第5話

翌日。1月29日土曜日。

今日は休日だ。


昨日は斜向かいの津島さんの家の娘さんと喋っていたので、DTのことを完全に忘れていた。

帰宅してすぐ風呂に入り、凍えた体を温めて居間に戻ってくるとスマホが鳴っていて、通話に出ると号泣したDTが「何でいつまでも僕のこと無視するんですか?!先輩は僕のことがそんなに嫌いなんですか?!童貞には人権ないとか言うんですか?!」と早口にまくし立ててきた。

忘れていた俺も俺もだが、男のヒステリックな甲高い声は本当に気に触る。イラッとしてつい舌打ちするとDTは「ひっ」と声をひきつらせて黙ったものの、まだめそめそ泣いているのが電話越しに聞こえてきた。

面倒臭いのでこのまま切ろうかと思ったが、これでも一応後輩だ。遠隔操作でDTの手作りしたプログラムを見てやると、案の定、初歩的なミスばかりだった。

俺は濡れた頭にタオルをかけたままソファに座り、自分の仕事用のノートパソコンを操作する。

DTの尻拭いをしつつ、その片手間に去年の年末のお歳暮で多和田蘭子から届いたアサヒスーパードライをあおった。多和田はDTと違って仕事もできるし気も利く、工学科出身の優秀な後輩だ。

俺はものの10分足らずで済んだプログラムの修正よりも、濡れたまま放置されている髪の毛の寒さの方がよっぽど堪えた。

エアコンの暖房は目や喉が乾燥するから苦手で、足元を温めてくれる床暖房がなかったら風呂上がりにまた体の芯から凍えていただろう。いいリノベハウスを安く借りれたと思う。ここを紹介してくれた不動産屋には本当に感謝だ。

「終わったぞ」

俺はパソコン越しに音声だけの通信で告げた。

「ありがとうございます浅井先輩!愛してます!どこまでもついてきますよ!」

「男の愛なんぞいらんし、どこにもついてくるな」

「またまたー照れちゃって、先輩のそういうツンデレなところ僕大好きですよ!」

DTはデフォでガチでうざい。

俺は無視して真面目な声音で言った。

「お前な、Javaの扱いどうのじゃなくて、お前はプログラムの組み立て方がそもそも論理的におかしいんだよ。いいか、プログラムのコーディングは作った人間の論理性がそのまま反映される。とりあえずお前はJavaの入門書よりも論理学の入門書を先に読め。話はそれからだ」

「先輩っていきなり難しいこと言いますよね。論理学かぁ。よく知らないんですけど・・・・・・それってドリームシアターの名曲〈ダンス・オブ・エタニティ〉のギターソロとどっちが難しいですか?」

「知るか。俺はギター弾いたことないんだよ、何度もそう言ってるだろ。何でもかんでもそのドリームシアターとかいうバンドを基準にするな」

DTは物事の難易度をすべてギターソロで例えようとする。相手がギター演奏のことを分かるというていで喋るものだから、大体の場合は会話が成立しない。本当に面倒な性格だ。

「とりあえず野矢茂樹って人が書いた『入門!論理学』っていう本を買え。安いし、薄いし、わかりやすい。今すぐ走って買いに行け」

俺はアサヒスーパードライの最後の一口を飲み干した。

「買いに行かなくてもKindleでダウンロードしますよ!」

パソコン越しにDTがおかしそうな声を出す。

「そうか。じゃあ早くダウンロードしろ」

「先輩ってそういうとこ頑固ですよね。未だに紙の本にこだわるんだから。今どきおじいちゃんや子供だって電子書籍で読む時代ですよ」

「子供の頃から紙だから今でも紙媒体の方が『読んだ』って気がするんだよ」

「先輩は本ばっかり読みすぎなんですよ。だから理屈っぽいんです。だから彼女できないんですよー」

へらへら笑い出すDT。童貞のお前には言われたくない。仕事を助けてやったのに何だその態度は。

「お前は本を読め。そういえばお前の好きな清純派アイドルの乃木明日香もこの前テレビで『好きなタイプは文学詳しい人です』って言ってたぞ」

「ほっ、本当ですかぁ?!」

「マジのマジ」

俺は適当にそう言って、でたらめとも知らずに「おっしゃー、文学読むぞー!」と一人で舞い上がっているDTとの通話をさっさと切った。

嘘も方便。これでちょっとはDTの知能が上がってくれることを願うばかりだ。


俺はそのあと頭を乾かし、インスタントラーメンと大阪王将の冷凍餃子をオカズに飯を食べ、夜中の三時頃までネットフリックスで映画を観て寝た。ハリウッドの巨匠スコセッシ監督の『沈黙』は何度観ても感動だ。


