62話 二人の軍師
張繍は急に軍を発して豫州に侵入すると、曹昂の勢力圏である「昆陽」を奪った。
この地は後漢王朝の祖である「光武帝」が、僅か数千の兵で、四十万の王莽軍を大破した伝説的な場所だ。
そして対する夏侯惇の軍勢は「襄城」に布陣し、防備を固めた。
ちなみにこの地は、あの項羽が敵軍の守備兵をことごとく生き埋めにしたとされる土地である。
襄城が抜かれれば、許昌は成す術なく蹂躙されるのみとなってしまう。
何が何でも、張繍を阻まなければならない。夏侯惇は戦を前に、闘志を燃やしていた。
「将軍、気を荒立ててはなりません。どうです、酒でも呑みませんか?」
「軍師殿、あの張繍と戦うのだ。気を鎮める方が、難しい」
「我らはただ防ぐだけ。張繍を討つのは殿の役目。あまり活躍してしまうと、殿に怒られますよ」
「ふっ、確かにそうだ。軍師殿を見ていると、まるで戦の前という気がしてこないな」
襄城の前、河川を前にして布陣を構える兵士達を眺めながら、床几に腰を掛けて郭嘉は酒を呑む。
戦が目前にまで迫っているというのに緊張感は一切なく、放っておけばここで昼寝をかましそうな気楽さである。
「それにしても、兵士達の動きがおぼつきませんなぁ……」
「仕方ない。急に集められた農民兵ばかり、数だけを揃えたような防衛部隊だ」
「主力となるのは」
「楽進将軍が率いる直属部隊の五百。あとは正直、装備もままならぬ弱兵のみ」
「将軍、絶対に打って出てはなりませんぞ」
「……分かっている」
張繍軍は、かつて天下で猛威を振るった董卓軍の流れを汲んでいる。
まともに戦って勝てる相手ではない。それをまず理解しておかなければいけない。
特に郭嘉は夏侯惇の戦下手な点を懸念していた。決して将としての資質が無いわけではない。
だが夏侯惇は曹操と似ていて情に厚く、時に、その情のために不合理を選ぶ悪い癖があった。
曹操は持ち前の天性の軍才があったから何とかなったが、夏侯惇はそうではない。
長所も裏を返せば短所になる。夏侯惇はそういう意味では、非常にわかりやすい軍人であった。
「軍師殿、我々はどのように戦えばいい」
「王道です、奇策は必要御座いません。河を渡らせないようにすること、要害を守ること、野戦を行わないこと。これらを遵守し時を稼げば、自ずと勝てます」
「とにかく防衛に徹すればいいと」
「左様です。そうすれば荊州の狸爺(劉表)が動きます。もしくはこちらの本軍が帰還するか、ですね」
この進軍の意図は、曹昂が流れ矢に倒れた、その動揺を更に大きくするための侵攻だろう。
それに対抗するにはきちんとこの襄城にて、つつがなく防衛を完遂する必要がある。
曹昂の容体に何も問題はない。
我らのどこにも、付け入る隙などない。
特に袁紹の手が迫っているこの状況で、失敗など許されない。
完璧な防衛。今、夏侯惇はそれを天下に示す必要があった。
冷たい風が吹き、衣服が靡く。
郭嘉は身を縮めながら、コンコンと乾いた咳を繰り返した。
◆
二万の軍勢の最後尾にて、ゆるゆると兵を進めるのは張繍である。
その顔には些かの不安が滲んでおり、何やらもの言いたげな雰囲気であった。
劉表と交戦真っただ中の状況で、ほぼ全軍で北上をしている。
普通に考えれば、あり得ない話だ。これこそ「二兎を追う者」ではないだろうか。
だが、そんな張繍の不安を気にせず、馬を並べる賈詡は普段通り死にそうな顔のままだ。
果たしてこの智謀の士は何を考えているのか、君主なのに、張繍は振り回されっぱなしである。
「軍師殿よ、曹昂が倒れたのは分かった。しかし、全軍をそのまま北に向けるというのは」
「南陽郡を抑えたとて、我々には物資が足りません。故にこうして常に戦い続け、奪い続けないといけないのですよ」
「ならば劉表を攻め続ければいいではないか」
「劉表はどうせ出てきません。絶対に出てきません。それが彼の得意戦術ですから」
「だから、曹昂を攻めると」
「左様」
生きるために戦争をする。土壌が貧しいからこそ、この法則は車輪のように止まらない。
だがこれはどこの勢力も同じだ。だから乱世になる。賈詡はそれをよく知っていた。
勝つしかない。
それだけが、生き残る道なのだ。
「それでどう戦えばいい。流石にこの兵力では許昌は落とせない。兵糧も足りないしな」
「主目的は略奪です。敵地ですので、襄城に至るまでの道中では兵に略奪を許し、士気を高めます」
「それで、次は」
「襄城の夏侯惇軍にぶつかるだけです。敵は弱兵ばかり、我が軍は強勢、奇策は必要ありません。我らは王道を進めばいい」
「城に籠られる前に、どれだけ殺せるか、そう言うことだな」
「そうです。新参の有望株がどれだけ使い物になるか、それを見極める一戦でもあります。勝利を得て、帰還し、劉表に挑みましょう」
「よし分かった」
敵を屠れるだけ屠る。実に張繍好みの、単純かつ明快な戦術である。
南陽が袁術の手によって枯れていなければ、もっと上手い立ち回りもあったのだがと、賈詡は眉間に皺を寄せた。
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