第8話
会議が終わったあと多和田と不毛なやり取りをした俺は、午後の三時には家に帰っていた。
無駄な会議。融通の利かない次世代型オートマトン多和田。そして30歳目前の身にはちょっとばかりきつく感じられる坂。
それらの与えてくる疲労でクタクタになった俺は帰宅するなりシャワーを浴びると、お歳暮のアサヒスーパードライを冷蔵庫から取り出し、一月の寒さも構わずパンイチのまま台所に立って一息で半分以上飲み干した。
酒を飲まずにやっていられるわけがない。
「ああッ」
生き返る!
心の中で叫んで、肺いっぱいの空気に今日の嫌なこと全部を乗っけ、
「くはァ」
とアルコールの息を吐き出した。
社畜は辛いよ。
あの老害どもには早く寿命が訪れて欲しい。いやほんとマジで。もし呼ばれても絶対葬式には出ない。
「誰かさんが丸投げした仕事が永遠に片付かないんです」
とか何とか笑顔で言ってやる。
俺は汗を流し多和田の歳暮の酒を飲み終えると、少しは疲労が回復した気がした。
それでも完全ではない。
今日はもう今から寝てやろう。
俺はそう決めて、ダラダラした生活を送っていた大学時代に戻ったように、まだ日がある内にベッドのある2階に向かった。
1階は割りと殺風景だが、二間ある2階の部屋はどちらもそれなりに生活感に満ちている。
南側に面した日当たりの良い方がベッドのある寝起きする部屋で、フローリングの床に仕事用の机を置き、仕事用のパソコン、通称プログラマー椅子とか呼ばれている、どことなくSFのロボットの操縦席にも見える腰に優しい椅子を置いてある。
それから小さめのソファ。
ネットフリックスを繋げるための大き目のテレビ、壁に備え付けのクローゼットがある。
もうひとつの北側の小さい部屋には、壁一面に本棚を並べ、勝手に「書庫」と名付けている。
もっとも、DTなんぞにバレたら「書庫?先輩、自分でそんな大層な名前つけてるんですか!?」とか言われそうだから、絶対にこの話は会社ではしない。
「あ、そうだった」
ベッドに横になった瞬間、俺はもう一度体を起こす。
「くそ」
と毒づきながら、パソコンの前に座った。
会議に臨む前に部長から、「帰宅したらすぐ今日の会議の内容をメールで報告するように」と命じられていたのだ。
一緒に会議に出たのだから報告もあったものでは無いだろう。
谷山部長は部下に何でも報告させるのが好きだから、こうして会議の度に報告と称して結論をまとめたメールを俺に送らせているのだ。
まぁ実際は谷山部長が自分の理解力に自信が無いだけで部下に頼ってるだけだと薄々感じているけど・・・・・・。
ちくしょう!
カッカした頭で五分ほどかけて会議の結論を要約した文を作り、送信する。
俺も伊達に社畜歴を積んできたわけじゃない。
腹を立てながら書いても文章の方は冷静そのものだった。
こういうところをマジで誰かに褒められたい。
「はぁ」
俺はまた重い疲労を全身に感じて、深いため息を吐く。
まぁいい。今日の仕事はこれですべて終わった。社畜に一番必要なのは、あらゆる理不尽を全身で受け止め、そのまま受け流すことだ。
今度こそ寝よう。
寝たら体も気分も良くなるだろう。
俺はそう考えて、あらためてベッドに就こうとパイロットシートのような椅子を立ち上がった。
と、その時。
パソコンを置いている机の端に積んだプログラミング関係の書籍の一番上に、まったく仕事とは関係の無い本が置いてあるのに気づく。
イラストが表紙の文庫本。
『六の宮の姫君』
二日前の土曜日に、津島さんから返してもらった後、書庫の本棚に戻すのを忘れ、ここに置きっぱなしにしていたみたいだ。
俺にとってこの本は大学の卒論を助けてもらった大事な作品なので、寝る前にちゃんと元に戻しておこう。
そう思って手に取ったが、つい指が滑って雑な手つきで掴んでしまう。
イラストの描いてある表紙の表と裏を親指と他の指で挟むべきなのに、親指がページの真ん中辺りにズボッと入ってしまった。
「わっ」
俺は慌てる。
この掴み方はページを損なう最悪のやり方だ。
わざとではないが、読書好きとして普通にめちゃくちゃ焦った。
即座に指を抜き、ページをパラパラとやってどこか破れたりぐしゃぐしゃになっていないか確かめる。
その時、何か見慣れないものが床の上にハラリと落ちた。
「何だ?」
思わずページのダメージを確認していた手が止まる。
屈んで落ちたものを拾うと、しおり、というか無地の白い紙にびっしりと字を書き込んだものだった。
字は丸っこく、その黒色は質感的にボールペンによるものだ。
まったく見覚えのない紙だったので3秒ほど頭がフリーズしてしまったが、直ぐに、
「あっ、津島さんのだ」
と思い至った。
たぶんしおり代わりに挟んでおいた紙の存在を忘れて、そのまま俺に返却してしまった、というところだろう。
俺は人のメモを勝手に見るのは失礼だと分かっていたが、内容(授業内容のメモとか)によっては出来るだけ早く返した方がいいという考えが勝ち、気は引けたが、とりあえず文字列を見ることにした。
「ん?」
メモが逆さになっていたので、1番上の文字の列を見たつもりが、1番下を見、見覚えのある字の並びに気付いてメモをひっくり返すと、やっぱりそうだ、
〈「六の宮の姫君」読了/1・29〉
そう小さな字で書かれていた。
他の文字列も同じような感じだ。
何かのタイトルらしいものと「読了」の二文字、そして日付けらしい数字。
全部そうだった。
あー、と思う。
津島さんの読書記録だ、これ。
その事に気付いた俺は、本当は良くないこととは知りつつ、ついそこにある本のタイトルを目で追ってしまった。
読書好きにはある事だと思う。
他の人がどんな本を読んでいるのか、無性に気になるのだ。だから書店員さんの手による「おすすめポップ」はめちゃくちゃ気になる。
もし、他人が自分の読んだ本と同じ本を読んでいたら不思議なほどテンションが上がるのだ。
「ええっ、あなたも中上健次の短編集『千年の愉楽』を読むんですか奇遇ですね?!あなたはどの話が好きですか、ちなみに私は〈天狗の松〉が一番好きです!」みたいな。
そういう宿痾と書いてサガと呼ぶべきものが文学部出身の人間の中には、多かれ少なかれ存在する。
俺もその宿痾に押されて、つい、津島さんの読書記録に目を通してしまった
・・・・・・のだが。
あれ?
俺は眉根を寄せて大きく首を傾げた。
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