第9話
2月1日。火曜日。
不毛な会議の翌日。
夕方の六時頃、リモートワークの仕事を終えた俺が仕事関係以外では滅多に使わないKindleで本を読んでいると、
ポーン
と玄関のチャイムが鳴った。
チャイムまではリノベされていないので相変わらずちょっと気の抜ける音だ。
階段を下り、マスクを着け、玄関のドアを開けると、
「こんばんは」
頭を下げる女性が立っていた。
頭がすっくと上がる。
紺色の夕闇を背景に、夜と同じ濃紺色の制服を着、マスクをしている顎まで柔らかく埋まる分厚い白のマフラーを首に巻いた津島さんだった。
「あっ、こんばんは」
仕事が終わり部屋着の黒のジャージに着替えていた俺は、彼女に比べてだらしない格好だったので、前回のことを思い出してぎこちなく笑った。
が、今回の津島さんはそんなことを気にする素振りも見せない。
頭をあげるなり、開口一番こう言った。
「あ、あの、もう一度『六の宮の姫君』を貸してもらっていいですか?!」
目が明らかにキョドってる。
俺はその瞬間彼女の本心を理解してしまった。
「ひょっとしなくても、挟まってたメモ・・・・・・だよね?」
そう聞くと、津島さんの表情が完全に固まる。全身の動きを停止したまま、見開かれた大きな目だけが激しく震え始めた。そして、
「ぎゃああああああああああああああああああッ!!!!!」
俺の知っている津島さんとは思えない、鶏の断末魔にしか聞こえないかな切り声で絶叫した。
「見たんですかぁッ?!?!?!」
そう聞いてくる。
「ちょっ、声大きいって!」
俺は勘違いした彼女の家族か近隣の住民に通報されないかと焦りながらたしなめた。
だが彼女は大きな目をさらに剥き、俺のジャージの胸元を両手でがっしり掴んでくる。
「見たんですかぁッ?!?!?!」
また同じ台詞を叫んだ。
「それ再放送だよ!」
そう教えると、津島さんはハッとした顔で一瞬体の動きを固め、それから正気に戻った様子でさっと手を離した。
「す、すみません、わたし、興奮しちゃって」
言って一歩下がり、肩で大きく息をする。
濃紺の闇の中で玄関の明かりに照らされた彼女は、呼吸する度に濃く白い息をマスクの頬の隙間から吐き出した。
蒸気機関のように蒸気を出して余分な熱の放出がすんだのか、正常な呼吸に戻り同時に冷静になった津島さんは、改めて俺を見上げた。
ちょっともじもじした感じで尋ねてくる。
「あの、わたしの大事なあれ・・・・・・見たんですか?」
その言い方だと俺が君に変なことしたみたいだから辞めて。
そう言いかけて、その言葉を飲み込む。
今は周りに誰もいないから、そこはまあ、いちいち突っ込まなくていいだろう。
「ごめん、見ちゃった」
正直に答えると、一瞬で津島さんは夕闇の中でも分かるほどマスクから覗く頬を真っ赤に上気させ、背を丸めて目を伏せる。
小刻みに肩を震わせながら綺麗な両手で顔をふっと覆い、嗚咽のように言葉を洩らした。
「もう・・・・・・文学部に行けない」
「いや、そんなお嫁に行けないみたいに言わなくても」
今度は突っ込んだ。
「本気で言ってるんですか?!」
津島さんはガバッと顔を上げ、涙で赤く潤んだ目で俺をまっすぐ見てくる。
俺は彼女の肩をポンと叩いた。
「えっ?」
というその表情に向けて俺は笑みを作る。そしてなるべく優しいトーンで言った。
「大丈夫。ライトノベルも文芸だから」
その言葉を聞いた瞬間、玄関の照明の加減だろうか、今まで涙に濡れていた津島さんの暗い瞳にパッと光が点った。
「わたし、作家になりたいって言いましたけど、本当は・・・・・・ライトノベル作家になりたいんです」
場所を寒い玄関先から俺の家のダイニングテーブルに移し、彼女の話を聞く。
昨日、彼女から返してもらった本からヒラリと落ちたメモ。
そこに書かれていた読書記録のタイトルは『六の宮の姫君』を除いて、全て、ライトノベルとかキャラクター小説と呼ばれる、若者をターゲットにした文芸作品のものばかりだった。
もともとその分野に明るくない俺は、見慣れないタイトルばかりなことに首をかしげ、とりあえずググッてみたのだ。
するとスマホの画面に表示されるのは全部マンガ風の表紙の小説ばかり。
適当にそのうちの一作の詳細をググッて始めて、それらがいわゆるライトノベル、またはラノベと略される小説であることを知った。
書店で見かけたり、Amazonのおすすめで出て来たりしていたので、ライトノベルという存在を知らないわけではなかったのだが、まじめに向き合うこともこれまでなかったので、ほぼノー知識だった。
「別に言ってくれたら良かったのに」
椅子に座って淹れたての紅茶のカップを包むように手にし、ライトノベル作家になりたいという夢がバレたことをまだ少し気まずそうにしている彼女に、俺はあたう限り優しく言った。
