60話 博打と天運


 幕舎から典医が出てくるが、その表情は曇っている。

 曹昂の容体が回復しない。それどころか日に日に消耗しているのだ。


 つい数日前は、病床に座りながらではあったが、臧覇、陳登将軍と軍議が出来るほどの余裕があった。

 回復に向かっているかのように思えたのだが、どうやら見通しが甘かったらしい。


「殿のご容体は」


「あまりよろしく御座いません。荀攸様、私としてはすぐに、曹車騎を都にお戻しするよう進言します。体内に残る毒を排出する為には、十分な医療体制の整った寝所が必要です」


 そう言って典医は一礼すると、その場を後にした。

 会話を聞いていたのは荀攸と杜襲、そして曹仁と劉延である。


 今、曹昂が都に戻るのは困るというのが、全員の正直な思いではあった。

 代役が居ないのだ。この数万にも及ぶ大軍勢を統率しうるだけの人材が。


 兵士のほぼ全ては、あの曹操の嫡男で、朝廷の重臣で、車騎将軍の曹昂だからこそ従っている。

 官位と、求心力。代役はこの二つを兼ね備えていなければ、成り立たない。


「殿の配下で代役を務められるのは、現段階では夏侯惇将軍だけ。されど将軍を呼べば殿の容体を天下に晒すも同じ」


 最悪、曹昂はここに居てくれるだけでいいと、荀攸は思っていた。

 戦は全て自分達がやる。徐州の平定まで目前なのだ。だが、その為に主君の命を危うくすべきではない。


 今、曹昂にもしものことがあれば、この陣営はもう成り立たない。

 曹操の死から今まで、こうして成り立っているのが奇跡のような話なのだ。


「軍師殿。殿の代役で、私の名を立てては駄目か? 呂布軍に、この劉延の名は轟いているはずだ」


「大切なのは味方の将兵が納得するかどうかなのです。将軍はまだ大軍の総帥となった実績が御座いません。せめて、呂布と並ぶだけの名声が必要かと」


 突発的なこの状況で曹昂の代役が務まるような人物といえば、劉備だけだろう。

 州牧としての官位もあり、おまけに皇族としても認められ、呂布と比べても見劣りしない。


 ただ、それは曹昂の功績の大部分が劉備に奪われることを意味する。

 数多の犠牲と戦費を失って手にしたものを他人に渡すなど、決して曹昂は許さないだろう。


「杜襲殿、堤防の建設の方はどうですか」


「ほぼほぼ完成しております。後は全軍の配置を変更し、水の流れを変えるだけですが、その瞬間を呂布に襲われる可能性が」


 曹昂が無事であれば、全てが上手くいくような現状。

 ここで曹昂を都に戻すという決断を降せない自分に、荀攸は怒りを覚えていた。


 恐らく、自分は良い臣下ではない。

 それどころか、反逆者とでも言うべき男だろう。


「将軍方、今から私の述べる先の戦術が誤っていると思うのであれば、どうぞ私を捕縛するなり、斬り捨てるなりしていただきたい」


 その荀攸の言葉には、底知れない「欲深さ」が込められていた。

 これこそ荀攸が軍師たる所以。人間として、明らかに倫理が欠落している感性。


「私は、殿の命を賭けようと思う」


 主君の命すらも、戦に勝つためであれば賭けの担保に出せる。

 完全に人の道から外れたその提案に、皆がしばらく言葉を失っていた。



 月が薄い雲に隠れた夜更けのこと。

 城を囲っていた曹昂軍は、闇夜に紛れ、秘かに移動を開始した。


 下ヒ城へと河川の水を流し込むための堤防がついに完成したからだ。

 城内の兵に悟らせないため、少数の兵を順次、闇夜に隠しての陣替えである。


 しかし、いくら闇夜に紛れたとて、天与の嗅覚を持つ「呂布」には無駄であった。

 戦の好機を嗅ぎ分け、確信を得る。最も勝機の濃い、戦場はこの先にあると。


 馬に板を噛ませ、足音を立てず、にじりよる。

 勿論、月明りが薄すぎて、辺り一帯の視界が利かない。


「俺だけを見てろ! 後に続け!!」


 赤兎馬に跨り、天高く矛を掲げ、呂布の率いる騎馬隊は闇夜を駆け抜ける。

 不意を突かれるも、山道を行く曹昂軍は迅速に応戦を開始した。


 これは精鋭だ。訓練されていないと、ここまで冷静に動けない。

 呂布は向かってくる敵兵を流れるように切り裂きながら、胸を躍らせ、吠える。


 精鋭に囲われているということは、間違いなくこの先に「曹昂」が居る。

 数日前は仕留めそこなったが、今度こそ、ここで仕留める。


 決死の突撃を繰り返す曹昂の騎馬部隊を躱し、そして切り裂き、闇夜で目を凝らした。

 逃げる一団を視界の端に捕らえる。思い切り赤兎の腹を内股で締め上げ、手綱を上下に振った。


「張遼! 離れるなよ!!」


「ハッ!!」


 ガラガラと音を立てて逃げる、馬車が一つ。あの輿の中に、曹昂が居る。

 確信を抱き、呂布は矛を敵兵に投げつけ、背に携えていた強弓を真っすぐに構えた。


 張遼が前に出て、追いすがる敵兵を次々と斬り捨てる。

 矢をつがえ、思いきり振り絞った。あの輿をどう貫けば、曹昂を殺せる。


 あとは全て、天に任せる。

 ここで矢が当たらなければお前の勝ちだ。呂布はそう呟き、思い切り矢を胸元に引き寄せた。



 その瞬間だ。

 目前を走っていた張遼が消える。


 赤兎は思い切り仰け反り、慣性を無視するように進路を捻じ曲げた。

 明後日の方向に放たれた弓矢は、辺り一面に立ち上がる「劉」の旗を貫く。



「──今だ! 呂布を討ちとれい!!!!」



 落とし穴だ。その瞬間に、呂布は全てを悟った。

 天は、俺を選ばなかったのだな、と。


「我が名は呂奉先! さぁ、殺されたい者から、かかってこい!!」


 隠されていた伏兵の怒号すら搔き消すほどの声を張り上げる。

 一斉に放たれた弓矢と投網を流れるように潜り抜け、猛将は闇夜を朱に染めた。

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