61話 張繍の北上
激しい高熱にうなされ、身体の芯は凍えるように寒い。意識も朦朧としたまま。
だが、俺は荀攸の作戦を許可した。曹操ならきっとそうすると、何度も胸の内で唱えながら。
薄暗い夜のこと、俺は輿の中で横たわり、足場の悪い山道で激しく上下に揺られ続けた。
鳴り響く怒号と馬蹄。呂布が追ってきている。命を餌にした、危険の大きすぎる博打であった。
俺に矢が突き刺さらないよう、不其が俺の隣に寄り添ってくれているのが分かる。
背後を矢に貫かれても、不其は身を挺して、俺を守ってくれるつもりなのだろう。
「ご安心ください、曹昂様。先の易の結果は、既に振り直しております故」
どれくらい経っただろうか。激しく揺れていた馬車は、次第に落ち着きを取り戻す。
怒号も馬蹄も聞こえなくなり、コオロギの鳴き声が一番よく聞こえていた。
そして、馬車が止まる。
輿の戸が開き、出迎えてくれたのは杜襲であった。
「早く殿を幕舎へお連れしろ! ぐずぐずするな!!」
「……不其、ありがとうな」
「私は何も。天が、殿をお救いすることを選んだだけですよ」
屈強な兵士達に抱きかかえられ、輿の外に出る。
薄い雲が流れ、空では眩しいほどに月が輝きを放っていた。
◆
許昌に、衝撃が走る。
二万の張繍軍が、急遽、北上を開始したというのだ。
勿論、目標はこの許昌だ。
朝廷での議論も紛糾する中、留守を預かる荀彧は、いつもと変わらない様子であった。
「荀録尚書(荀彧)よ、張繍軍が迫ってきている。皆が議論をする中、何故、貴殿は何も言わぬのだ」
「陛下、それはさほど取るに足らぬ話である故です。それよりは流民定着の政策の方が急務でしょう」
「敵が目前にまで迫っているのに、急務ではないだと?」
「はい。御一同が慌てている理由が、正直、臣には分かりかねまする」
額に汗を浮かべる朝臣達は、皆揃って荀彧に厳しい目線を向けた。
しかし当の本人は首を傾げるのみで、本当に何とも思っていないような表情をしていた。
不安を抑えきれない劉協は玉座から身を乗り出し、荀彧の名を呼ぶ。
どうしてそう言い切れるのか。敵はあの張繍だぞと、縋りつく思いで問いかける。
「まず大前提として、大義名分が御座いませぬ。陛下を賊から救うと戯言を抜かしておりますが、陛下は別に勅命を下しておりません。誰がそのような賊軍に賛同しましょうや」
「だ、だが、張繍は今や南陽郡全域を瞬く間に平定し、その強兵は天下に恐れられているのだぞ」
「南陽郡は、かつては豊かな地でありましたが、僭称帝・袁術の悪政により荒廃してしまいました。劉表とも交戦する中、斯様な土壌で、幾つも戦線を維持できるはずが御座いません」
さも当然という表情で、一つ一つ、懸念点に対して意見を述べる。
すると不安に駆られていた劉協や、その他の朝臣も皆、次第に表情を明るくしていった。
なるほど、これなら本当に大したことじゃないのかもしれない。
皆がそう呟く中で、ただ一人、険しい顔で前に進み出る者が居た。
「荀録尚書、私からもお尋ねしてよろしいか?」
「孔少府(孔融)、どうぞ」
孔融。あの儒学の祖「孔子」の末裔とされている、当代きっての儒者である。
元は青州刺史として東方に赴任していたが、袁譚に敗れ、朝廷に戻ってきた人物だった。
その血筋から彼を慕うものは天下に数多存在し、朝臣の中心人物と目されている。
だがその高潔さ故か、些か性格に難点も多い。曹操にすら平気で盾突いていたほどだ。
権力に屈しない者こそ、本物の君子であるかのように考えているのだろう。
お上が右といえば左を向く。孔融を表現するなら、そういう性質の人物である。
「張繍配下の軍師である賈詡は、陛下を長安にてお助けした当世きっての賢者。彼は荊楚の人材を広く取り入れ、今や猛将も数多いと聞く。本軍が徐州にある現状で、果たして勝てますかな?」
「賢者であれば、董卓に仕えない。李カクや郭汜に献策をしない。あれこそ賊ですぞ。そして人材を広く集めたとて、兵糧が無くばそれも活かせません」
「兵糧が無いのは我々も同じ。ここは本軍が帰還するまで和睦を結ぶか、袁大将軍に助けを求めるべきかと存じます」
「援軍無くとも、十分に対応可能です。夏侯右将軍(夏侯惇)を大将に据え、郭軍師祭酒(郭嘉)を副将とし、既に防衛に向かわせております」
「こちらは寄せ集めの兵が一万足らず、対する敵は精兵が二万。これでも勝てると?」
「勿論。要害に依るこちらの軍を敵が破るには、兵法から言っても十倍の戦力が必要です。負けはあり得ない」
「曹車騎は矢傷を受けたと聞く。斯様な状況で、対応可能であると?」
「戦場は矢が飛び交う場所ですから、矢傷を受けることもありますよ。現地から車騎将軍は無事との報告も来ていますし、不安を必要以上に募らせるべきではない」
重厚な圧力を発する孔融の論戦に、荀彧は涼しい顔をしたまま返答を続ける。
もはや誰も口を挟もうとしない。二人の話を、黙って聞くのみの時間が続いた。
そして孔融はひとしきり質問を終えたのか列に戻り、劉協に向かって拝礼をする。
今の話を聞いたうえで、決定を下してほしいという意志の表れだろう。
「朕は、荀録尚書の意見を採ろう。張繍軍への対応を、貴殿と夏侯右将軍に一任する。かの賊を退けよ」
「かしこまりました」
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