第6話

津島さんが俺の台詞を勘違いせず家に入って来たので、俺はホッとした声で言った。

「上がって。廊下まっすぐ行った突き当たりがキッチンだから」

「はーい」

津島さんは靴を脱ぐと廊下に上がり、その場でくるりと振り返る。

しゃがんで脱いだコンバースのスニーカーのつま先を揃える。彼女は礼儀正しさに感心する俺には気付かず、キッチンに向かった。

ドアを開けてキッチンに入る。

リノベ前は居間と別れていたらしいが、今はそこにあった壁をぶち抜き、ダイニングキッチン風に改装されてる。

津島さんはドアを開けて入るなり、意外そうに室内を見回した。

「この家、見た目と全然違うでしょ?」

後ろからそう声をかけると、

「びっくりしました。外見は昭和なのに中はめっちゃ令和」

俺は彼女の表現にちょっと笑い、

「床暖房もついてんだよ」

と言って壁のスイッチを押す。床暖房とエアコンをONにした。

「ええっ、なんで?!」

素直に驚く津島さん。

やや大袈裟なリアクションに対して俺が笑いを堪えているのをよそに、

「不思議な家」

津島さんは真剣な声音で呟いていた。


そんな津島さんに、

「そこ座って」

と四人がけの黒い木目柄のダイニングテーブルを指さす。

ここに座ったのは俺以外では、数年遅れの引越し祝いと称して去年押しかけてきたDTと、先輩であるDTに「浅井先輩が呼んでる」と騙されて連れてこられた多和田蘭子だけだ。

そう考えると、仕事関係以外では津島さんがはじめてってことか。

「おしゃれですね。高そう」

座るなりダイニングテーブルを褒めてくれる津島さん。

「無印良品で買った普通のやつだよ」

「じゃ、内装がおしゃれだから何置いてもいい感じなのかも」

そう言って小首を傾げる。

俺は思う。


やっぱりこの子、めっちゃいい子だ。


なんかふとした拍子に暴走するけど。


デフォが問題児のDTや堅物な多和田では感じられない温かさを俺は今心に感じていた。

「何飲む?コーヒー?それとも紅茶?」

「あっ。ありがとうございます、じゃあ紅茶で」

「オーケー」

答えて俺はティファールに水を注ぎ、湯を沸かす。

冷蔵庫から紅茶の葉を保存している密封容器を取り出し、これも無印良品で買った透明な耐熱ガラス製のティーポットに2杯ほど茶葉を入れた。

「浅井さんって茶葉で紅茶入れるんですか」

本気で意外そうな目をする津島さん。

「ほら、仕事のある日って朝急いでるからインスタントのコーヒーしか飲めないから。休日までコーヒー飲むと、なんか落ち着かなくなっちゃうんだよね。仕事行かなきゃって」

「あー、それわかります。わたしもトーストって学校のある日の食べものってめっちゃ思います」

「それそれ、同じだね」

そんな会話をしてる間にティファールが湯が沸いた合図をする。

紅茶を二人分カップに注いで、醤油なんかの小瓶が置いてある棚からグラニュー糖を入れた透明の小瓶を取り出し、スプーンと一緒にテーブルに置く。

「ミルクはいる?」

「あ、もらいます」

俺は冷蔵庫から牛乳を取り出して彼女の前に置いた。

(そういえば津島さんもあの自販機のロイヤルミルクティーが好きって言ってたな)