すると津島さんはバツが悪そうに目をキョロキョロさせながら、
「だって・・・・・・文学部出身の人にそんなこと言ったら、笑われるんじゃないですか?」
俺は驚いた。
意外な理由だった。
「全然そんなことないって。だって俺の学部の同期の男子で、喋ったことはなかったけど、在学中にライトノベル作家デビューした奴いたし」
なんて名前の奴だったかなと思い出す努力をしつつ、そう教えてあげると、
「在学中?」
軽く身を乗り出す津島さん。
「う、うん」
「なっなんて名前の作家さんですか?!ア、アニメ化してますか?!」
また声が荒ぶっている。
この娘の前世、ひょっとしてスサノオノミコトだったんじゃないの。俺は本気で疑う。
スサノオのスサは「荒々しい」というような意味の和語だ。
女性なのでスサ子とか丁度いいかもしれない。
「ごめん、本名も覚えてないし、ペンネームも分かんない」
申し訳ない顔で俺が謝ると、スサ子、じゃなくて津島さんは、
「そうですか」
残念そうに肩を落とした。
でも嬉しい事実を知ったのは本当のようで、
「じゃあ、ライトノベル作家になりたいから文学部に進学したいっていうのは、別におかしくないってことですか?」
「おかしくはないと思うよ」
俺は頷いてから、けど、と疑問を口にした。
「ライトノベル作家になりたいとしても、別に文学部を出なきゃダメってことはないんじゃない?」
文学部出身ではない小説家は少なくない。
ノーベル文学賞の候補だった安部公房という作家は医学部卒だし、あの三島由紀夫はたしか法学部だったはず。
というか最近の人気作家を頭の中で思い浮かべても、ミステリー作家の東野圭吾や宮部みゆき、あと森見登美彦や万城目学なんかも文学部卒ではなかったと思う。
「あ、それは・・・・・・その」
そこまで言って彼女の言葉がしりすぼみになる。
無理やり理由を聞きたいわけじゃないので、俺はすぐ話の方向を少し変えた。
「あっそうだ忘れてた、津島さん」
「はい?」
「あのメモにあったライトノベル、今読んでるよ」
「えっ、ええっ?!」
目を丸くして可愛らしい声を上げる。さっきの鶏の断末魔とはえらい違いだ。
「ど、どのラノベですか?!」
「たまたま電子書籍版がセール中だったから、三作品の第1巻を買って、いま二冊目読んでるとこなんだけど・・・・・・」
「で、そのタイトルは?!」
両手を卓上にバンッと突いて顔を寄せてくる。また荒ぶり始めてる。
スサ子になりかけている。
ちょっと顔と距離を取りたくて仰け反りながら俺は答えた。
「えーと、昨日読んだのが『Re:ゼロから始める異世界生活』で、今半分くらいまで読んだのが『転生したらスライムだった件』です」
凄い圧迫感に思わず丁寧語になった。
ひょっとしてオタクの子って、趣味の話する時はみんなこんな感じなのか?
津島さんは卓上にほとんど上半身を乗り出し、芸をしているアシカみたいなポーズで俺の目を至近距離で覗き込む。完全にギラギラしたスサ子の目だった。
「どちらも異世界転生もしくは転移ものの代表作ですね!な、内容はどうでした、おもしろかったですか?!」
「あ、うん。読みやすかったし、子供の頃はジャンプ読んでたから、ああいう世界観がちょっと懐かしくて一気に読んだよ」
「よしっ!」
スサ子がひとりで小さくガッツポーズを決めた。自分の好きな作品に好評価を貰えて嬉しいようだ。でもそれ、ひとりでいる時にやるやつじゃないかな。
そう考えて思わず苦笑していると、
「あと一冊は?」
俺はもうこれ以上のけぞれないという程背もたれに背中を反らせた、限りなく息苦しい状態で、
「えーっと、『東方帰譚』・・・・・・です」
スサ子だった目の色が変わる。
何かが彼女の内側で動いたのだと分かった。
ふいに嬉しそうに目を微笑ませた津島さんの手が、すっと、俺の手に触れた。
反射的にびくっとしてしまう。
これが同じ手なのかと思うほど柔らかな掌だった。
そのふかふかとした掌が俺の両手を外側から掴み、そのまま彼女の胸の前まで持っていかれる。
そこでお祈りみたいにひとつに合わせられた俺の男の硬い手を、津島さんの暖かな両手が、ふわりと包み込んだ。
「浅井さん。それ、わたしの1番のおすすめです。絶対に読んでくださいね」
ぜったい、に彼女は力を入れる。
俺はほとんど何にも考えられないまま、ただ小さく頷いた。
「ちなみに、どんな話なの?」
ぼんやりしているのを悟られないよう、平静を装って咄嗟にそう尋ねると、
「ネタバレになっちゃうから秘密です。読んでからのお楽しみですよ」
と満面の笑みで返される。
俺はまた、彼女の笑顔に頷き返した。
東方帰譚。
津島悠花の一番好きなライトノベル。
俺は心の中でその言葉を反復した。
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