第8話 毛利攻め

 元亀元年(一五七〇年)頃の戦国大名版図を見ると良く分かるけど、信長ほど地の利に恵まれた大名は居なかったのではと思ってしまう。ほぼ京に王手を掛けていると言えるほど近い領地で、すぐ北に居た浅井長政の離反さえなければ浅倉は簡単に抑えられた。徳川とは同盟を結んでいるし、残る当面の強敵は武田だけだ。その武田も信玄は信長を討つ事無く途中で死んでしまう。

 地の利が有っただけではない。彼は他の大名が考えていた、領地を広げる事にだけに注意を向けているのでは無かったのかもしれない。信長だけが天下を統一しようという考えが有ったのなら、秀吉や家康が成し遂げられたのは、そんな信長の後ろ姿を見ていたからではないか。




 黒田勘兵衛は毛利攻めの拠点としておれ秀吉に姫路城を勧めた。だがここでのんびりしている暇はない。


「直ちに山陰道に進出せよ」


 それが覇王信長の休む間も置かせない命令だった。

 次の目標は鳥取城だが、毛利の吉川元春から派遣された城主、吉川経家と籠城の首謀者である森下道誉、中村春続を拉致する、それとも殺害するか。あの歴史に残る悲惨な兵糧攻めは阻止する必要がある。餓死させられる兵士達は全くの無駄死ではないか。


 おれは彦右衛門を呼んだ。もう立派な武将で野武士時代の片鱗はない。


「腕の立つ者達を集めろ。城に潜り込む」

「かしこまりました」


「トキ、頼むぞ」

「分かったわ」


 彦右衛門以下、知った顔の面々がおれの前に集まった。殺害予定の相手を教えると次に、


「これから起こる事は妖術である。心して掛かれ」

「……妖術!」


 何名かは疑問の声を上げたが、他の者は反射的に答えた。


「はっ」


 元野武士集団は、乱破となってトキに転送される。次に起こった驚愕の出来事に驚く間もなく、刀を抜いた男達は瞬く間に目的を達成した。森下道誉、中村春続の二名を殺害して、吉川経家には許す代わりに降伏すよう説得して帰還したのだ。


「殿」

「勘兵衛、鳥取城はこれで終わるぞ」

「…………」


 籠城していた兵士達は、経家の指示で降伏して開城した。さすがの勘兵衛も何が起こったのか分からず、事態の推移に付いて来れないようだった。





 見晴らしのいい丘に登って、勘兵衛、彦右衛門、強右衛門を従えたおれ秀吉が見下ろしている。毛利の東を守る高松城である。まだ信長が甲州から帰って来ていないこの段階での出撃であった。


「毛利が総力を挙げて向かって来るようだ」

「では、それ迄に決着を――」

「いや、城を水責めにする」


 せき止めた川の水で城を孤立させ、四万とも言われる毛利の援軍を傍観させる。城の北側は山に囲まれている。南側に二キロほどの堤防を築いて、手前に流れる川の流れを変える作戦だ。

 あえて手間のかかる方法を選び、その後は上様に援軍を要請して、その到着を待つ。具体的な命を待たずに実行して、仕上げの指示を仰ぐのだ。

 信長は仕えにくい上司である。率先して動く者を重用したかと思えば、一転して出過ぎた真似をすると叱責される。一筋縄ではいかないとはこの事だ。


 しかし、ここでおれ秀吉の知っている最大の情報が東よりもたらされた。本能寺の変だ。ひょっとしてと思ったが、やはり史実通りに起こった。もちろん毛利方が知るずっと前には分かっていたのだから、堤防を築くなどという気の長い事をして時間を稼いでいた。兵員の消耗を防ぐため、あえて戦闘は行わなかったのだ。この後の展開を考えたら、一兵たりとも無駄に減らす訳にはいかない。異変の報がもたらされた後は、勘兵衛と共に停戦交渉をして、早急に毛利を納得させる必要がある。

 元々毛利は織田軍とまともに戦って勝てるとは思っていない。都を奪取して天下を狙うなどという考えは全くないのだ。今回のように、毛利の全勢力を集めても四万にしかならないようだからな。いかに有利に停戦条件をまとめるかと考えているだろう。


