第6話 鳥居強右衛門(とりいすねえもん)

 信玄の死後、後継者となった勝頼は父信玄公の「三年間は動くな」という遺言を無視する。家臣達の反対を押し切り、遠江・三河を再掌握すべく反撃を開始。大軍の指揮を執って三河へ侵攻すると長篠城を包囲した。これにより、長篠・設楽原における武田軍と織田・徳川連合軍の衝突に至った。


 武田と言えば騎馬隊が有名ですが、使っていた木曽馬は山間部で飼育されたために足腰が強く頑強で、山の斜面の移動も苦にならないそうです。

 だけどここでもう一つ有名な騎馬軍団がいますね。モンゴル帝国ではいざ戦争となれば、男は例外なく騎兵となった。遊牧生活では馬に乗れないと生活していく事が出来ない。幼くして馬に慣れ、乗馬し、矢を放って獲物を獲る。その騎兵が最も効果を発揮したフィールドがあの広大な平原だった。

 ところが長篠の古戦場跡地を航空写真で見てみると、どう見ても山里で、騎馬軍団が駆け回るにはちょっと狭い感じです。道横の小山から鉄砲を撃たれればやられてしまいそうだ。




 その長篠で、三河国の東端に位置する長篠城は約五百の城兵で守備していたが、勝頼が率いる一万五千の武田軍に完全包囲された。二方面を谷川に囲まれた長篠城は何とか防衛を続けていたのだが、武田軍から放たれた火矢によって兵糧庫を焼失。食糧を失い長期籠城の構えから一転あと数日で落城という状況に追い詰められた。

 そのため家康のいる岡崎城へ使者を送り、援軍を要請しようと決断。しかし、武田の大軍に取り囲まれている状況の下、城を抜け出すことは不可能と思われた。

 この困難な役目を志願したのが、足軽の鳥居強右衛門であった。


 城の南側には、谷川に面して糞尿を押し流す不浄の門と言われる排出口がある。夜陰に乗じ、その狭い隙間から這い出ると、急な谷を下り川に入る。そのまま下流まで行くと、無事に包囲網を突破。上手く脱出したという合図の狼煙を上げて味方に知らせた。

 その後は岡崎城を目指すが、直線でも三十キロ強は有る。蛇行する山道なら六十キロ前後だろう。途中馬を借りたと言う話もあるが、文字通り山坂を走り切って岡崎城にたどり着き、援軍の派遣を要請した。

 この時、信長軍三万が既に岡崎城に到着しており、織田・徳川連合軍は翌日にも長篠へ向けて出発する手筈となっていた。

 これを知って喜んだ強右衛門だが「一晩ここに留まってかゆなど食し、明日共に長篠城に向かえばよい」という家康の言葉を固辞する。「味方は飲まず食わずで頑張っております。この朗報を一刻も早く味方に伝えませんと」と、すぐに長篠城へ取って返した。超人的な体力だ。

 ところが、戻ろうとした城の近くで武田軍の兵に見つかり、捕らえられてしまう。

 捕まった強右衛門は勝頼の前に引き出され、「援軍は来ない」と城に向かって叫ぶよう強いられたが、逆に「間もなく援軍が来る」との事実を報せて味方を鼓舞した。勝頼はがんばれと叫び続ける強右衛門を、城兵の見守る前で磔にして殺した。


 実はこの時、勝頼の命令に従えば命を助けるばかりか、武田家の家臣として厚遇する。だから援軍は来ないと虚偽の情報を伝えるよう、強右衛門に命令していたのだった。

 しかし、最初から死を覚悟していた強右衛門は、あと二、三日で援軍が来るからそれまで持ちこたえるようにと城に向かって叫んだ。これを聞いた勝頼は怒り、その場で強右衛門を逆さ磔にして刺し殺した。しかし城兵達は、大いに士気を奮い立たせ、援軍が到着するまで城を守り通す。


 家康にとって長篠は自国領で、強右衛門は自軍の兵士でもある。後から強右衛門の最後を知ると、「そのように武士の忠義を粗末にする大将は、いずれ家臣たちから離反される事になるだろう」と憤ったようです。

 信長も、長篠城の味方全員を救うために自ら犠牲となった強右衛門の話を聞くと、感銘を受けたと伝えられている。

 また武田軍の中にも、味方を救うために犠牲になるという強右衛門を称え、その助命を求める家臣もいたが、勝頼はそれを無視して強右衛門を殺した。助命を願い出たた武田の家臣は、その強右衛門が残酷な逆さ磔とされた姿を絵図にして、自分の旗指物にしたのが今でも東京大学の資料館に残っているようです。日本の戦国時代を代表する勇士の一人として、今なお称えられています。


