。

「お前のせいだろうが」

俺が押し殺した声で言うと、

「あっすみませーん。じゃ昼にしましょう。僕、今から王将行ってきますね」

言うが早いか通信が切れた。

おーい。

お前、礼も言ってないぞ。


「なんだよマジで」

俺は肩でため息をして、それから椅子を立った。

リモートワークでは、特に昼食の時間は定められていない。時間がある時に食えということだ。

そのシステムを悪用してなかなか帰ってこない奴もいる。

DTがそれだ。

「いやー王将が混んでて」

だいたいその言い訳をする。

でもあいつの家の近所に王将はない。あまりに奴の近所の王将が繁盛しているので、DTの最寄り駅の当たりをGoogleマップで一度見てやったら、その周辺に王将などなかった。

あったのはガストとサイゼリアぐらいのものだ。

あいつは車どころかバイクも持ってない。たぶん今頃、自宅でカップラーメンでもすすりながら大音量でドリームシアターを聴いているのだろう。

今度一回問い詰めてやろうか。

そこまで考えたところで俺の腹が鳴る。

だめだ。

俺もラーメン食おう。

俺はそう思って階段を下り、キッチンで「サッポロ一番塩ラーメン」を作った。

このラーメンの俺流のいちばん美味しい食べ方は、炒りごまをたっぷりかけて、そこにカリカリの梅をポンと乗せる。

このカリカリ梅を一口かじってスープをすすると、パッと梅の香りと爽やかな酸味が口の中で溶け合って何とも言えない美味さに化ける。

ダイニングテーブルに並ぶラーメンとご飯。

ダブル炭水化物。

これぞ体力が資本たる現代の奴隷・社畜の最良の友だ。


俺はiPadを卓上に立てると、ラーメンとご飯を食べながら、津島さんイチオシの『東方帰譚』の続きを読み始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る