第3話
「わたし、本当は小説家になりたいんです!」
津島さんは俺の二の腕をがっつり掴んでそう叫んだ。
あれ?
何かさっきまでの大人しくて真面目で可憐な雰囲気の津島さんじゃない。目が嘘みたいにギンギンになっている。鼻息も荒い。フーフー言ってる。
やだ、普通に怖い。
「ちょっ、ちょっと落ち着こう!」
話、というかテンションの変化がいきなりすぎて俺の頭はパニック状態だった。
「全然落ち着いてますって!」
津島さんは瞬きひとつせずに言い切る。黒いマスク越しに、蒸気機関のスチームみたいな白い息が鼻息に合わせて漏れ出してますけど・・・・・・。
「津島さん、一回この手を離」
俺の二の腕をけっこう強い力で圧迫するその手首を掴んでそう言いかけたら、津島さんは上から被せて俺の言葉を遮った。
「学校でも家でも、さりげなくもしわたしが文転したらって話をしたら皆な口を揃えて『ありえない』って言うんです。今の時代、進学は絶対に理系の方がいいに決まってるって。でもわたし、別に数学とか化学とか好きなわけじゃないんですよ?ただ先生とか両親とか、皆なが理系を勧めてくるだけなんです!でもわたしの人生なんですよ、それ、何かおかしくないですか?!」
津島さんは一息に早口でまくし立てた。
彼女の気持ちは分かった。
でも俺はとにかく腕を解放して顔を離して欲しかった。やっぱり目がやばい。瞳孔が開いてギンギンになっている。
「わかった、また今度聞こう!今度聞くからやめて離して!」
俺はほとんど悲鳴を上げていた。運良く誰かが路地を通って助けてくれないか期待したが、誰も通らない。
「今度じゃダメです、今聞いてください!わたしは今悩んでるんです!」
「そんなキルケゴールみたいなこと言われても俺だって困るよ!」
「知ってますその人!確か哲学者ですよね?!やっぱり文学部のことは文学部出身の人に相談するのが1番なんだ!」
津島さんはうっとりした声でそう言った。完全に自分の世界に入っている。ダメだ。もう彼女は言葉の通じない化物になってしまったのかもしれない。
俺はとにかく彼女がまだ理性を保っていることを信じて、こう尋ねた。
「小説家になりたいのは分かったけど、でも何で文転してまでなりたいんだ?不本意だったにしろ、ずっと理系コースで頑張ってきたんだろ?」
「えっと、それは・・・・・・その」
この質問が効いたのか、ずっと野獣みたいだった津島さんの目にパッと理性の光が戻った。
と、冷静になった津島さんはハッとして俺の二の腕から手を離す。ぎりぎり締め付けていたその手が離されたことで俺はバランスを崩し、片膝を地面につけてしゃがんだまま後ろに倒れそうになった。
「あっ!」
津島さんが慌てて俺の手を掴もうとする。
次の瞬間、どん、と俺は背中をアスファルトで強打していた。津島さんは手を掴んでくれたが、彼女の力では大人の男の俺を引っ張り支えることは難しかった。
「痛てぇ」
そう洩らしながら両肘を地面に付いて軽く上半身を起こす。倒れたと同時に瞑っていた目を開いた。
「・・・・・・ッ!」
目を開けるなり俺はまた言葉を失う。
俺の手を掴みきれなかった津島さんも反対側に尻餅を着く形になっていて、勢い軽く膝を立てた両脚を左右に全開で開き、今度は黒い下着がガッツリと見えてしまっていたのだ。
しかも今度は俺と同じように「痛ったー」と眉をしかめて目を開けた津島さんと、こちらもガッツリ目が合った。
自分のスカートの中が今年30になるオッサン目前の男の前に晒されたことに気付くのに、時間はかからなかった。
「うそッ!?」
彼女は短く叫んで慌てて膝頭を合わせて脚を閉じ、スカートの前を両手でギュッと押さえた。顔を埋めてしまいたいとでも言うように、肩をすくめて首を縮め、その体勢で可能な限り前かがみになる。
目尻にシワが寄るほど強く目を閉じ眉を八の字にして震わせている津島さんに、俺は何と声をかけたらいいのかまったく分からなかった。
錯覚かもしれないが、羞恥で肩までプルプル震えているように見えた。
自分のせいじゃないはずなのに、とんでもない事をしてしまった罪悪感が俺を襲った。
その時、着信音が響いた。
俺と津島さんが同時に同じほうを見る。
玄関前のアスファルトの上に俺のスマホが液晶画面を上に落っこちていた。たぶん、津島さんがひっくり返った時に落としたのだろう。
着信音は鳴り続けている。
どうしたらいいのだろう、と俺が途方に暮れていると、膝立ちになった津島さんがそれを拾って通話に出た。
必要以上に感情の起伏の抑制された声音から、心の動揺を隠して平静を装っているのが嫌でもわかった。
「もしもし」
「うん、わかった」
「それじゃ」
60秒ほど喋って、彼女は通話を終えた。
「あの・・・・・・落としてすみませんでした」
膝立ちで俺にスマホを返しながら謝る。
「その、もし壊れてたら弁償するので言ってください」
「いや、弁償とか。俺の方こそごめん、支えてくれようとしたのにあんな」
俺がうっかりあの光景を指す事を言ってしまうと、俺が「しまった」と思った時には、津島さんは吸っていた息を途中で止め、また目をギュッと閉じて肩をすくめてしまったところだった。
肩を震わせながらゆっくり深く吐かれる息が、彼女の体温の急激な上昇を知らせるように、はっきりと白かった。
強く閉じられた両方の目尻に小さな水滴がぷくっと溢れたかと思うと、つぅ、と頬を伝って細く流れ、すぐマスクに染みて消えた。
「津島さん・・・・・・」
彼女の心の傷を回復させられそうな言葉も、彼女を一瞬で笑顔に変えられそうな気の利いた魔法の言葉も、まったく何も頭に浮かばない。
それでも俺は、震える手を彼女の方へ伸ばしていた。
はじめて女子を泣かせてしまった。
その罪悪感に責め立てられて、俺も一緒に泣きそうだった。
せめて津島さんのその溢れ出る涙を止めてやりたかった。
が、彼女が嗚咽とともに洩らした一言で俺の手はピタッと止まる。
「小説家に・・・・・・なりたいですッ」
彼女はマスク越しにグズッと大きく鼻を鳴らした。
なんでやねん。
俺は心で突っ込む。今の流れでそれ言うってどんな思考回路してるんだ?
そう思ってすぐ「あー」と俺は悟った。
彼女、あれだ。
とってもクセの強い子だ。
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