71話 懐かしき幻影


 夜も更けたころ、未だ眠ることなく数人の裸の女性を侍らせ、郭嘉は酒を飲んでいる。

 将兵の慰労のために用意した多くの遊女のうち、特に経験が少なそうな女性を選び、常に部屋に置いていたのだ。


 そんな中、外は何やらドタドタと騒がしく、郭嘉は眉をこれでもかとしかめてみせた。

 とりあえず遊女たちに衣服を着せ奥に下がらせると、見知った若者が一人、扉を壊れんばかりの勢いで開く。


「奉孝殿! 何をなされておるのか!!」


「いっつもお前はうるさいんだよ……夜に騒ぐな、皆が驚いてしまうだろうが」


「私は荀録尚書(荀彧)に、貴方のお目付け役を仰せつかっております。戦を前にして酒だ女だ、いい加減になされませ!!」


「本当に、うるさい、頭に響く」


 郭嘉の素行を厳しくたしなめるこの若者は、名を「陳羣」という。あの荀彧の娘婿であり、その右腕でもある。

 その才覚は群を抜いており、潁川名士らしい生真面目な性格をしている。実に荀彧好みの能吏といえるだろう。


 しかし、だからこそ、素行の悪い郭嘉とは水と油のような関係にもあった。

 いくら荀彧が擁護しようとも、陳羣は郭嘉を見かけるたびに、常にその素行に苦言を呈するのだ。


 お目付け役としては、確かに最適な人材だろう。

 この堅物には話が通じないと、郭嘉は大きなため息を吐き、酒の入った瓶に木の蓋をする。


「酒を飲まないと眠りにつけないってのに、もう、うるさい奴だなぁ。ほら、お前はお前の仕事に戻れ」


「張繍軍の先鋒が対岸の三里(約1.2km)先に迫っております。夜襲の警戒を」


「必要ない。しっかりと寝て、英気を養え」


「何故!!」


「もう、頼むから、静かにしてくれ」


「この襄城は許昌への、いわば最後の砦! 奉孝殿は実質的なこの軍の司令官! しゃんとしてもらわねば困るのです!!」


 敬愛する荀彧に役目を与えられ気負うところが大きいのか、陳羣はいつも以上に目つきが険しい。

 大声のせいでガンガンと痛む頭を抱えながら、郭嘉はもう少し近くに寄れと、弱々しく手招きした。


「俺には、賈詡の考えてることが手に取るようにわかる。夜襲はない。その根拠を特別に教えてやる」


「なんと」


「根っからの文官であるお前には分からんだろうが、戦にも手順があり、こうすれば勝てるという法則がある。分かるか?」


「兵法のことですか」


「そうだ。そして数が多い方は正攻法を、少ない方が奇策を用いるのが常だ。張繍軍は我々より多勢、夜襲という奇策を用いずとも良い」


 だが陳羣は未だに、腑に落ちていない様子のままだった。確かに郭嘉の言うことは最もだ、しかしそれは百も承知。

 ということは敵もそんなことは分かっているわけで、裏をかいてくるということも十分にあり得る。


「俺は戦の時は、人を見る。相手の軍師がもしも荀攸なら、夜襲を警戒した」


「どういうことなのですか? 賈詡は荀中軍師(荀攸)に劣るということでしょうか?」


「違う違う。得意分野が違うのだ。賈詡は俺に似ている。本分は戦術より戦略だ。故に奇策のような賭けを好まない。しかし荀攸は根っからの戦術家だ。博打に似た奇策を押し通せる度胸がある」


「私には、理解の及ばぬ話です」


「お前は文官だ。しかも生真面目な。人を欺くのが仕事の人間の話が分からずとも当然、とにかく戦は任せておけばいい」


「勝てるのですな」


「おう」


 まだまだ腑に落ちていない話を無理やり飲み込み、陳羣は頷く。

 ようやく話は終わったと、郭嘉もほっと一息をついた。


「分かり申した。ただ、酒と女は見過ごせません。そこの酒瓶と、奥の遊女は没収していきますので」


「なっ」


「ご安静になさいませ」


 ガチャガチャと陳羣の従者が部屋に雪崩れ込み、あっという間に瓶と遊女を撤去してしまう。

 ぽかんと郭嘉は口を開けたまま、彼らが去っていくのをただ見ていることしかできなかった。


 すっかりガランとした小屋の中に一人残され、ボリボリと頭を掻く。

 眠りにつこうとしても眠れない。郭嘉はふっと鼻で笑い、小さく燃える燭台に目を移す。



「殿、如何なされたのですか」



 近頃、眠りにつけない原因。夜になると決まって、郭嘉の側にそれは現れる。

 郭嘉が生命の全てを捧げ、忠誠を誓った主。名は曹操。懐かしい主君の姿が、そこにあった。


 何も言葉は発さない。ただただ気前のいい笑顔を見せるのみ。

 これが幻影だということは分かっている。しかし分かっていても、どうしても、胸がざわつく。


「私に、何をお伝えしたいのですか。殿、貴方は、私に」


 曹操はただこちらを見つめ、笑っている。

 そういえば戦に挑む前には必ず、こんな風に笑っていたなと、不意に思い出す。


「若殿は大きくなられました。見違えるように。些かの不安は残る気質ですが、人の上に立つ顔になり申した」


 まさかあの董承を、あれほど容易く捕縛するとは思わなかった。

 まさかあの陳宮を陥れ、あの呂布に打ち勝つとは思わなかった。


「御心配には及びません。殿、間違いなく貴方の意志は、受け継がれております」


 立ち上がり、曹操の下に近づく。

 するとその幻影はふっと消え、郭嘉はまた一人になった。


「……俺も、長くは無いな。死人が見えるようになるとは」


 また、どかりと腰を下ろし、目頭を押さえる。

 一向に癒えることのない、じくじくとした臓腑の痛みを堪え、長い夜を耐えたのであった。

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