第9話 山崎の戦い

「官兵衛、彦右衛門」

「はっ」

「その方ら先行して、上様は難を逃れて無事でいらっしゃるとの報をまき散らせ。それからたった今秀吉軍が弔い合戦に参上したと触れて回るのだ」

「分かりました」


矛盾している指示だが、関係無い。どうせ情報が混乱しているのは承知の上だ。いずれにせよ、現実に進軍して来る秀吉軍に加わった方が利がある。それは誰もが考えるだろう。

 姫路城にはおびただしい武器弾薬、槍、刀、兵糧、軍資金と全てが揃っている。勿論歴史を知っているおれが、あらかじめ用意して置いたものだ。

 姫路城で一晩泥のように寝った兵士達は朝飯を食う。そこで全員戦さ支度をすると驚愕の事実を知らされる。


「上様が本能寺にて、逆賊明智光秀に討たれた。この戦さは葬い合戦だ!」


 羽柴軍は打倒光秀を合言葉に行軍を始めた。

 山崎の戦いが起こった勝龍寺城一帯に向け秀吉軍が向かっているのだが、途中おれの指示した広報活動が力を発揮し始める。次々と駆け付ける軍団が現れ、秀吉軍の総数は4万近くにもなっていた。一方光秀の軍は一万から二万前後と思われる。

 秀吉の到着が予想外に早かった事、光秀の誤算が重なり、味方となって駆けつける勢力が少な過ぎたのが原因である。声を掛けた京周辺の大名たちの腰が重かったのだ。

 光秀はどちらかと言えば家康や勝家の動向を見ていた節がある。秀吉のあまりに早い進軍は全くの思惑違いであったようだ。

 光秀の敗因は時間の感覚が秀吉とは違い過ぎ、その重要さを分かっていなかったからではないか。それとも秀吉の時間に対する意識が異常に高かったからなのか。

 光秀が畿内の大名に送った招請の書状に「五十日、百日の内には近畿一帯平定するつもりだ」と、自身の見通しと決意を述べている。やはり時間の認識が秀吉とは違い過ぎだ。

 ナポレオンも軍の移動スピードを重視していた。敵の二倍早く動けば勝機も二倍になると言って兵士を急がせたという。秀吉はナポレオンより二百年以上も前に、スピードの重要さを認識していたのだ。それとも天性のものだったか。

 また風雲急を告げるこの時に、光秀は何を思ったか、朝廷や寺々に多額の寄付をしたり、市民の地祖を免除する布告を発するなどしたという。ピントがずれ過ぎているだろう。今それをやる時か!

 大義名分があるかどうかではない。秀吉が見せた、毛利軍と対峙していた戦場からの鮮やかな反転と撤退。その後の疾風の如き進軍に、多くの大名たちがなびいてしまったのである。二万から四万にまで秀吉に従う軍が増えたのはそのせいだ。

 今何を為すべきか、最優先事項は何なのか、その選択に差があり過ぎる。

 光秀は戦う前から敗れてしまっていた。


 そして山崎の遭遇戦で明智軍は壊滅、光秀はたった数人の家臣と共に落ち延び、惨めにその命を落としてしまう。



「勘兵衛」

「はい」

「明智光慶や家臣の明智秀満も助命するぞ」

「えっ」


 おれは山崎の戦いで捉えられていた、光秀の長男を含めた妻子、家臣までも命を助ける事にすると、勘兵衛に告げる。

 明智家の家紋である「桔梗」はもともと、神に捧げられ吉凶を占う花であったというではないか。吉と凶とは表裏一体だ。


「殿、それはまた何故でしょうか?」

「勘兵衛」

「はい」

「では逆に聞くが、何故妻子まで殺さねばならないのだ?」

「――――!」


 この戦国時代にあっては、戦さに敗れた側の妻子を殺す事など当たり前だった。幼児まで殺したのだ。ましてや謀反を起こして主君の命を獲るなどという大罪を犯したのだ。家臣や妻子は晒し首にされても不思議ではなかった。

 いかに戦国時代とはいえ、あまりにも簡単に人を殺し過ぎるではないか。戦さを指揮した大将の首を取るのならまだしも、その妻子まで殺す事はないだろう。既に戦闘は終わったのだ、家族に罪は無い。


「光秀は謀反を起こして上様のお命を獲った大罪人、妻子を殺さねば示しがつかないではありませんか!」

「勘兵衛」

「はい」

「妻子の命は獲るな」

「しかし――」

「これは命令だ」

「…………」



 明智光慶は光秀の長男で、本能寺の変の前から近江国・坂本城にいた。


「強右衛門」

「はっ」

「坂本城におる光秀殿の妻子を救え」


 強右衛門は磔台から生還した経歴の持ち主だ。坂本城に向かう明智秀満を介して、光秀の家族を救うには適任だろう。


 山崎の戦いで父光秀が討たれると城は羽柴軍の中川清秀、高山右近らの攻撃を受けて、落城。その際に強右衛門の働きで殺害されずに、他の一族と共に捕らえられた。


「強右衛門」

「はい」

「この方々を希望する処まで無事に送り届けてくれ」

「承知しました」



 日本史上最大のミステリーと言われる本能寺の変。これほど有名にも関わらず、いまだその動機は謎のままで、さらに明智光秀の子孫は現代まで続いている。実は手引きをする者がいて、こっそり坂本城から逃れ、名を変えて生き延びた子孫がいたという。


