第2話

鳴ったのは仕事用のスマホだ。

車も通行人も来てないが、一応ここは道路なので後ろに下がって女子高生の傍に戻った。

急いで画面を確認すると、そこに〈DT〉の2文字が。

「あの野郎」

俺はまた自重しようと思っていた毒づきをして、ため息とともに通話に出る。

こちらが「もしもし」という前に、電話越しにDTが、

『浅井先輩!もうダメです、僕は社会人として必要なことが何一つできない人間以下のゴミだ!』

開口一番そう叫んだ。

「黙れ、そして落ち着け」

DTはまだ何か叫んでいたが、俺が舌打ちすると急に静かになった。

DTは俺の部所の後輩で、一昨年新卒採用されたばかりの新人だ。仕事でヘマばかりするし、ロックな生き様を目指しているという割に年齢=童貞歴なので、彼の好きなバンドの名前と童貞をかけてDTと呼ばれている。


俺はまたため息をひとつ吐いてから、どうしたのかと尋ねた。

すると、

「何度僕の手作りしたプログラムを試しても、エラーが出るんです!5回ですよ5回!4回手直ししてるのにエラーしか出ない!もう僕はIT企業に勤める人間として価値がない、もう死ぬしかないです!そうですよね先輩!無能には死あるのみ、これはウチの部所のエース浅井涼介の名言だ!あひゃひゃひゃ!」

早口でそうまくし立ててくる。

ほとんど泣き声だ。


だが俺は動じない。


DTこと夢野真太は、稀に見るほどの豆腐メンタルなので、ちょっと仕事に行き詰まるとすぐ自暴自棄になる。

が、そのくせ必ずこうして人を頼る。泣きつく。俺に電話をしてくるのは十中八九、何かやらかした時。すごく面倒臭い後輩だ。

「お前はJavaもろくに使えないのか」

俺は小言を言った。

Javaとは代表的なプログラミング言語のひとつの名前だ。DTはそれしか使えない。

「ていうか、お前まだ仕事終わってなかったのかよ」

呆れた俺がそう聞くと、

「皆がみんな先輩じゃないんですよ!自分の仕事が終わるとさっさと退社するのは先輩だけです!」

DTがまた叫ぶ。


俺はここが路上であり、傍に津島さん家の女子高生がいることを思い出す。

咄嗟にそちらを見ると、気を使ってくれてるのだろう、携帯越しに半ばキレ気味の俺を見るではなく、その手の中の紅茶の缶を見つめているが、うん、チラチラこっちを見てくる。

荒れているDTには「俺のパソコンから遠隔で何とかしてやる」とだけ告げて、通話を切った。


自分の通話中の言葉遣いを彼女がどう感じただろうと思うと、ちょっと気まずくなった。

と今さら言ってどうすることも出来ないので、そそくさと帰ろうとした時、背後からまた呼び止められた。

「そっ、その、」

「?」

少女が膝上丈のスカートの裾を押さえてサッと立ち上がる。勇気を出すように、喉につかえていたものを吐き出すように、彼女はハッキリと言った。

「その、す・・・・・・」


俺はその唐突すぎる言葉に息を飲む。

おい待て、す・・・・・・で始まるワードと言ったら・・・・・・。俺は、自分の心臓が高鳴るのを嫌でも強く感じた。


「ス・・・・・・スマホ、貸してもらえませんか!?」


少女は俺をまっすぐ見てそう言った。


ですよね。

俺は自分が一瞬でもロマンチックな空想を抱いてしまったことを恥ながら、スマホに暗証番号を入れてから少女に差し出した。俺は今ほどマスクをありがたいと思ったことは無い。

マスクで隠れてはいるがその下では、凄まじくホロ苦い自嘲の笑みを無意識に浮かべていたに違いないから。


「ありがとうございます!」

スマホを受け取った少女は嬉しそうに頭をペコリと大きく下げる。スポーツをやってる人特有の、礼儀作法を感じさせる頭の下げ方だ。運動系の部活に入っているのかもしれない。

