第四章 一滴の毒

64話 後漢の名医


 三国時代の名医といえば、やはり最初に思い浮かぶのは「華陀」だろう。

 もし記録が全て真実なら、千年も医療を先取りしていたかのような、恐るべき「神医」である。


 全身麻酔や、外科手術などなど、まるで一人だけ別世界を生きているかのような腕を持っていた。

 だが、その医療の手順は記録に残されず、華陀の一代だけで医学の発展は止まってしまった。


 しかし名医は、華陀だけではない。後世への影響を考えれば、華陀を凌ぐ名医が一人、同時期に存在していたという説がある。

 その名は「張機」。字(あざな)を含め「張仲景」と呼ばれることも多い医学の聖人である。


「では、傷口を見させていただきます。衣服をお脱ぎください」


 仙人のような奇怪な風貌をするでもなく、頭に綺麗な冠を乗せた、一人の官僚が俺を見下ろしていた。

 髪も髭も整っており、医者というよりは学者のような。彼こそ、その「張仲景」であるらしい。


 朝廷から「長沙太守」に任じられるほどだ。儒学者としての一面もしっかりと持っているのだろう。

 現在、荊州は劉表の手にあるため、張機は任地に赴くことが出来ない状況であったらしいが、俺にとってそれは非常に幸運なことだった。


「なるほど、聞いていた通り化膿しております。ですが、腫れもさほどなく、壊死もしていない。手足に痺れは?」


「左腕が、痺れてほとんど動かない。だが、矢を受けた日から徐々に、和らいではいる」


「もう少し矢が深くに刺さっていれば危うかったでしょう。ふむ、処置も悪くない」


 張機は俺の左腕に触れ、どこに痺れがあるか、痛みはあるか、丁寧に一つずつ確認していく。

 ある程度の診察が終わったのか、しばらく周囲の典医達と、なにやら話し込んでいた。


「曹車騎、熱病はいつ頃から続いておりますか」


「矢傷を受けてからずっとだ。熱が引いたと思っても、翌日にはまた熱にうなされる」


「恐らくですが、そちらは毒とそれほど関係はありません。ですがそのせいで、体内の解毒が進んでいないのでしょう」


「いつ、治る」


「焦りは禁物です。まずは戦によって消耗した気力を回復させましょう。最悪、痺れは完治までいかないでしょうが、生死に問題は御座いません。ですが気力が戻らねば悪化の一途を辿ります、お気を付けください」


 シュンシュンと音を立てて、土瓶の中で湯が沸いている。

 また別の方では、典医の一人がゴリゴリと音を立てて、何やら草を磨り潰しているようだ。


 張機は華陀とは違い、しっかりと医学を後世に繋いだ名医とされている。

 彼が書き残したのは「傷寒論」とよばれる、伝染病に対する治療法を記した論文である。


 診察によって病の種類を判別し、症状に合わせた薬湯を処方し、病の快癒を目指す。

 こうした段階建てた療法は当時で考えれば非常に画期的であったとされ、後世に大きな影響を残したとか。


「熱病の快癒を促す薬湯です。じきに眠気が襲って来ますので、ゆっくりお休みください。傷口は清潔な状態を保っていれば、良くなります」


「やらなきゃならない仕事がまだあるんだが……」


「ふざけないでください。そんなことをしているから病が治らないのです」


「うぐぎぎ」


 差し出された薬湯を受け取り、ふーふーと息をかけて冷ます。

 一口だけ啜った濃い茶色の薬湯は、この世のものとは思えない苦さと薬臭さを感じた。


 もうやだ、飲みたくないでおじゃる。



 久しぶりに、深く眠れた気がする。

 戦で気が立っていたからか、熱で怠すぎたからかは分からないけど、今までずっと浅い眠りが続いていた。


 辺りは暗く、外はすっかり夜だった。いや、早朝かしら?

 というか何で俺の寝台にもたれかかるように、袁瑛さんが居るの? ここ彭城だよね?


 あまり感覚のない俺の左手を握りながら、すやっすやだねぇ?

 頼むから、誰かに説明してほしいんだけど。普通じゃあり得ないことが起きてるんやけど。


「あの、瑛さん? 何をやってる? ここは彭城のはずだが?」


「……ハッ! 子修様、起きておられたのですねっ。申し訳ありません、つい、居眠りを。なにぶん寝ずにここまで来たものですから」


「いや、あの、何でここに居るのかを聞いているんだけど」


「心配だったからです。居てもたってもいられず、やってはいけないことだと分かりつつも、身体が動いてしまいました」


 これが、超級お嬢様の我儘パワーってやつなのか。

 誰か止めなかったの? いや、たぶんだけど、止めたけど来ちゃったんだろうな。


 確か、袁瑛さんの諸々の中間管理を司っているのは今、楊彪だったか。

 この調子だとますます、心労による抜け毛が加速してそうだな。マジで心苦しい。


「戦は終わったとはいえ、まだまだ徐州は、紛争が続く危険な場所です。貴方の来るべき場所ではない」


「全てを承知の上で参りました。夫を待ち、家を守るのが妻の役目なれど、貴方と運命を共に出来ぬのなら、私は良き妻であろうとは思えませんでした」


「はぁ……どうしたものか」


「ご無事で、何よりです。本当に、本当に良かった」


 これはマズいな。郭嘉、俺はこういう時、どうするのが正解なんだ?

 確かにその一途な思いは、一人の男としては嬉しいものがある。


 でもこれは、まさしく「傾国」と呼ぶに相応しい「愛」のようにも思える。

 どうして俺なんかを。不可解な思いを胸に抱え、綺麗な涙を流す袁瑛の頬を、右手で撫でた。

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