 なお史実では、坂本城で光秀の死の報を聞いた娘婿の秀満は、光秀の妻子および自身の妻子を刺し殺し、その後城に火をかけて自害したとされています。






 本能寺の変で、長男の織田信忠は二条新御所にて自刃している。信忠は後継者と認められ織田政権第二代当主となっていた。

 その信忠の長子として生まれた織田秀信の幼名は三法師。清州城で開かれた会議では、信長の後継者である信忠に何かあれば、その嫡男である三法師が家督を継承することは家中に異論はない。

 清洲城で会議が開かれたのも三法師が滞在している城だからであり、三法師が成人するまで「名代」を設置するか否かに焦点があった。

 光秀討伐の功績のない信雄と、三法師との血縁が薄い信孝とでは、いずれも家中の納得を得られない。

 清洲会議は信長の後継者を決めるのではなく、清洲城に集まって三法師を支える体制を決める会議であったということになる。



 人たらしと評判の高い秀吉に、堅物で不器用な性分の勝家では、人気取りで上回るのは難しかったのかもしれない。

 そして信長の葬儀では三法師ではなく、秀吉の養嗣子であった羽柴秀勝が喪主を務めると聞いた勝家は激怒した。これは羽柴秀勝が、織田信長の跡を継ぐのは自分だとアピールしたと言える行為ではないか。


 世間に対して、織田信長の体制を引き継ぐのはこの秀吉なのだと知らしめる。その絶好の機会、信長の葬儀を一大デモンストレーションにしたのだ。



 本能寺では必死の捜索にもかかわらず、信長の遺体らしきものは見つからなかった。しかし、それがかえって秀吉にとって幸いしたとも言える。

 秀吉は伸びているあごひげを撫でると、


「これは好都合だろう」

「…………」

「官兵衛」

「はい」

「京で花街の女衆を一千人集めろ」

「はっ?」


 遺体の代わりに、高価な香木よって等身大の木像を作らせ、信長の遺体代わりに棺に納めて焼き、その灰を遺骨に見立てて大徳寺総見院に埋葬する。

 勝家らには、秀吉がまた何かやってるくらいに思わせて置けば良い。


 秀吉にとっては、葬儀の形はどうあれ、こうして信長を手厚く葬ったと見せる事が、次代のリーダーとして天下統一に向かうために不可欠な大デモンストレーションだった。

 その意図が誰の目にも明らかだったから、秀吉を嫌う人たちは、ほとんどこの葬儀に参列していない。信長の次男・信雄も三男・信孝も参列していない。

 また、柴田勝家などの重臣も、いっさいこれを無視した。ただ、四男・秀勝が名目上喪主とされ参列したが、このときはすでに秀吉の養子という立場にあった。


「柩の周囲をな、喪服の女衆で埋め尽くすのだ」

「…………!」

「この葬儀で日本が変わるぞ。誰が天下人なのか日本中に知らしめてやる」

 

 秀吉の偉大さは、やはりここにある。武力だけが力ではない。情報を管理してコントロールする事がいかに重要か、彼は本能的に分かっていたのではないか。


 当日、葬列にはおびただしい数の見物人が押し寄せ、壮大で異様な葬儀を目にした。

 一千人もの喪服の女達が、粛々と信長の柩に寄り従っているではないか。

 そして御輿の前に池田輝、後ろには秀吉の養子となった信長の四男の秀勝が。位牌を持つのは信長の八男の長麿。そして太刀は秀吉が拝持した。もちろん葬列を警護している数万もの兵士達は、みな秀吉の馬印を着けている。


 信長の葬儀にさきがけ、朝廷からは天皇・親王がたをはじめ、公家たちもこぞって信長に弔慰を示し、贈経もしている。

 結果多くの民衆が、信長の後継者が秀吉である事を認識したのだった。勝家や家康でさえ、この葬儀を傍観した為、秀吉ははるかに及ばない存在になってしまっている。

 

 

「官兵衛」

「はい」

「十日間を喪に服すとして、参列した者達には酒と馳走を盛大に振る舞え」

「承知しました」


 柴田勝家は終始蚊帳の外だった。

 信長の葬儀に関して、通常であれば相談すべき相手であるにもかかわらず、わざと彼を外したのである。


 実際に、葬儀が行われたのは現代の暦で11月中旬となる。柴田勝家の居城である越前北ノ庄では豪雪の季節。葬儀への参加はもちろん、軍事行動も難しい。

 全ては計算された上での、葬儀である。

 いうまでもなく、この効果は絶大で。

 結果的に、織田信長の後は豊臣秀吉というイメージを、全国の大部分の大名にさえ植え付けることが出来たと言える。四百年前の日本人がイメージ戦略の重要性を認識していたのだ。


 当然あまり仲が良くなかった勝家と秀吉は、この葬儀をきっかけに、さらに対立を深めて行く事になる。



 清洲会議の結果では、秀吉の優位性が高まったのだが、他の誰もがあまり注意を払わなかった信長の葬儀に、いち早く注目した秀吉の優れた実行力が、翌年の勝家との決戦である賤ヶ岳合戦につながる。 それにしても、会議にしろ戦さにしろ、イメージ戦略を最大限に展開して、始まる前までに戦いの帰趨や流れを決めてしまう鮮やかな手法は、秀吉天性のものだろう。

 その壮大なパフォーマンスが、信長の葬儀では見事に決まったのだった。

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