69話 平穏な時代に


 彭城から許昌へ向けて、帰還を開始した。同行するのは僅かばかりの青州兵だ。

 兗州に入れば于禁が手配してくれている護衛兵も列に加わってくれるらしい。


 呂布が死んだとはいえ徐州はまだ不安定であるために、油断することは出来ないとのこと。

 もし道中で俺の容体が悪化すれば、その場で駐屯する必要もあり、それを守るために最低限の兵力は必要らしい。


 まぁ、大丈夫だとは思うんだけど。

 最近はそこまで体調が大きく崩れるようなこともなくなったし。


「曹車騎、お体の具合はいかがですか」


「久しぶりに動いたからな、少し疲れた」


「ゆっくりと体を慣らしていきましょう。左腕の具合は?」


「相変わらず、上手く動かない。だが痛みはない」


「ふむ、こちらも感覚を徐々に取り戻していきましょう」


 それほど長い距離を進んだわけではない。しかし、泥のような疲労感がどっと押し寄せてくる。

 今日はどうやら道中の小さな街に寄って一泊をするみたいだ。


 本当なら幕舎を立てて野営をしても良いんだけど、ほら、袁瑛さんがいるからね。

 良い所のご令嬢を野宿なんてさせられないという配慮がどうしても、ね。


「董昭、明日の予定はどんな感じなんだ?」


「明日は今日より少し長い距離を進み、沛国に入ると聞いております。その後、兗州に入るみたいです」


「本当なら早く都に戻りたいが、まぁ、曹仁が先に戻ってくれている。恐らくだが大丈夫だろう」


 とはいえ今の張繍陣営は、史実とは比べ物にならないくらいの増強を果たしていると聞く。

 やはりこれも全て、賈詡の手腕だろう。史実では曹操幕下の軍師として名を連ねたが、その活躍は何というか、控えめだ。


 それもそうだろう。何と言ったって曹操の嫡男である曹昂を殺し、曹操の首まであと一歩まで迫ったのだ。

 大きく目立てば立場が危うくなる。そのせいか賈詡の史実での活躍は、本来の能力以下のものになっていると思っている。


 しかしこの世界では、そんな配慮は一切必要が無い。張繍との関係も良好だ。

 そうなれば賈詡の策謀を止めるものはなにもなく、彼が持つ能力を十二分に発揮できるはずだった。


「殿、ご心配なく。あの郭嘉様が直接、防衛に出向いております。賈詡の策謀に絡めとられることは御座いません」


「それも、そうだな」


 董昭は頭を下げ、部屋を後にした。恐らく、俺の叱責を受ける損な役目を押し付けられて来たんだろうな。

 潁川郡の官僚との関係悪化を望まない董昭としても、それを受けざるを得なかったのだろう。


 いつも通り、張機の調合した苦い薬湯をチビチビと啜り、寝台に腰を下ろす。

 もう夕飯も済ませたし、まだうっすらと夕日が外を照らしているが、やることはない。暇だ。


 左腕に力を籠める。しかし籠めた力がそのままどこかに消えてなくなっていく。

 僅かに上下左右に動かしたりは出来る、手も握れている。しかしそれだけだ。全くもって力は入らなかった。


 すると、コンコンと控えめに戸が叩かれる。

 誰だろうか。張機が何か忘れ物でも取りに来たのん?


「あの、瑛に御座います。少しよろしいですか?」


「良いですよ。どうしましたか?」


 いつもとは違い、どこか陰のある笑顔をしていた袁瑛が顔を覗かせる。

 たまにこの人が俺の一つ上だっていうのを忘れてしまいそうになるな、こういう子供っぽい仕草を見ていると。


「丁度、暇をしていたところでした。隣に来てください、ほら、おいで?」


 笑顔で手招きをすると、袁瑛は顔を赤くして、俯きながらふわりと隣に腰を下ろした。

 うーん、都に帰還してから楊彪にこっぴどく叱られるのを案じているのだろうか? 怖いもんなぁ、あの人。


「そういえば、婚姻を結んでからもずっと慌ただしく、ゆっくりと、二人で過ごす時間もありませんでしたね」


「不謹慎な話かもしれませんが、私は、この数日間がとても幸せでした。子修様とこうして、寄り添う事が出来て、本当に」


「自分も同じですよ。戦乱を早く収束させ、いつかこうして二人で、各地を旅してみるのも面白いかもしれませんね」


「よろしいの、ですか? 子修様は天下にお仕えする身なのに、私などが、独り占めするなど……」


「何を言っているのですか。貴方は俺の妻だ。それは生涯変わらない。穏やかになった天下を、俺は貴方と巡ってみたい」


「私も、その日を、心待ちにしております」


 袁瑛はズビズビと鼻をすすりながら涙を落とし、俺の胸元に顔をうずめた。

 それが涙か鼻水なのかは分からないが、じんわりと胸元が濡れていくのを感じる。


 しばらくの間、こうして穏やかなおしゃべりをして、袁瑛は夜も更けた頃に自室へと戻っていった。

 あれ? そういえば彼女、何しに来たんだろ? 俺と同じで暇だったのだろうか?

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