「高松城の即時開城と、清水宗治の切腹。さらに毛利領十ヶ国のうち三ヶ国を織田に割譲すること」


 二度目ではあったが、これが最後通告であると。聞いた安国寺恵瓊は頷かざるを得なかった。恵瓊にも昨夜迄に本能寺の異変を知らせる密使は来ていたようだが、一人や二人では心許ない。

 信長が織田方武将の裏切りにより、討ち取られたと言うのだ。そんな大事件を、裏付けが取れないまま信用する訳にはいかないだろう。それに、「織田方から毛利を惑わす為、密使と称する者が送られている。全ては謀略である」と秀吉から聞かされている。

 これまで旧知の秀吉とは何度も密議を繰り返しているのだ。その関係は抜き差しならないところまで来ている。この条件を受け入れるのならば、毛利の保全を信長様に嘆願しようと言う秀吉の言葉を信じて動くしかない。


「……分かりました。申し伝えましょう」


 毛利はついに秀吉の出した条件をのんだ。高松城主清水宗治の切腹は、毛利方が本能寺の変を知るわずか二日前であった。

 仲裁をした安国寺恵瓊が、本能寺の変を知っていたのではと言う疑惑が浮んだが、「ここは追撃などをせず、天下の趨勢を見守るのが一番と心得ます」との意見が通る事となった。天下を狙う意思も実力もない、毛利家が取る最善の選択だと言うのだった。



 翌日高松城と毛利軍の出方を見ていたおれは、


「勘兵衛、出立せよ!」

「はっ」


 ついに姫路城への撤退が始まった。始めのうちは堂々と行軍していたが、途中から突然おれは前代未聞の命令を出す。


「鎧も兜もみな捨てよ。兵糧も持つな。走れ、走れ、走れ」


 皆刀も槍もその場に捨てよと言われたのだ。なにしろ総大将の命令なのだから、きょろきょろと周囲を見ながらも、その通りにして、やがて足軽供は夢中で走り出した。上官の命令を絶対守るのが軍隊なのだ。蜂須賀党の乱破が走る方角を指示までしてくれている。


「刀を捨ててどう戦うんだ?」

「そげんな事は知るもんか」

「走れ、走れ、走れ」


 様々な疑問なんぞは直ぐにすっ飛び、汗を吸った着物を腰に巻く者から首に巻く者、誰も彼もが夢中で走り出した。ついにはふんどし一丁でがむしゃらに走り出し出す者まで現れる始末。これではたとえ重装備の毛利軍が追撃などしょうとしても、追いつかないだろう。呆れて見守るしかない。


 それでもいかに頑張ろうと、やがて疲れてスピードが落ちてくる。そのタイミングで不思議な事に、皆の走る沿道沿いに、旨そうな食べ物が用意してあるではないか。握り飯はもちろんの事、梅干しから大根の味噌漬け、シラスなどの干し魚、ねぎに味噌をつけて焼いてあるものまでと至れり尽くせり。デザートには干し柿と干し芋が用意されている。さらに水分補給が出来るだけではない。絶妙なタイミングで酒さえもだ。


「トキ」

「なあに」

「酒はどうかと思うぞ」

「いいじゃない」

「…………」


 まあランニング中の酒はどうかと思うが、もう夢中で食う者から、走りながら食う者と様々である。

 もちろんそれらが全てトキのしている事だとは、誰にも分からなかったにちがいない。とにかく十キロ以上にもなってしまう軍勢で、何処まで続く長いアリの行列のような有様になっている。だからこうするしかない。トキに軍団ごと運んでもらう訳にもいかないだろうからな。


 やがて足の早い者でなんと翌日、遅い者でも三日目には姫路城に着いた。野宿や仮眠をしても、新暦で六月末ならそんなに寒くは無かっただろう。なにしろヒートテックなどを着る、ヤワな現代人と比べたら耐性が違う。どうしても寒ければ飲み放題の酒を飲んで寝てしまえばよい。目が覚めたらまた走り出すと言う具合だ。そしてついに大部分の兵士は、城にたどり着き倒れ込んだ。軍団ぐるみの敵前逃亡、してやったり。毛利を出し抜き、ついに逃げ切ったのだ。

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