61話 張繍の北上


 激しい高熱にうなされ、身体の芯は凍えるように寒い。意識も朦朧としたまま。

 だが、俺は荀攸の作戦を許可した。曹操ならきっとそうすると、何度も胸の内で唱えながら。


 薄暗い夜のこと、俺は輿の中で横たわり、足場の悪い山道で激しく上下に揺られ続けた。

 鳴り響く怒号と馬蹄。呂布が追ってきている。命を餌にした、危険の大きすぎる博打であった。


 俺に矢が突き刺さらないよう、不其が俺の隣に寄り添ってくれているのが分かる。

 背後を矢に貫かれても、不其は身を挺して、俺を守ってくれるつもりなのだろう。


「ご安心ください、曹昂様。先の易の結果は、既に振り直しております故」


 どれくらい経っただろうか。激しく揺れていた馬車は、次第に落ち着きを取り戻す。

 怒号も馬蹄も聞こえなくなり、コオロギの鳴き声が一番よく聞こえていた。


 そして、馬車が止まる。

 輿の戸が開き、出迎えてくれたのは杜襲であった。


「早く殿を幕舎へお連れしろ! ぐずぐずするな!!」


「……不其、ありがとうな」


「私は何も。天が、殿をお救いすることを選んだだけですよ」


 屈強な兵士達に抱きかかえられ、輿の外に出る。

 薄い雲が流れ、空では眩しいほどに月が輝きを放っていた。



 許昌に、衝撃が走る。

 二万の張繍軍が、急遽、北上を開始したというのだ。


 勿論、目標はこの許昌だ。

 朝廷での議論も紛糾する中、留守を預かる荀彧は、いつもと変わらない様子であった。


「荀録尚書(荀彧)よ、張繍軍が迫ってきている。皆が議論をする中、何故、貴殿は何も言わぬのだ」


「陛下、それはさほど取るに足らぬ話である故です。それよりは流民定着の政策の方が急務でしょう」


「敵が目前にまで迫っているのに、急務ではないだと?」


「はい。御一同が慌てている理由が、正直、臣には分かりかねまする」


 額に汗を浮かべる朝臣達は、皆揃って荀彧に厳しい目線を向けた。

 しかし当の本人は首を傾げるのみで、本当に何とも思っていないような表情をしていた。


 不安を抑えきれない劉協は玉座から身を乗り出し、荀彧の名を呼ぶ。

 どうしてそう言い切れるのか。敵はあの張繍だぞと、縋りつく思いで問いかける。


「まず大前提として、大義名分が御座いませぬ。陛下を賊から救うと戯言を抜かしておりますが、陛下は別に勅命を下しておりません。誰がそのような賊軍に賛同しましょうや」


「だ、だが、張繍は今や南陽郡全域を瞬く間に平定し、その強兵は天下に恐れられているのだぞ」


「南陽郡は、かつては豊かな地でありましたが、僭称帝・袁術の悪政により荒廃してしまいました。劉表とも交戦する中、斯様な土壌で、幾つも戦線を維持できるはずが御座いません」


 さも当然という表情で、一つ一つ、懸念点に対して意見を述べる。

 すると不安に駆られていた劉協や、その他の朝臣も皆、次第に表情を明るくしていった。


 なるほど、これなら本当に大したことじゃないのかもしれない。

 皆がそう呟く中で、ただ一人、険しい顔で前に進み出る者が居た。


「荀録尚書、私からもお尋ねしてよろしいか?」


「孔少府(孔融)、どうぞ」


 孔融。あの儒学の祖「孔子」の末裔とされている、当代きっての儒者である。

 元は青州刺史として東方に赴任していたが、袁譚に敗れ、朝廷に戻ってきた人物だった。


 その血筋から彼を慕うものは天下に数多存在し、朝臣の中心人物と目されている。

 だがその高潔さ故か、些か性格に難点も多い。曹操にすら平気で盾突いていたほどだ。


 権力に屈しない者こそ、本物の君子であるかのように考えているのだろう。

 お上が右といえば左を向く。孔融を表現するなら、そういう性質の人物である。


「張繍配下の軍師である賈詡は、陛下を長安にてお助けした当世きっての賢者。彼は荊楚の人材を広く取り入れ、今や猛将も数多いと聞く。本軍が徐州にある現状で、果たして勝てますかな?」


「賢者であれば、董卓に仕えない。李カクや郭汜に献策をしない。あれこそ賊ですぞ。そして人材を広く集めたとて、兵糧が無くばそれも活かせません」


「兵糧が無いのは我々も同じ。ここは本軍が帰還するまで和睦を結ぶか、袁大将軍に助けを求めるべきかと存じます」


「援軍無くとも、十分に対応可能です。夏侯右将軍(夏侯惇)を大将に据え、郭軍師祭酒(郭嘉)を副将とし、既に防衛に向かわせております」


「こちらは寄せ集めの兵が一万足らず、対する敵は精兵が二万。これでも勝てると?」


「勿論。要害に依るこちらの軍を敵が破るには、兵法から言っても十倍の戦力が必要です。負けはあり得ない」


「曹車騎は矢傷を受けたと聞く。斯様な状況で、対応可能であると?」


「戦場は矢が飛び交う場所ですから、矢傷を受けることもありますよ。現地から車騎将軍は無事との報告も来ていますし、不安を必要以上に募らせるべきではない」


 重厚な圧力を発する孔融の論戦に、荀彧は涼しい顔をしたまま返答を続ける。

 もはや誰も口を挟もうとしない。二人の話を、黙って聞くのみの時間が続いた。


 そして孔融はひとしきり質問を終えたのか列に戻り、劉協に向かって拝礼をする。

 今の話を聞いたうえで、決定を下してほしいという意志の表れだろう。


「朕は、荀録尚書の意見を採ろう。張繍軍への対応を、貴殿と夏侯右将軍に一任する。かの賊を退けよ」


「かしこまりました」

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