「何に使うの?」

「母に電話です。してもいいですか?」

「全然」

俺が頷くと彼女はさっそく番号を押して右耳にスマホを当てた。


たぶんさっき俺を呼び止めたのも、電話を借りたかったのだろう。でもさすがに厚かましいかと思って誤魔化したところ、俺にDTから電話が来た。

それを見てやっぱり勇気をだして貸してくれるか聞いた。そんなとこだろう。


それはそうと、知らない番号からの電話に彼女のお母さんは出てくれるだろうか。


俺の心配をよそに電話はすぐ繋がったようで、少女は「あっ、もしもし、悠花だけど」と告げた。

その後続けて二言三言何か言ったが、明らかに困った表情で無言の間があり、耳から俺のスマホを離した。通話を終えた、と言うより、切れたようだ。

申し訳なげな目で、そっとこちらを見てくる。

「今、地下にいるみたいで、かけ直すから待っててって言われて。ちょっと待ってもらっても大丈夫ですか」

懇願する調子でそう言われては、誰だってダメだとは言えないだろう。

俺は頷いて「大丈夫だよ」と答えた。

本当は俺も寒かったけど。


とは言え、俺は顔見知り程度、つまりほぼ他人の女子高生と二人きりになってしまった。

もうちょい若けりゃ何か変なソワソワも覚えたろうけど、もう俺も29だし、さっき馬鹿を見たばかりだ。

要は、どうすれば気まずくない雰囲気をキープできるか、それが問題だった。

オッサン目前の男の俺と現役女子高生の間に共通の話題なんて、たぶんほとんどない。最近流行ってるミュージシャンだって分からない。

なんだっけ、昨日たまたまテレビ付けたら今人気のバンド。なんたらヌーとか、オフィシャルクリムゾンキングなんたらとか。あれ?何か色々混ざってる?


物理的な距離感も微妙で、少女は道路から一段高い玄関先にまた座り直し、俺は約1メートルほど置いて津島さんの家の敷地と道路の間の、名前があるのかも分からない所につっ立っている。

いつ彼女の母親から折り返しの電話が来るのかも分からない。

このままだと気まずくなるのは目に見えていて、それは少女も同じ心持ちだったらしく、

「あの、えーっと、お名前何でしたっけ?」

と話を振ってきた。

まずとりあえず名前を聞く。お互いのことを知らない人間同士が初めての世間話を切り出す時の定石だ。

俺もよく休憩時間に社内の自販機周りで明らかに顔馴染みでは無い他の若い社員に鉢合わせし、あいさつしたはいいが後が続かなくなった時にやる。俺が社会人三年目にしてようやく臆せずにできるようになった秘技をもう使えるなんて、なんて子だ。やっぱ女子はコミュ力高めの子が多いなァ。


「浅井涼介。涼しいに、すけは助けるの方じゃなくて、イカみたいな形のやつのほうね」

「えっイカ?あっ、ほんとだ、似てますね」

自分で宙に「介」と書いて確かめてから少女は笑った。

介をイカの方と説明する。案外これが受けるのだ。俺自身、自分の名前を見ても本当にイカの象形文字にしか見えないのだから、大体の相手は納得した上にちょっと笑ってくれる。

「わたしは津島悠花です。ゆうはこういうので」

と彼女はまた宙に字を書いた。

「悠久の悠」

俺が空を切る指の動きを見てそう返すと、「そうですそうです、それです」と頷いた。

「なんか、シンガポールに単身赴任してる父が好きな男性の作詞家から貰ってつけたらしいんですよね。子供が男の子でも女の子でも付けるつもりだったらしくて」

「作詞家?」

俺は悠の付く作詞家を一人しか知らないので、その名前を挙げた。

「それって阿久悠じゃない?」

「浅井さん、阿久悠知ってるんですか?」

「俺の母校の校歌、阿久悠が書いたんだよ。兵庫県にある高校なんだけど」

「すごっ、なんか奇跡ですね、それ」

彼女は驚いた声と同時に体を少し前のめりにし、マスクをしていても分かる大きな笑みを作った。

その弾みで傍らに置いた通学鞄のキーホルダーがチャラッと微かに鳴った。その鞄の傍らには空になった紅茶の缶が立てられている。

もう二人とも飲み終えて、俺はずっと手に空き缶を持っていた。

俺がその缶のやり場に困ってるのを気付いたのか、彼女が、

「あ、ここに置いといてください。まとめて捨てておくんで」

言って自分の缶の隣を指さす。

俺は言葉に甘えてその場に並べて置かせてもらった。

「浅井さんって兵庫県の人なんですか?」

俺のスマホを膝の上に乗せた津島さんが見上げてくる。缶を置いた後そのままそこに立っていたので、彼女が俺を見上げる角度がさっきより高い。

その状態で喋るのはしんどいだろうと思って、その場にしゃがみながら俺は頷いた。

「そ、神戸生まれで大学卒業するまでずっと神戸在住。就職してそれで越してきたんだよね」

「へー、いいなぁ。神戸ってめっちゃ都会ですよね?」

「まぁそうだけど、就職してすぐはウチの会社の大阪支社に半年間毎日電車で通っててさ、こっち越してからは家賃補助の問題があって、けっきょくここから小一時間かけて港区まで通ってるから。ベッドタウンって意味じゃここも神戸も変わんないよ」