昨日の会話を思い出しながら、俺も彼女と同じように、いつものように、熱い紅茶にグラニュー糖とミルクを入れてスプーンでゆっくりかき混ぜた。

「うわ、めっちゃいい香り」

かき混ぜながら目だけあげると、マスクを顎の下にずらした津島さんが、カップを両手に包んで鼻先を近づけている。

津島さんは熱いのに気をつけながら音を立てずに一口すすって、

「うわぁ、やっぱりティーパックのとは違いますね。めっちゃ紅茶の味がする」

「ティーパックのでも一杯に三つか四つくらい使って鍋で沸騰させたらけっこう濃く出せるよ。香り飛ばないように注意するのがちょっと面倒だけど」

「どっちのほうがおいしいですか?」

「こっちかな」

「じゃあだめですね」

「なんで?」

「だって、それ家でやっても『浅井さん家で飲んだ紅茶のほうがやっぱ美味しいな』ってなるじゃないですか」

当たり前のことを言う顔をする。

俺はちょっぴり泣きそうになった。そんなふうに言ってもらえるとは思ってもみなかった。

誰かこの子とDTを交換してくれないだろうか。どうして同じ人間なのにこうも出来が違うのだろう・・・・・・。


「どうしたんですか?」

熱くなる目頭を押さえて俯く俺に、そう尋ねてくる。

「いや・・・・・・ちょっと目にまつ毛が」

「浅井さんってよくまつ毛が入るんですね」

「うん、そうだね」

俺は自分の涙を悟られぬよう、声の震えを懸命に隠した。

「ところで、あれ何の絵なんですか?」

「ん?」

顔を上げると彼女は壁の一角を指さしている。

殺風景な部屋で、何故かそこにだけ真四角の絵がかかっている。

「ああ、会社の同僚が引越し祝いとか言って無理やり飾って帰ったレコードだよ」

言いながらDTのヘラヘラした顔が脳裏をよぎり、俺は一気に不愉快な気分になった。

せっかく津島さんの優しい言葉で温かい気持ちになっていたというのに。

「お祝いにレコードくれるなんて、おしゃれな同僚さんですね」

「聴いたこともないバンドのレコード貰うのも変な気分だよ」

俺は壁のレコードを睨んだ。

はずしてもいいのだが、それでもプレゼントには変わりない。外したあとどうしたらいいのかを真剣に考えていたら、結局外せなくなってしまったのだ。

「何てバンドのレコードなんですか?」

「ドリームシアターの何とかってアルバム。その同僚いわく、世界最高峰の演奏テクニックを持ってるロックバンドならしい」

「へー」

たぶんロックにはまったく関心がないのだろう。生ぬるい返事しか返ってこなかった。残念だな、夢野真太。


紅茶を飲み干した津島さんはすぐにマスクを戻した。

「お代わりいらない?」

そう尋ねると、

「あ、すみません、いただきまーす」

元気な声で頷く。

俺はティファールにまた水を汲み、空のカップを貰おうと手を伸ばす。彼女は気付いてカップを少し持ち上げた。

と、そのまま動きを止め、ハッとした表情でこちらを見つめてくる。

「わたし、貸してくれたこの本のことで浅井さんにひとこと言いたかったんです」

「お、何?」

津島さんはカップをまた置くと、無言で素早く手提げカバンから卓上に『六の宮の姫君』を置いた。俺に表紙が上下正しく見えるように。

「浅井さんッ」

語気が強い。

「は、はい」

俺は咄嗟に身構えた。

ギュッと目を瞑り眉根を寄せた津島さんの肩がわなわなと震えている。

あ、この感じ、見覚えが・・・・・・。

そう思った次の瞬間、津島さんは運動部の朝練の時のような力強い声を張り上げていた。


「わたし、どうしたらいいんですか!?」


大声にびっくりして椅子の背に仰け反る俺の前に、ダンッ、と卓上に両手を突いて身を乗り出してくる。

目に涙を溜めた美少女の顔が目の前に迫っていた。

「ど・・・・・・どういうこと?」

「どうもこうもないです!」

「な、泣くほど面白かった?」

俺は彼女の話が一向に飲み込めず、ただただ戸惑うしかなかった。

「おもしろい?はい、すっごくおもしろかったです、だから徹夜して読み通しました!こんなの去年の12月以来です!」

いや、それめっちゃ最近やん。まだ1月なんだけど。

そう思ったが直感的に火に油な気がしたので言わなかった。

「じゃ、じゃあどうしたわけ?」

「わたし、文学部の卒論がこんなにレベル高いなんて思ってなかったんです」

津島さんはもう鼻声だった。

