3話 窮地
間もなく、曹洪と程昱の戦死の報が伝わってきた。
史実でもそうであったが、この二人は曹操陣営において特に忠烈な人物だった。
恐らく曹操の死を知り、暴走して突撃し、殉死を遂げるような形となったのだろう。
夏侯惇が目を血走らせているのは、自分も出来る事なら殉死したいと強く思っているからこそなのかもしれない。
これが戦乱の世に生きる男達だ。容易く人が死んでいく世界なのだ。
俺はそんな世界で、窮地に立たされているこの軍勢を率いていかないといけない。
「殿、ひとまず兵装をし、傷を隠してください。立たずとも床几に腰を掛け、撤退の命を告げるだけで十分ですので」
「そうか」
ホントに身体が動かんが? 大変な状況なのは分かるけど、限界過ぎて立つのが厳しいんやが?
いや、そんな、早くしてみたいな顔で鎧渡してくるけど、これ気合でどうにかなるレベルじゃないからね?
「すまん、その、足の方は履かせてくれ。上は、自分で何とかする」
「ぎ、御意」
考えてみれば、もう曹昂は死んでいるのだ。それほどの傷を負い、消耗している体なんだから、動かなくて当然だろ。
そんなことを考えながら、まだ湿っている具足や鎧を装備し、夏侯惇の肩を借りながら、何とか切り株のような椅子に腰を掛けた。
気を抜けばすぐに倒れてしまいそうだ。
深く息をすれば胸が痛み、嘔吐感が押し寄せてくる。
とにかく顔だけは前を向け、小さく、浅く息を繰り返すことにした。
そんなことをしていると、青い顔を浮かべた男達が、ぞろぞろと集合し始める。
「于禁将軍は戦線維持のため不在ですが、それ以外の諸将は皆、揃いました」
夏侯惇は顔色一つ崩さず、そう述べる。
なるほど。曹操が死の際に、最たる信頼を示した男なだけはあった。
「……皆には、端的に述べる。これよりこの軍の主は、この私だ。これは父上からの、最後の命令である」
まだこの中の誰が誰なのか、判断はつかない。しかし皆が、絶望を目の当たりにしてるような、そんな顔をしているのは分かる。
そりゃそうだ。曹操軍というのは、曹操の天才的な軍才ひとつで保たれていたような組織であった。
それは歴史を見ていても分かる。曹操軍の中で、曹操に並び得る将軍はただの一人もいない。
曹操が生涯、天下を駆け巡り、数多の戦の指揮を執ったのも、人に任せるより自分でやった方が早いからだ。
そんな天才が、こんなところで死んだ。
この世界が俺の知る三国志の世界なのであれば、もうこの軍は、ジ・エンドだ。
「これより全軍は許昌へ、撤退する。全軍の指揮権を夏侯惇が、殿軍は私と于禁が担う。軍の立て直しは急務だ、すぐに取り掛かれ」
息も、切れ始めてきた。視界も揺れて霞む。手足の先も痺れて感覚がない。
しかし皆は動かなかった。呆然と立ち尽くす者、その場で泣き崩れる者など、誰もが現実を受け入れられないでいた。
そりゃそうだ。曹操に比べれば、今の自分のなんと情けないことか。絶望以外の何物でもない。
神様よ。どうして俺にこんな地獄のような体験をさせるんだ。そんなに俺は、悪いことをしてきたか?
確かに俺はクズだった。親も何度泣かせたか分からない。そしてそんな自分の人生を、後悔すらしていない。
当たり前だ、後悔なんてするもんか。そのおかげで俺は「曹操」という人間に、強烈な憧れを抱くことが出来たんだ。
別な人生を歩んでいたら、これほど深く「曹操」という人間を胸に刻みつけられなかっただろう。
不幸を前にしても歩みを止めることなく、新しき時代を望み続けた男に、憧れる事すらなかっただろう。
「……俺が涙を流していないのに、どうして涙を流せる」
剣を抜き、股下に突き立てた。杖の代わりだが、威勢を保つには十分な見てくれだろう。
もう、逃げるのはやめだ。このままじゃ曹操の名は、この歴史において、ただの馬鹿と同じになっちまう。
俺が、曹操になるんだ。
強烈なまでに憧れたあの男に。決してその名を汚させるものか。
「父上ならば、決して逆境を前に立ち止まることはしなかった。いくら傷を負ったとしても前を向いていた。そしてお前らは、そんな父の背中に従ってきたはずだ。違うか?」
董卓に負けると分かっていても、巨悪を討つべく、漢室を救うために戦った。
兗州に百万を号する黄巾軍が攻め入ってきても、一歩も引くことなく立ち向かい、これを降した。
呂布に兗州全域を奪われた時も、本拠地を失ってもなお戦い続け、これを取り戻した。
「俺は、そんな曹操を継ぐ男だ。曹操の嫡男として、これほど相応しい逆境もない。お前らもその英傑に命を預けてきたのだろう。だったら手を貸せ。父上の志を決して過去のものにしないためにも」
慣れ親しんできた歴史小説ばりの演説口調。そして無理やり、口角を上げて見せる。
トップが狼狽えれば、未熟な組織は容易く瓦解する。トップは気丈に夢を語ってればいい。後のことは、他の奴がどうにかするさ。
俺は曹操のような天才的な戦術家ではない。
しかし、歴史を知っている。いくらでも英傑の真似事は出来る。
いつかこの虚勢が本物に変わる日まで。俺は曹操の真似事を続けよう。
そして再びこの世に、曹操の名を歴史に刻ませよう。その為にもこんなところで死ぬわけにはいかないのだ。
気づけばいつしか、居並んでいた諸将は、俺の前で膝をつき、頭を下げていたのだった。
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