「それって、都心に出かけるなら、別にどこ住んでも一緒ってことですか?」

「うん。電車で遊びに行けるんなら、住みやすいとこに住む方が賢いよ。大阪とか東京とか、都会ってどうしても治安が歩くなりやすいから。もう三年住んでるけど、ここら辺は治安いいよね」

津島さんは目だけ斜め上を向いて「あー」と声を出してから、

「確かに不審者とか事件とかの話は滅多に聞かないですね。治安いいのかな?」

「絶対良いよ。だって俺の地元、早かったら夜の10時ぐらいからもう暴走族走ってるしね」

「10時?! 早くないですかそれ?」

家賃の問題があって都心のワンルームマンションからここに引っ越して以来、暴走族の走行音を聞いたことがない。

津島さんからしたら俺の地元は違う意味で別世界だろう。

「さっき港区まで通ってるって言ってましたけど、浅井さんって何のお仕事されてるんですか?」

「プログラマーだよ。コンピュータで色々な情報を管理したりするためのソフトウェアを作る仕事」

「えっ、それ凄くないですか?エリートの仕事ですよね?」

津島さんがびっくりした目をする。

でも俺はしゃがんだ体勢で、バランスを崩さないようにしつつ顔の前で手を振った。

「そんなことないって。俺、新卒で入ってから会社の仕事の一環で勉強して資格とっただけだから。さっき電話してきたやつ、DTって言うんだけど、あいつ二年目になるのにまだ初心者レベルだから毎回他の人に泣きついてんだよ。エリートは一部の人達だけ。俺らはただの社蓄」

「ほんとですか?」

「マジマジ」

「でも浅井さん、部下の方に外国人いるんですよね?じゃあ英語ペラペラじゃないですか?」

「DTはあだ名。ロックな生き様を目指してるっていうんだけどマジで仕事できなくて、憧れのミュージシャンが洋楽のDREAM THEATERってバンドで本人がまだ童貞だから、ウチの後輩の女子がそこに引っ掛けて名付けたんだよ。ちなみに岐阜出身」

