70話 家か愛か


 部屋で一人、待っていたのは林であった。静かな面持ちで、夜も更けた暗い居室に、一人で立っている。

 袁瑛は部屋に入ると懐から小さな丸薬を一つ取り出し、落とし、そのまま踏み砕いた。


「それが、お嬢様の答えですか」


「お父様の指示ですね」


「いいえ。これは誰の指示でもなく、不幸な事故。典医の悪意と不注意から起きた、不幸な事故なのです」


「ならば事故は防がねばなりません」


「どうしてお嬢様が曹家に嫁がれたのか、その意味をご推察の上、私情を捨て、賢明な判断をご期待いたします」


 今までずっと、幼い頃より共に育ってきた林の顔は、未だかつて見たことが無いほど冷えていた。

 怒りよりも、悲しさが胸を覆う。彼女だけは、自分の心を理解してくれると、そう思っていただけ余計に。


「私は、あの人を愛しています。いくらお父様の意向とは言え、愛する人を殺すことは出来ません」


「一時の気の迷いを優先なさるとは……あきれ果てるばかりです」


「貴方だけは、私のことを、分かってくれると、思っていたのに」


「はい。分かっておりました。お嬢様は恐らく曹昂を殺せないでしょうと」


「……どういうこと」


「大丈夫です。お嬢様が手を下さずとも、他にいくらでもやりようはありますので」


 ニコリと微笑む林。袁瑛は急ぎ部屋から出ようと振り向くが、いつしか音も気配もなく、複数の侍女に囲まれていた。

 そして流れるように手足を拘束。床に押し付けられ、口には布を嚙まされてしまう。恐ろしさで、声も掠れて出てこない。


「このまま、一緒にこの部屋で夜が明けるのを待ちましょう。夜が明ける頃には、私達の与り知らぬところで、全て終わっております」


 最後の最後まで、信じていた。林は自分のことを、心から理解してくれるだろうと。

 父は自分のことを、娘として愛してくれているのだと。しかしその期待は今、脆く崩れ去った。


 結局のところ便利な手駒の一つに過ぎなかったのだ。袁家の道具でしか、無かったのだ。

 まだ出会って僅かな間しか共に過ごしていない曹昂だけだ。本当に、自分を袁瑛として見てくれたのは。


 ならば守らなくてはならない。

 これは自らの姓を捨てる、一世一代の覚悟でもあった。



「……残念ね」



 猿轡のせいで上手く言葉に出来ないが、袁瑛はそう呟き、固いつま先で木の床をトントンと叩いた。

 すると突然、袁瑛の伏せていた箇所の床が崩落し、床下から数人の老婆が湧き出したのだ。


 林から今朝がた、曹昂暗殺の話を聞かされるよりも前のこと、既に計画のことを袁瑛は知っていた。

 丁沖から届いたとされる化粧箱の底に、その旨が記載された密書が届いていたからだ。差出人は、あの郭嘉である。


 最初は冗談だと思った。密書にも推察に過ぎないと書いてあった。

 だからこそ最後の最後まで、友を信じていた。しかしそれはあっさりと裏切られた。


「奥方様のご協力のおかげで、儂らも色々と動きやすかったでのぉ。助かり申した」


「林、観念なさい。私はもう袁紹の娘ではなく、子修様の妻なの。あの人の身に及びそうな危険は既に、全て取り除いているわ」


「愚かなことを……これで乱世は、まだ長く続くのですね」


 林を始めとした複数人の侍女たちは一斉に散開し、部屋から出て、すぐに消えた。

 自らを「没我」と称する老婆らもまた彼女たちを追って、闇夜に姿を消す。


 床板の抜けた部屋でただ一人、袁瑛だけが荒く息を繰り返していた。

 大きな音がしたのを聞き、衛兵らが駆けつけてきたのはそのすぐ後の事である。



 董昭は兗州を通るあらゆる商家の情報を収拾することで、謀略の糧としてきた。

 加えて元々は袁紹配下ということもあり、ある程度はその内部に関しての知識もあった。


 その董昭が汲み取った僅かな異変。それを郭嘉が調べ上げ、推察し、俺の身辺の警護を強化させた。

 だがそのためには袁瑛の協力は欠かせなかった。彼女の身辺が最も警戒すべき対象であったからだ。


「全ては奥方様のご協力あってのものです。ただ、実行犯を一人も捕らえられなかったのは、悔しい話ですが」


「あの袁紹の手の者だ。恐らくだが没我よりも腕は確かだろう。だからこそ、瑛さんの協力が欠かせなかった」


「まさしく」


「董昭、どうして袁紹は俺を殺そうとした」


「そういう性質であるため、としか申しようが御座いません。あれは私情というものを持ち合わせていないのです」


 娘婿であろうと、不要になれば殺す。己が天下への最短経路であるなら猶更だ。

 しかも失敗したとて、圧倒的に劣勢なこちらが袁紹の非を唱えることも出来ない。


 官渡の戦いで曹操が袁紹に勝てたのは、曹操だからだ。曹操以外の人間では絶対に無理な所業であった。

 だから俺なんかが敵うわけもない。官渡の戦いだけは、何が何でも避けたい。故に俺はこの暗殺を、黙って見過ごすことしかできなかった。


 史実を知る俺が、絶対に避けないといけないのが「袁紹との衝突」である。

 他にも曹操でしか成し遂げられなかったことは色々とあるが、まずはこの一点に集中しなければならないだろう。


「俺は暗殺の危険に襲われても、袁紹と戦が出来ないのか。なんとも惨めな話だな。お前も気を付けろよ、董昭」


「御意」


「それにしても、瑛さんのことが心配だな」


 穢れを知らないまま育ってきたのだ。

 今まで信じてきたもの全てに裏切られ、彼女は今、何を考えているのだろう。


 ひとまず事態が落ち着くまで、面会はしない方が良いと言われた以上、駆け付けることは出来ない。

 夏に入り始め、夜風すらも生ぬるい。まだ、夜が明けるには早い時間だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る