目を覚ましたのはインターホンのチャイムの音だった。誰か来たらしい。たぶんいつものAmazonからの荷物だ。何を買ったか忘れたが、ポスト投函できそうにないものは日時を指定して休日に届くようにしている。

ベッドから起き上がりながら壁の時計を確認すると、まじか、もう昼の2時を回っていた。若い頃とは違い、最近は夜更かしした次の日はいつまでも寝てしまう。

皆な、こういう体力に関連した生活リズムの変化に気付く時、年齢の変化にも気付くものなのだろうか。

やだなぁ。

またチャイムがポンポーンと鳴る。

「はーい」

俺は聞こえないとは思いながらもそう返事をして、階段を降りて玄関に向かった。玄関の壁には突然の来客に備えてマスクが一枚掛けて置いてある。それを急いで耳にかけながらクロックスを突っかけた。

「すいません、ちょっと寝てて」

ガチャッとドアを外に開けながら俺は宅配屋さんに謝った。

が、あの黒猫の帽子がトレードマークの配達員さんが見当たらない。

代わりに、水色のトレーナーにジーンズ、白いマスク姿の黒髪の美少女が玄関先に立っていた。

「あっ、ごめんなさい、起こしちゃいました?」

申し訳なげな八の字眉で彼女が謝ってくる。背は俺の顎下ぐらいしかない。

配達員さんの代わりにそこに立っていた津島悠花は、チラッと俺の足下を見、それからまた俺の顔を見上げて、

「ごめんなさぁい」

もう一度はにかむような表情で謝った。


俺は自分が寝巻きにしている上下グレーのスウェット(ノーブランド)のままで、ひどくだらしない風体だということに寝ぼけ頭で今さら気づく。

ダサい格好だとは思うが、俺自身より津島さんのほうが困っているらしく、何だか「女の子だな」という感じがした。俺なんてこの格好でコンビニくらいは平気で行けるのだが。

「かまわないよ。昨日夜更かしして映画観てたから」

俺は八の字眉で困った笑みを浮かべている津島さんにそう笑いかけた。

「ところで、どうかしたの?」

「あ、はい。昨日借りた本を返そうと思って」

彼女はそう答えて、手に持っていたおしゃれな手提げカバンの中から、俺が貸した『六の宮の姫君』を取り出す。

「もう読んだの?」

びっくりして俺は思わず声を上げた。だって貸してから一晩しか経っていない。

「わたし昔から本読むの早いんですよ」

津島さんはどこか誇らしげな顔をする。いかにもエッヘンと言いたそうな表情だ。閉じた両目の上で細い眉毛がキュッと鋭い角度を作る。

「にしても早くない?」

「あっ浅井さん、その顔、わたしが斜め読みしたんじゃないか疑ってますよね?」

津島さんがちょっとムキになる。

「ごめん、そういうつもりじゃなくて、ただ読むの早いなーって」

「ほんとですか?」

疑われたことがよっぽど心外だったのか、ジト目で俺を見上げてくる。

この年頃の子は社会人とはまた違った種類のプライドがある。俺にもそんな時期があったから。

「まあ外は寒いし、中入ったら?」

俺は津島さんを子供扱いするのは良くないと考え、大人に対するのと同じような対応をした。外で立ち話は自分を尋ねてきた相手対しては失礼だ。

「え・・・・・・でも」

戸惑うような表情で遠慮する津島さん。

「いいよ、他に誰もいないから。中の方が暖かいし」

俺はそう言ってから、相手がビジネス相手でも地元の先輩後輩でもなく、近所に住む現役女子高生であることを思い出した。

(なんか俺、連れ込もうとしてる感じになってない?!)

ふいに脳内のスクリーンに俺の家を空撮したニュース画面が流れる。その映像の右上には『浅井容疑者(29) 女子高生をわいせつ目的で自宅に連れ込もうとした容疑で逮捕』のテロップが。

やっちまったぞ俺!

自分の迂闊な発言に顔面から血の気が引き、呆然と目の前が白く霞み出した時、


「じゃ、お言葉に甘えて上がらせてもらおうかな」

津島さんは笑顔で言い、「おじゃましまーす」と運動部っぽいよく通る声でそう重ねて俺の脇をぬけて中に入ってきた。

「あ、入るのね」

俺は安堵のため息をつき、胸を撫で下ろす。その安堵が俺にもたらしたのは金曜日の夜以上の救済感だった。

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