そう言って津島さんを見ると、気のせいだろうか、弱々しい街灯の光しかないのに、マスクに隠れていない目の下のあたりが何となく赤らんで見える。

目も困った時のぎこちない笑みを浮かべている。

「あっごめん、俺変なこと言った!」

自分で言ったことを脳内でトレースしてはじめてそのワードの存在に気付き、俺はマジで焦った。

「いいですよ別に。不意打ちだったんでちょっとびっくりしただけですから」

俺の取り乱し方がよほど滑稽だったのだろう、津島さんの声が完全に笑っている。

「ごめん」

俺は弱々しく言って、片方の掌を顔の前に立てて謝る仕草をした。

「それにしてもお母さん遅いよね」

そう重ねて話題を変える。

「あっ、すいません。さすがにちょっと遅いですよね」

津島さんが慌ててスマホを手に腰を上げた。手を伸ばし、しゃがんでいる俺にスマホを返そうとする。

俺の言葉に深い意味は無かったのだが、違う受け取り方をされてしまったようだ。

「悪い、そういうつもりで言ったんじゃなくて。ただ遅いなーって、そのままの意味で」

また俺は焦っていた。

でも真意は伝わったようで、

「ありがとうございます」

とまた頭を深くペコリ。


たぶん、この子は凄くいい子だ。


そう思ってると、ちょっと今までとは調子の違う、どちらかと言うと真面目な感じのトーンで名前を呼ばれた。

「あの、浅井さん」

「ん?」

すると津島さん、やっぱり真面目な雰囲気を漂わせて聞いてきた。

「浅井さんって、プログラマーなんですよね?じゃあやっぱり大学は理系だったんですか?」

あ、と思った。

間違いなく彼女の進路に関する話だ。

「津島さんは理系なの?」

そう聞き返すと、

「はい、いま2年生で理系です。特別成績が言い訳じゃないんですけど」

彼女は苦笑いに近い感じの、細い眉を八の字にした困り顔をした。

「いやいや、理系は頭いいよ。数学ダメダメだった俺からしたら凄いって」

「え?じゃあ理系じゃないんですか?」

「普通に文系。数列で完全に自信折られたクチだからね俺」

正直にそう言うと津島さんはあからさまにキョトンする。おもちゃを見失った子猫の動画で見たことある顔だった。プログラマーと文系がどうしても結びつかないのだろう。

「ITって言っても、新卒は文系もけっこう多いんだよ。会社によるかもだけど。ウチの部所では理系出身は先輩に二人と後輩の女子、ほらDTってあだ名考えた子、その三人だけ。ちなみにDTは私立文系で宗教学専攻で、本人は酒が入る度に『日本ITの革命児ホリエモンと同じだぞ!』って豪語してる。ホリエモンは東大卒だから元からランクが全然違うんだけど」

「わたし、プログラマーって皆なゴリゴリの理系だって思ってました」

目をぱちくりしながら本当に驚いた声で洩らす津島さん。

確かにそう思っている人の方が多いだろう。俺自身、実際よくそう思われる。

「進路相談乗れなくてごめんね」

また俺は謝る手の仕草をした。

津島さんも申し訳なげ目と声で、

「わたしこそ勝手に勘違いしてすみません」

と謝ってきた。

お互いに謝り合う。

社会人をしていると日常の面倒な業務のひとつとしてデフォルト化されているのに、何だろう、この謝り合いにはそんな嫌な感じがちっともしない。

むしろ温かい感じさえする。

いつの間にか、彼女とのぎこちない会話に楽しさすら感じ始めていることに、ようやく俺は気付いた。

社内では仕事のグチ。飲み会では上司のグチ。聞くもグチ、話すもグチ、口を開けばグチ。最近の俺はグチしかこぼしてなかった。こういう普通の会話は本当に久しぶりだった。

ひょっとしたら地元を出て以来かもしれない。

やばい、ちょっと泣きそう。

「ど、どうしたんですか?!」

「いや、なんでも。目にまつ毛が入ったみたいだ」

目頭を押さえながら俺は答えた。

あー、取れた、と言って俺が顔を向けると、待ち構えていたように、

「でも文系って、何を専攻されてたんですか?」

「文学。だから津島さんの真逆、いわゆるド文系」

俺がコンプレックスを持つ理系分野を得意にしている子の前で文学部と名乗るのは気恥ずかしかったけど、進路を真面目に考えている津島さんに誤魔化すのも気が咎めた。

もし進路相談の相手としては頼りにならなくて、露骨に残念そうな顔をされても、卒業した学部を偽るよりは良かった。

本心を言うと、ここで「法学部だけど、何か?」とか返せたらマジかっこよかったんだけど・・・・・・。


「文・・・・・・学?」

「そう、文学部」


生ぬるい目付きをされる。

勝手にそう思い込んでいた俺は、だから、彼女の反応を予想出来なかった。

「それって古今東西の小説の研究とかするあの文学部のことですよね?!」

甲高い声で叫ぶと同時に、バサッと音をあげて津島さんが勢いよく立ち上がる。

俺はビクッとした。

そんなリアクションをされるとは思っていなかった。

その直後慌てて顔を背けた。

しゃがんでいる俺の目の前で立ち上がった津島さんは、ふっくらした生足が伸びるスカートの奥に、黒っぽい布をチラッと覗かせたからだ。

(短パンとかレギンスとか穿いてないのかよ・・・・・・!しかも黒って)

耳の端がのぼせたみたいに熱くなる。

(女子高生のパンツくらいで動揺するな、俺は29歳だぞ、オッサン目前の大人だぞ!)

頭の中で呪文よろしくそのフレーズを繰り返して自分を落ち着けようと頑張っているのに、津島さんは何も気付かなかったらしく、目を逸らしている俺の右の二の腕を強く掴んできた。

「やっぱり進路相談乗ってください!」

「へ?」

俯けていた顔を上げると、眼前に津島さんのファッションモデルのような美しい顔があった。

その二重の大きな黒い目が、まっすぐ俺の目を覗き込んでくる。

なぜか、言い知れぬ迫力が籠っていた。

パンツと美少女の顔面ドアップの連続にほとんどオロオロする俺。

そんな情けない状態の俺に、彼女はハッキリとこう言った。


「わたし、本当は小説家になりたいんです!」


「えっ、ええ?」

素っ頓狂な声を俺は出していた。

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