第12話 伊達政宗
伊達政宗は会津領などを失い陸奥出羽のうち十三郡、およそ七十二万石に減封されている。だがその政宗もまだ諦めた訳ではない。豊臣軍と天下を賭けて戦うことになった場合を想定し、決戦に備えた図上演習、すなわち作戦立案をしている。具体的には、名取川を人為的に決壊させて仙台平野を水浸しにし、水を避ける豊臣軍を近隣の山々におびき寄せて、山岳戦を仕掛ける。奥州の商業流通網で蓄えた豊富な資金をバックに、浪人を傭兵化、組織化し、豊臣軍に勝利するというものであった。
しかし現実は秀吉の圧倒的な政治力の前に、政宗も膝を屈しざるを得ない。戦場は戦術に疑問を持つ所では無い。疑問を感じた時が撤退の瞬間なのである。戦国の世ではトップを独走する者が全てを得るのだ。
階級社会の欧米でヒットラーは当初元伍長とバカにされていた。第一次大戦中の話をである。人と人とが殺し合う戦場では、実力が全ての軍隊だ、それでも血筋の良い者が将校になる。ましてや将軍になるなどあり得ない話だ。ところがヒットラーは天下を取った。ただし彼は致命的なミスを犯す。軍の権力を自分一点に集中し過ぎたのだ。ドイツの国軍はヒトラーの命令無しには動く事が出来なくなる。仮に突然敵が攻めて来ても、彼が昼寝をしている最中では意思決定をする者が居ないのだ。現実に連合国がノルマンディーに上陸してきた時、彼はベッドの中で側近は起こすのをためらった。どんなに連絡をしても、命令が戻って来ない現場は大混雑となった。
日本でも秀吉の登場までは同じような階級社会で、血筋が物を言った。秀吉がそれを変えたかもしれない。さらに家康が朝廷の権威を失墜させる。
小田原の戦さに遅れて到着した時、政宗は千利休に、茶の湯の稽古をつけてほしいとリクエストする。その報告を受けた秀吉は「田舎者にしては面白いやつだ」と言ったとか。
そしておれとの面会の日、政宗は死装束に身をつつんで遅参を謝罪した。政宗は深々と頭を下げているのだが、もちろん皮肉の一つも言いたくなる。
「その死装束は良く似合っているではないか」
「…………」
「だがここで死んでしまっては、その方の考える最終決戦の水浸しも、山岳作戦も机上の空論になるではないかな?」
政宗は見透かされたような顔でおれを見ている。何故そのような事を知っているのかと。
「どうだ、儂と勝負してみようではないか」
さすがの独眼竜も言葉が出てこないようである。
「儂が兵を率いて仙台平野に出向こう」
「…………」
「どうした、何とか言わんか。黙っておっては分からんではないか」
「恐れ入りました。某の完敗で御座います!」
政宗は、国内だけではなく西洋世界にも意識を向けており、仙台藩とスペインの通商交渉のため「遣欧使節」を結成。宣教師ルイス・ソテロと、家臣の多くをメキシコ、スペイン、ローマへ派遣する。この慶長遣欧使節の派遣では、メキシコ、スペイン、ローマなど二年も掛けているのだ。
これは日本人がヨーロッパへ赴いて外交交渉をした最初の外交だったが、史実では交渉は幕府によるキリスト教弾圧により失敗に終わる。
ヨーロッパとの外交交渉は失敗に終わったが、政宗はその後も田畑を整備し、運河を開くなど、仙台藩を発展させる。出荷された米は江戸で消費される米の三分の一であったと言われており、仙台藩はこうして東北の要として機能するようになった。
政宗が異国との貿易を望んだ理由は慶長三陸地震による復興政策の一環ではないか、と考えられています。
地震により深刻な被害を受けた仙台藩は、領内の復興と再生のため外国との交流によって、大きな利益と活力を得ようと外交使節の派遣を決めたのではないかと。
戦国時代の日本の中央は、京都を中心とする畿内です。関東は田舎、東北はもっと田舎。政宗は田舎者というコンプレックスをばねにして茶の湯や和歌の腕を磨き、天下人となった秀吉や家康をはじめ、戦国大名らと交流を深めていきます。
大阪城の一室で、おれ秀吉は伊達政宗と向かい合い座っている。だが次に出たおれの言葉に、政宗は驚愕の表情を浮かべる。
「その方をこれより副将軍とする」
「――――!」
もちろん水戸黄門でもあるまいし、そんな役職は無いが、おれが勝手にでっち上げたものだ。
政宗はおれの顔を見たまま、しばらく声が出てこなかったが、やっと絞り出したように、
「それはまたどう言う事で御座いましょうか?」
「簡単な事だ。いずれ儂の跡を継いで、其方が日本を治めるのだ」
後北条氏の旧領はほぼそのまま徳川氏に宛がわれることとなっていたが、伊達政宗に急遽変更される。
秀吉の旧主家の織田氏は次第に勢力を失い、北条氏を短期間に攻め滅ぼし、旧主家であろうとも改易できる秀吉の実権力が確定する。同時に官位・所領の両面において、副将軍となった伊達政宗が豊臣政権の大名として第一の実力者と確定した。
ここで一番訳が分からん、と言った感じだったのが家康だった。多分彼は死ぬまで分からなかっただろう。
おれ秀吉の役目はここまでで終わり、これからは政宗の時代にする。鎖国などやらず、日本は海外に出て行くのだ。
スペイン国王・フェリペ三世、およびローマ教皇・パウロ五世のもとに慶長遣欧使節を派遣したほどの政宗なら適任だろう。
しかしスペイン側の要求であるカトリックの布教を許せば、それをてこにして植民地化されかねない、というオランダの進言もある。友好的な態度を取りながらも全面的な外交を開くことは慎重にするようにと、政宗には言っておく。
このような状況のなか、伊達政宗はおれから許可を得て、欧州へ使節を派遣する事になる。慶長遣欧使節の主目的は欧米との通商交渉である。
「政宗」
「はい」
「スペインだけではなく、オランダにも行け」
秀吉の承認を得た政宗は、家臣・支倉常長ら一行百八十余人をスペイン、メキシコ、ローマなどへ慶長遣欧使節として派遣を決定。外交使節団を乗せたサン・ファン・バウティスタ号を出帆させた。
もちろんオランダやイギリスにも行かせようとした。全世界を相手に交易を行うのだ。だが実際のところオランダやイギリスには、二度目の航海で行く事になる。一度目の海外派遣では、船の建造に協力してくれたのがスペインという事もあり、政宗の思い通りに行き先を決めた。だがそのスペインで日本の使節団はあまり歓迎されなかった。
将来日本がスペインを通さず直接貿易を行うようになった場合、ルソン(フィリピン)で活動しているスペイン商人の独占的権益が脅かされる事を警戒したからだ。日本人使節団は許可なく入港したことを理由に長い間抑留された。
もちろん団長の支倉常長は日本への帰還を強く要請し、何とか認めさせた。だが「日本人は航海に関わるな」と、スペイン人乗組員が指揮を執る事を厳命し、もし違反した場合は死刑に処すとも宣告した。
船は長い航海を経て、フィリピン東方から浦賀に到着した。
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