72話 水たまり


 服も体も土に塗れた一人の女は、僅かに震えながら額を地につけていた。

 まだ昼に降った雨が地に染みている。大きめの宿舎の縁側で、男は退屈そうに腰を下ろし、女を見下していた。


「そうか、瑛が背いたか。父の意向も汲み取れぬとは、何故なんだろうなぁ」


「……申し訳御座いません。御屋形様のご命令を、遂行することが、出来ませんでした」


「別にいい。期待もしてなかった。殺せたら儲けものくらいにしか思っておらん。婿殿だって馬鹿じゃない」


 退屈そうに報告を聞く男「袁紹」は、濡れた地に平伏す女「林」を手招きする。

 夜風で冷えたからか、それとも恐怖によるものか、林は僅かに震えながら袁紹の側にじりじりと足を進める。


「だがな、問題は瑛だ。私はあれを、お前に預けた。袁家に相応しき女に育てろと、そう言ったはずだ」


「は、はい」


「何故、私に背く。ん? 教えてくれ。生まれながらにして少し、人と違う娘だとは思っていた。だから婚姻させてはお前に婿を殺させた。頼るべきは父しかいないと思わせた、はずだったがな」


「もう一度、機会を。必ず曹昂の首を」


「違う、質問に答えろ。あれは、何故、私に背いた。この父より、一緒になって一年にもならん男につくのは、何故だ」


「……お嬢様は、曹昂を愛しております」


「なんだそれは」


 心底不可解な様子で袁紹は首を傾げた。心の機微が分からない袁紹にとって、これほど理解の及ばない感情はない。

 男女が共になり、子を設けるのは、政治のためだ。袁家は代々、そのようにして大きくなってきた。


 そもそも愛だの恋だのという言葉に、どのような意味があるのか。

 子供の遊びを本気にして、家を裏切り、命を懸ける理由など、袁紹には一生をかけても理解し得なかった。


「まぁ、つまり、お前は瑛の養育に失敗した。そういうことだな? いや、お前は分かっていてあれをそのままにしたな」


 機敏に立ち上がり、林が反応するよりも早く、袁紹は彼女の頭を思い切り踏みつけた。

 小さな水たまりに顔が浸され、林は激しくもがくが、力のこもったその足は岩のように動く気配がない。


「命に背く家臣は処罰せねばならん。私は河北を統べる袁本初。これも主がやらなければならない務めだ」


 髪を掴み上げて、苦しげに嗚咽を漏らす林の喉元に、袁紹は短刀を突き入れ、真横に引き裂く。

 一切の怒りも悲しみも哀れみもない。ただただ仕事が増えて面倒だという顔で、袁紹は林の髪を離した。


「お、嬢……」


 どしゃりと音を立てて、林の遺骸は中庭に倒れる。

 するとどこからともなく数人の侍女が影から姿を現し、その遺骸を速やかに片づけていく。


「お前らの頭目は主君に背いたため処罰を降した。速やかに、代わりの頭目を用意しろ」


「かしこまりました」


「二度と、私の期待に背くな。次はないぞ」


「はっ」



 昨夜の暗殺の件があってすぐの翌日に、俺を含めた一向は小沛へ向けて出立した。

 異変を誰にも悟られないよう、そして袁紹に向けて、俺はなんとも思っていないという姿勢を示すためだ。


 それに身の安全を確保するのなら、逸早く兗州に入った方が良い。

 兗州全域では于禁の目が光っているからな。下手な騒ぎが起きる可能性は低い。


 ただ、出立しようとした矢先のこと、慌てて俺の下に駆け込んできたのは杜襲であった。

 荀攸の補佐役であり、呂布戦では兵車の運用や堤防の建築などを受け持つなど、徐州平定に特に功績のあった策士である。


 そして今は徐州統轄を担う劉延将軍の補佐役として、下ヒに留まっていたはずだが、はて。

 特に何か徐州で返事があったという話もないし、どうしたのだろうか。


「劉延将軍の使いで、参りました」


「わざわざか。何かあったのか?」


 出立の時間を少し遅らせるように指示し、俺は杜襲と共に部屋に戻る。

 急いで来たのだろう。歳は、俺より少しだけ上かな。確か陳羣と同僚だと聞いたことがある。


「大した用事ではないのです。殿のお手を煩わせてしまい、申し訳ないのですが」


「構わない。何でも言ってくれ」


「劉延将軍は、徐州を統轄するにあたって些かの不安を覚えておられます。そこで殿に一つ質問をということで、私が派遣されました」


「ふむ」


「単刀直入に申します。もし劉備が我らに背き、徐州を乱したとき、どうするべきか。何か指針をお示し戴きたい」


 聞いた話では、劉備は袁術を排除し、淮南を手中に収めたとか。史実とは異なる一大事だ。

 そうなると徐州の南部は、劉備に首根っこを掴まれているのと同じ。まぁ、劉延将軍も難しい立場だ。


「とかく、臧覇だ。劉備に対抗するには臧覇を必ず味方につけないといけない。臧覇さえ動かせれば、徐州を失うことは無い」


「臧覇の配下には劉備を慕う豪族が多いのです」


「今までの臧覇の動きを見てると分かるが、あれは利によって動く。そうだな、いっそのこと徐州をまるっと差し出してみてはどうだ」


「……は?」


「そういった大きな利を匂わせるだけでいい、という例え話さ。あとは臨機応変に、頼むぞ」


「わ、分かり申した」


 臧覇は時勢を読み、常に強勢の側に着く。自らの値段が分かっている男だ。

 裏切者みたいな、軽薄な印象も特にないし、たぶん、味方に出来ると思う。史実でもそうだったしね。


 そんなときだった。早馬が一通の書状を携え、部屋に駆け込んでくる。

 差出人は、荀彧だった。荀彧が早馬を使うということは、あまり良い知らせではない。



 ──夏侯惇部隊が襄城での初戦にて敗北



 書状をぐしゃりと握り潰す。

 焦りと同時に湧く怒りを堪え、出立を朱頼に命じた。

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