 さらにこの強右衛門の話は明治になって、アメリカのアラモ砦の戦いと並べられて有名になります。アラモの戦いはテキサス独立戦争中にメキシコ共和国軍とテキサス独立派との間で行われた戦闘。メキシコ軍兵士の数千に対して、砦にこもるテキサス軍は約二百。その守備兵の中にはアメリカの国民的英雄であるデイヴィー・クロケットも居た。

 砦からは援助を要請する伝令を送り出したのだが、援軍は届かないまま全滅する。その全滅の間際に帰って来た伝令も、あえて砦の中に戻り自らも戦って戦死したというものです。




「トキ」

「分かっているわ。強右衛門さんを助けるんでしょ」

「そうだ。おれを運んでくれ」


 岡崎城から長篠城に向かう山中、強右衛門の前に転送された。


「強右衛門殿」

「これは……」

「私は羽柴秀吉です」


 驚いたのは強右衛門である。羽柴秀吉と言えば大名ではないか。そのお殿様がたった一人で突然話掛けてくるとは。しかもこんな山道で。もちろん強右衛門は足軽の身分で秀吉に会う事などかなわない、先程は岡崎城で遠目に見かけたのみ。すっかり混乱してしまい、


「……あの、……本当に、お殿様で……」

「はははっ、強右衛門殿、正真正銘本物の秀吉です」


 しかし強右衛門は、長篠城に送って上げましょうと言うおれ秀吉の提案を、丁寧に固辞する。

 まあそれはそうだろう。まだこの強右衛門の頭の中では整理がついていない混乱状態に違いない。おれはしばらく様子を見る事にした。


「では、御免」

「…………」


 おれは強右衛門の去って行く後ろ姿を見送り、


「トキ」

「なあに」

「城の側で待とう」

「分かったわ」


 その後の展開は史実通りに話が進み、捕まった強右衛門は磔にされた。左右からの槍が強右衛門の胸の前で交差すると、


「やれ!」


 その命で一旦引かれる。そして、強右衛門の胸を斜め下から突き上げようとしたその時、


「トキ、今だ」


 強右衛門の周囲の空間が歪むと、その姿が霞みのように消え、槍の穂先は磔の柱にガシッと突き刺さった。



「強右衛門殿」

「……あっ、……えっ」

「援軍は二日後までには必ず来ます。それまで頑張りましょう」

「……秀、吉、殿」


 辺りを見回している強右衛門はそれっきり声が出なかった。



 鳥居強右衛門は奥平家の直臣ではなく陪臣であったとも言われ、長篠の戦いに参戦していた時の年齢は数えで三十六歳と伝わる。

 主従関係においては、家長であっても、陪臣に対する指揮命令権は持たず、また陪臣も主君の主君に従う義務はなかった。陪臣とは主従関係があるとはみなされない。


 おれは奥平家の足軽であった鳥居強右衛門を、家臣として引き抜くことにした。竹中半兵衛、元野党集団の頭目であった蜂須賀彦右衛門につぐ、羽柴家の三人目の重臣として迎え入れる事にしたのだ。


「殿」

「強右衛門、よろしく頼むぞ」

「ははっ」


 強右衛門は深々と頭下げた。


「殿」

「なんだ」


 その強右衛門が聞いてきた。


「あの磔は、一体何が起こったのでしょうか?」

「ああその事か、それはその、術だな」

「…………」

「移転術といってな、妖術のようなものだ」

「…………」


 その後は強右衛門が腕を組み、考え込んでいる姿を何度か見かけた。





 やがて信長・家康の連合軍が長篠城手前の設楽原に着陣。


「殿、上様がお呼びです」


 傍に居た半兵衛がおれを見た。


「拙者も参ります」


 信長の指示は武田軍に対する防御柵を作れとの事だった。

 武田は騎馬の巧みな軍団だ。必ず向こうから攻撃して来るだろう。それでなければ騎馬兵は威力を発揮出来ない。こちらの攻撃を待っている事は無いはず。

 おれは小川沿いのなだらかな丘の手前に野戦城を構築する事にした。先ず丘の手前を削って、向こうから見難くする。次はその手前に槍を斜めに刺し埋めていく。馬は進ん行く先に尖ったものを見ると、それ以上進めなくなってしまうようだ。そして、最後は鉄砲隊の防御柵を三段の堤を築いて設置する。




「撃て!」


 地形を利用して無数に並んだ堤から、鉄砲が轟音と共に白煙を吹き出した。家康の鉄砲隊などは、これはわが軍の戦だとばかりに、織田の鉄砲隊よりも前、柵の更なる前に出て撃ち始める。一方撤退の進言を勝頼に無視された武田の主だった家臣達は、これが最後の戦となるだろうと確信。前日に別れの水杯を交わしたほどで、決死の波状攻撃をして来る。銃撃戦は何度も続いて、圧倒的な信長と家康の連合軍の前に、武田の誇る騎馬軍団はついに壊滅。勝頼は僅か数百人の旗本に守られて後退した。

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