涙がポロポロこぼれてはすぐにマスクに吸い込まれていく。

「もっと軽い感じの文学ミステリーだと思ってたのに、これ、本当に大学生の卒論をベースにした小説なんですか?!」

津島さんはそう言って、ズッ、ズッと鼻をすすった。

なんか、かなりショックだったようだ。

ちょうどそのタイミングでティファールがまた沸いたので俺は手を伸ばし、

「カップちょうだい」

「あ、はい」

カップを受け取り、新しい茶葉を入れたティーポットに湯を注ぎ、ちょっと待ってからまた二人分いれた。

「どうぞ」

「あ、どうも」

津島さんが座って紅茶を飲み、ちょっと落ち着くのを待ってから俺は会話を再開した。

「どのへんが一番ショックだったの?」

そう聞くと彼女は、マスクを外した唇の下の窪みのあたりに人差し指を当てて数秒思案し、

「全部です」

はっきりと言った。

「この本のテーマは〈どうして芥川龍之介は『六の宮の姫君』を書いたのか〉じゃないですか」

「そうだな」俺は頷く。

「でもそのテーマになってる芥川龍之介だけじゃなくて、菊池寛って人の作品、特に『義民甚兵衛』って作品の分析もプロの評論家みたいだったし、そもそも〈芥川龍之介が『六の宮の姫君』を書いた謎を解く〉ってテーマがスケール大きすぎて・・・・・・あの、大学の文学部ってそんな探偵みたいなことができないと卒業できないんですか?」

いくぶん落ち着きを取り戻した様子で、津島さんは尋ねてくる。


俺が彼女に貸した小説は、ミステリー作家・北村薫の代表作だ。

作者は男性だが、主人公は女子大生。

当時はその文章が本当に女性作家のようだったので、作者は主人公同様、女子大生ではないかとまで噂された。

内容は主人公が卒論のために、芥川龍之介のわりとマイナーな短編『六の宮の姫君』がどうして書かれたかの謎を探るというもの。

いわゆる書誌ミステリーと呼ばれる、評論とミステリー小説をミックスしたような作品だ。

俺が昨日彼女に教えたように、作者が卒論で書いた論文をベースにしている。


津島さんはどうやら、すべての文学部の卒論がこのレベルだと思って衝撃を受けたようだ。


「津島さん」

俺は静かに相手を見た。

「はい」

津島さんが俺を見る。

俺は力強い笑顔で言った。

「大丈夫、北村薫の卒論に比べたら、普通の卒論なんてただの感想文だ」

「えっ、そうなんですか?!」

「感想文は言い過ぎかもしれないけど、普通のやつはこんなの書かないから、いや、かけないから。俺なんて卒論渡したらチラッと読んだ教授に速攻で舌打ちされた」

当たり前だ。

これが文学部の卒論のデフォなら俺は文学部になど入っていない。

俺が確実に自分へのブーメランになる台詞を自信満々に発するのを聞いて、津島さんは、

「よかったぁー」

と心底嬉しそうな声で胸に手を当てる。

その一方、俺はブーメランが心に刺さってまた目頭が熱くなっていた。思い出したくない苦い記憶まで思い出してしまった。

あの教授の目ったら・・・・・・完全にゴミを見る目だった。人の卒論をなんだと思ってんだよ。

「ど、どうしたんですか浅井さん?」

下を向いて目を押え肩を震わせる俺を心配してくれる優しい津島さん。

俺は封印されていた感情が今になって溢れかえっていた。

「・・・・・・ゴミだよ」

「あっ、また目にゴミが」

「違う、そうじゃない」

「え?」

「俺はゴミ野郎だッ」

「ええっ、いきなりどうしたんですか?!」

「俺は、最低の感想文しか書けないゴミ野郎だァ!」

「ちょっと浅井さん、しっかりしてください!浅井さん!」

津島さんが立ち上がって俺の横に立って、その手で背中をさすってくれる。

ブーメランが思ったより深く突き刺さり嗚咽を我慢できなくなった俺を、わけも分からずにいたわってくれる少女。

DTなら絶対にゲラゲラ笑ってる。

俺は、彼女の優しさとブーメラン、そのふたつで涙が止まらなくなっていた。

手の温かさが嬉しくて俺は嗚咽しながら彼女のほうを見た。

すると、心配そうに横から俺の顔を覗き込む美少女の顔があった。

本当に美しかった。


この瞬間、俺は決めた。


津島さんが自分の進路を決めるまで、俺は何だってしてやる。

この優しい手の温もりに誓って、俺はそう思った。

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