7話 兗州


 もう宛城は遠く、見えないほどに離れていた。

 張繍軍も追撃を仕掛けてくる様子はなく、数日前の喧騒が嘘みたいな朗らかな日である。


 舌が痛くなるほど塩気の利いた、羊の干した肉。噛めば噛むほど獣臭さが鼻に抜ける。

 一口だけで大酒を煽りたくなるが、戦場にそんなものはないらしい。仕方なく水をしこたま飲み干す。


 一日中歩きっぱなしで走りっぱなしの軍中では、高カロリーの干し肉はうってつけだった。

 これを食うか食わないかで、明日に残る疲労が変わってくるらしい。しかし、固すぎて食えたもんじゃないな。


 凍らせた雑巾みたいに固い干し肉をブチブチと噛み千切り、水と一緒に長いこと咀嚼を繰り返す。

 まだ半分も食い終わっていないのに、顎が限界過ぎて、こめかみまで痛みを訴え始めていた頃だった。


「我が君、都より早馬です。書簡の差出人は、荀彧殿です」


「見せてくれ」


 馬車の上で干し肉を齧る俺に、于禁はきっちりと馬上で一礼をした後に書簡を手渡す。

 俺は映画やドラマでしか見たことのないような竹で作られた巻物を握り、少しうきうきとした気持ちでそれを開いた。

 歴史オタクはこういう細かいところで心躍っちゃうんだよね。マジの竹簡だぁ!つって。


「……反乱か。こうも早く、綻びが出始めるものなのか」


「どのような内容で?」


「兗州で豪族らによる反乱が起きた。悪いがこの軍はそのまま兗州に向かってくれ。道中で物資の補充は用意してあるらしい」


「その、私は構いませんが、我が君は如何なさるおつもりで? 我が君だけでも逸早く許昌へ戻られた方が」


「都には夏侯惇と荀彧が居る。それより今は、この曹昂にも武威はあると天下に見せなければならない。そう、竹簡には書いてある」


 父が没しても、葬儀を上げる暇すらない。これが勢力を束ねる存在なのか。

 于禁はどこか戸惑いと不安を表情に滲ませている。俺がきっと、薄情な人間に見えているのだろう。


 なるほど、孤独だ。

 皇帝は人にあらずとは言うが、何となくその感覚が分かった気がした。


「そういえば、将軍は兗州の出身だったな」


「はい。泰山郡の生まれです」


「この反乱を鎮圧した後、兗州諸軍の統轄を将軍に任せたいのだが、どうだろう」


 これは竹簡に書いてあったことだ。荀彧が言うには、急ぎ、兗州を統括する責任者を定めるべきと。その適任として推挙されていたのが于禁だった。

 今までこの兗州は「程昱」の管理下にあったんだが、その程昱が先の戦で死んだ。今回の反乱もその影響によるところが大きいのだとか。


 今の曹操軍というのは兗州・豫州、そして青州黄巾兵によって大部分が構成されている。

 程昱はそのうちの兗州における軍事や内政における全般を担っていた。そんな程昱の抜けた大きすぎる穴を埋めることが、今は何よりも大事である。


 そして現時点で、最も陣営で有力な兗州出身者がこの于禁である。

 順当と言えば順当な人事ではあるが、当の本人は難しい顔をしていた。正直俺も、これには納得しかねている。


「私は、申し訳ないですが、適任ではないでしょう。家格が低く、更に軍人であるため、兗州の有力者達は私に頭を下げてはくれないかと」


「じゃあ適任と思う人材はいるか?」


「輜重隊で中郎将を務める『李典』は豪族の出身ですがまだ若い。汝南太守を務める『満寵』は実績も十分ですが、彼以外に今の汝南は統轄出来ません。『楽進』は将軍として傑出してますが、私と同じく家格が低い。私が挙げられる有力な者は、以上に御座います」


「うーん……」


 本当に、程昱って替えの利かない立場だったのか。曹操が遺言で、名指しで信頼していたのもよく分かる。

 だが、だからこそ、どうしてこんなに短慮な行動に出てしまったのかと、思わず頭を抱えたくなった。


 程昱にとって、そして曹洪にとって、君主に戴くのは曹操ただ一人だったのだろう。

 まぁ、理解しようとしても難しいのはもはやしょうがない。俺と彼らじゃ、生きてきた時代が違いすぎる。


「一番妥当なところで言えば、李典か。李典はいま、いくつだったっけ」


「十八です。程昱殿とも親しく、軍務に精通し、輜重隊を率いる夏侯淵将軍の補佐を担っております。素質は申し分御座いませんが、やはりまだ若すぎるかと」


「まぁ、確かにそうだなぁ」


「ただ他に一人、名のある兗州出身の者がおります。私としては彼を推挙したく思っておりますが、少し、問題が」


「問題?」


「荀彧殿に、嫌われております」


 曹操陣営の事実上の統括者。人事権の一切を握っていると言っても過言ではない宰相。それが、荀彧だ。

 戦場の現場における決裁は曹操が握っていたが、それ以外のほぼ全てのことでは荀彧の意見が必ず求められていた。


 三国志における曹操の覇道は、荀彧と共に築かれたものだと言っても良い。

 その荀彧に疎まれているともなれば、どうも話がややこしくなる。でもそんな人居たっけな?


「名を聞かせてくれ」


「董昭と申す者です。ついこの間まで、袁紹に仕えておりました」


「あぁ、そういえば、居たなぁ」


 三国志においても、董昭の名は見たことがある。見たことがあるが故に、あまり良いイメージはない。

 というのもこの董昭は荀彧の政敵だったとされており、荀彧が曹操に疎まれるようになったのも、董昭が関係しているっぽいからだ。


 曹操と荀彧という黄金コンビが好きだった俺からすれば、あんまり気が乗らない男ではある。

 でもなぁ、良いイメージはないけど、才能はあるんだよなぁ。謀略に関してはたぶん、この時代でピカイチの人なんだよなぁ。


「分かった、会ってみよう。ただ臨時的な措置として、一旦、兗州は将軍が預かってくれないか? すぐに正式な統括者を定めるから」


「そういう話であれば、かしこまりました」

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