68話 信頼の意味


 熱のぶり返しもなく、そろそろ左腕のリハビリに移ろうかとしているときのこと。

 ようやく彭城から都に戻ろうかと、そう考えているときに、俺の耳を疑う一報が入ってきた。


「何故、それを早くに言わなかった!? 俺はお前らの何だ、言ってみろ!!」


「お怒りはごもっとも。されどこれも全て、殿の御身を考えてのこと。如何なる処罰もお受けいたします」


「……誰だ。董昭、お前の指示ではないだろ。荀彧か、夏侯惇か」


「荀彧様、郭嘉様の発案に御座る。私を含め、荀攸様、夏侯惇将軍、于禁将軍も同意の上、殿にはお伝えいたしませんでした」


 今まさに、張繍が許昌に向けて進軍中と、董昭は俺に面会した際、そう告げた。

 防衛に出ているのは夏侯惇と郭嘉。そして急揃えの弱兵が一万足らず。圧倒的な劣勢である。


 この一報を俺に伝えれば、俺は病床にあってもなお、何が何でも都に戻ろうとしただろう。

 それを阻むために、荀彧と郭嘉は独断を降した。正しい判断だ。だがそれならそうと、説得くらいしてほしかったという思いもある。


「現在、曹仁将軍の率いる援軍が襄城に急行しており、夏侯淵将軍と荀攸様の率いる本軍がそれに続いております」


「戦況は、どうなっている」


「今まさに、戦が始まっているものと予測されます。詳細な戦況は、まだ。ですがご心配なく」


「董昭、俺はそこまで、頼りないか」


「な、左様なことは」


「俺は今まで皆を信じてきたつもりだ。命を預けるつもりで。だからこそこの件も、話してほしかった。俺を、信じてほしかった。安静にしろと説得されれば、俺だって納得しただろう」


「……申し訳御座いません」


「過ぎたことだ。だが、荀彧と郭嘉の処遇は、考えるぞ」


 この歪みは決して、誰かに責任があるという話ではない。全ては「仕組み」がそうさせているのだ。

 曹操という圧倒的なカリスマが死んでもなおこの組織を保つためには、官僚集団に力を集中させる必要があった。


 失われたカリスマを、官僚の結束で補うのだ。その官僚を率いる荀彧が、俺を君主と仰ぎ、補佐をする。

 こうすることで曹操亡きこの組織を運用することが出来ていた。だからこそこのような、歪みも発生してしまう。


 故に、仕方がない。しかし仕方ないだけで済ませてしまうには、あまりに事態が大きすぎる。

 ただひたすらに臣下を信じるということが、これほどにも難しいとは思わなかったな。


「とにかく、俺も都に戻る。張機からの許しも出た。まぁ、だからこそ伝えたのだろうが。それで兗州は、変わりはないか」


「于禁将軍が駐屯している時に、目立とうとする賊も豪族も居りませんので、代わりはありません」


「じゃあどうしてお前がわざわざ、彭城にまで出向いて来たんだ? 用があったんじゃないのか?」


「陳宮が死にました。それをお伝えするべく」


「そうか。最後に何か、言っていたか」


「何も。呂布の戦死を聞くと一切の飲食を断ち、そのまま。壮絶な殉死に御座いました」


「故郷で、手厚く葬ってくれ。帰還の道中で、俺も墓に出向こうと思う」


「御意」



 曹昂の居室から、何やら大きな怒鳴り声がしたのを、袁瑛は少し離れた部屋で聞いていた。

 久しく忘れていた穏やかな日々が、胸の内で崩れていくのを感じる。


 そうだった。あの人は、陛下を補佐する漢室の重臣なのだ。

 明日はどんな衣装を披露して、そしてどんな話をしようかと考えていた胸の内に、暗い影が覆う。


 天下に仕えるような御方を、私一人が独占していいわけがない。

 数日も経たないうちに、戦か、朝廷か、ともかく私の下からまた離れていってしまう。


「そして、無事に帰ってくるという保証は、どこにもない」


 もう二度とあんな思いは嫌だった。曹昂が矢傷に倒れたと聞いた時のことを思い出す。

 呼吸が不規則になり、涙が溢れ、何をどうすればいいか分からないまま、ただひたすら会いたいと願った。


 夜も一睡もすることなく、とにかくこの彭城に急いだ。だいぶ無理も言った。

 こんなに人を好きになったことなど無い。そして、その人を失う恐怖を味わったことも無かった。


「奥方様、失礼します」


「どうしたのですか?」


 侍女が一人、部屋を尋ねてくる。顔は見たことがあるが、名前は分からない、地味な侍女であった。

 冀州から連れてきたというわけではないので、恐らく曹家に仕えている女性なのだろう。


「こちら、お届け物になります」


「あら、誰からの、何の届けものかしら。私なにか頼んでたっけ?」


「都より丁沖様からです。出先でも仕える化粧道具の数々とお聞きしております」


「それはありがたいわね。分かったわ、そこにおいてちょうだい」


「かしこまりました」


 丁沖は曹昂の屋敷の家宰である。両家の婚姻の際でも、楊彪と共に色々と動いてくれていた人だった。

 ということはこの化粧道具は、曹昂の養母である丁夫人からの贈り物なのだろう。


 すごく目に力のある、高潔な女性、という印象が強い。

 最初は怯えていたものの、すぐに彼女の胸の内にある優しさを感じ、最近になって打ち解けることが出来ていた。


 綺麗に縛られている紐を解くと、その木箱には確かに様々な化粧道具が入っている。

 急に都から出たものだから、こうした気を利かせてくれるのは本当にありがたかった。


「これは……?」


 化粧道具を一通り確認すると、箱の底には一つの小さな書状が入っていた。

 周囲を見渡し、部屋に誰も居ないのを確認する。袁瑛はその小さな書状を手元で開いた。

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