5話 黄天の世
開けっ広げの兵車から、木箱のような輿へと移る。輿じゃなくて、馬車っていうんだっけ? ま、いっか。
そしてしばらくして、外から于禁の声が聞こえた。俺はそれに答え、輿の戸を開く。
入ってきたのは一人の少女だった。俺と、いや曹昂とあまり歳は変わらないように見える。
黄色を基調とした頭巾や衣服に身を纏い、冷淡で落ち着き払った大きな瞳。そして、両腕が無くだらんと袖が垂れていた。
何もお前には期待をしていない。まるでそう言われているかのような圧を感じた。
取り付く島もないというのはこういうことなんだろうか。さて、困った。
「不其|(ふし)と申します。一介の巫女に、いかなる御用でしょうか」
「何故、青州兵は離反する」
「一介の巫女にそれを聞くと? 私には、戦のことは分かりかねます」
「主君が俺じゃあ、不足か」
「はい」
不其と名乗る少女は、そう言ってにこりと微笑んだ。
顔立ちの整った女性に「不要」と断定されることほど、男にとってショックなことはないな。
「軍を抜けた青州兵が、これからどうしていくというんだ。再び流民や盗賊になると? 地獄へ逆戻りだぞ」
「慣れていますので。命より守りたいものがある人間も居るという事です」
「それが、父上と交わした契約か」
「そうですね。これは、曹操様にしか成し得ない契約でした」
「内容を聞かせてほしい。考慮しよう」
「言うだけ時間の無駄でしょう」
この時代に戸籍を持たず、流浪をするということがどういうことか。簡単に言えば、人権を失うに等しい。
食料が無いまま飢えに苦しみ、誰に殺されても戸籍が保持されていないために身元を判別することも出来ない。
戦乱の時代に、誰の保護も得られない流民は、野垂れ死ぬか、盗賊に身を落とすかの二択のみだ。
いずれにせよまともに死ぬことは出来ない。それでも青州兵は、そんな地獄に身を落とす方が良いという。
「他に、お前らを受け入れるところがあるのか」
「さぁ、分かりません。あっても、もう仕えません。そこはご心配なさらず」
「あくまで父上のみが、お前らの希望を叶えられたと」
「そうですね」
史実でも、青州兵と曹操の個人的な関係に関しては記載されてはいなかったはずだ。
だからこそ交渉の糸口が見えない。しかし、間違いないことは一つだけある。それは「宗教観」だ。
どんな人間でも、動物でも、進んで自ら地獄に身を落とそうと考えはしない。
しかしたまに、その理から外れた事例も歴史ではよく見る。そしてそれの根幹には「宗教」があったりする。
信じる教義の為に、例え不条理なことであっても行動を起こすことが出来るのが、宗教観の強みだろう。
神の教えを広めるため、大海を超えて各地へ飛び立った宣教師のように。
例えばボランティア。無報酬で労働を行うなど、普通に考えれば何の得もない愚かな行いだ。
それでも世の為、人の為にと、そういう不条理をすんなりを受け入れて行動を起こすことが出来る人も居る。
青州兵にもそういった強い価値観があるのだ。己の命以上に大切だと思えるものが。
だからこそ進んで地獄に身を落とせるのだ。だからこそ戦でも無類の強さを誇り、だからこそ周囲に恐れられる。
そしてその根幹にあるものこそが、「黄巾の乱」で中華全土を巻き込んだ宗教「太平道」なのだろう。
「ならば、少し話を変えよう。手を貸してくれ、俺を主君と思わずとも良い。今まで通り、信じたいものを信じても良い」
「……意味が、分かりかねますね」
「太平道に手を出すことは無いと言っている。武器さえ持たなければ、俺は如何なる宗教も否定することは無い」
ようやく、不其と正面から目を合わせることが出来たように思う。
大きく澄んだ瞳をしていた。美しいというよりは、どこか見るものを引きつける妖しさを感じさせる。
だが、思い切ったことを言ったように思う。普通に考えればありえない話だ。
国家転覆を目論んで大規模デモを起こした新興宗教を認めると、陣営のトップが公言したのだ。
しかし曹操なら、同じことを言ったはずだ。
いや、もう言ってるのかもしれない。何から何まで革新的だった、あの男なら。
「何を仰っているのか、分かっておいでですか? その言葉が、誰を敵にするのかを」
「蒼天既に死す、黄天当に立つべし。ずっと、これが気になっていた。お前達が敵にしたのは、漢王朝じゃないんじゃないかって。だって今の漢は火徳の王朝だ、蒼天とは呼べない」
「はい」
「お前らは、儒教を、殺したいんだろう? 確かにこれは、父上としか成せない契約だ」
儒教。それは、中華の歴史の根幹を成す宗教であり、価値観であり、社会の規範であり、政治思想である。
今の社会の全てを成すものだと言って良い。それに抗おうとしたのが、「太平道」という宗教であった。
この時代の古い価値観を全て打ち砕こうとした曹操に、青州兵がそんな最後の望みを託そうとした。
そう考えたとしてもおかしくはない。だからこその、一代限りの契約なのだ。
「良いでしょう。話を、続けましょう」
垂れた袖をふわりと膝の上に整え、不其は座りなおした。
ただでさえ大変な状況で、世界の全てを敵に回すようなことを言って。俺は一体何をしてるんだろうか。
心の中で溜息を吐き、俺は不其と再び正面から向かい直したのであった。
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