2話 曹操の死


 張繍は一切の不満を顔に出さず、とにかく平身低頭の態度を貫き、気の小さな武将という人物像を貫いていた。

 自らの城内であるのに、僅かばかりの部隊や物資を移動させるのもいちいち伺いを立て、降将らしく振舞っていたのだ。


 思えばそれも全て演技だった。苦労せずに城を手に入れた事が初めてであった曹操は、そんな張繍に気を良くしていたように思う。

 そして月も雲に隠れた暗い夜のこと。張繍の部隊は静かに闇夜に紛れ、一気にこちらの本陣へと奇襲を仕掛けてきたのだ。


 始めに気づいたのは、護衛隊長の典韋であった。

 僅か数十人のみの護衛兵で千人はいたであろう奇襲部隊を食い止め、曹操に代わって本陣の指揮を執りながら、炎の中へ消えていった。


 本陣から抜け出したのは、曹操と、従兄の曹安民、そして俺の三人のみ。

 とにかく城外で布陣している夏侯惇の陣への帰還を目指しひた走ったが、抜け目のない追撃は止まなかった。


 そこで曹安民は、曹操の鎧や衣服を来て、追撃部隊を引き付けるように山林へと消えた。

 しかしそれは一時的な効果しか出せなかった。そして俺は、いや、曹昂は矢傷を受けていた曹操の馬と自分の馬を替えた。


 こうして曹操は直線距離で最短の山林を駆け、曹昂は迂回するが見晴らしも良く平坦な川沿いへと駆けたのだ。

 そこからの曹操の行方は知らない。曹昂は十分に追手を引き付けたまま、多くの矢傷を受けて絶命した馬に放り出され、流れの急な河へと身を投じた。


 何の因果か、その結果として、曹操が死に、曹昂の肉体は生き残った。


 これは俺の知る三国志ではない。

 目の前で泣き崩れる夏侯惇を前にして、頭を抱えるしかなかった。





「少し、取り乱しました。申し訳御座いません」


「俺も同じだ。動揺で、脂汗が止まらない」


「されど、お聞きください。現在、張繍軍の追撃は于禁将軍の迎撃によって食い止められ、両軍は対峙している状況です。殿の死も間もなく全軍が知るでしょう」


 張繍軍は一万、そしてこちらは三万。兵力で言えば優勢だが、曹操の戦死が伝わればこの優勢も一気に崩壊する。

 それどころか恐らく、築き上げてきた勢力ごと吹き飛びかねないだろう。夢だと太ももを抓るが、その痛みは現実だった。


 どうして俺が曹昂になったのか。恐らくそんなことを考えている暇さえ許されない。

 現実を飲み込み、今を生きるために、死なないために、どうすればいいのかを考えないといけない。


「どうすればいい」


「まずは、殿のご遺言をお聞きください」


 夏侯惇が手を叩くと、テントの隅の暗がりから、ぬらりと人間が姿を現す。

 腰も曲がり、口もモガモガとした怪しげな婆さんだった。ホームレスを思わせる、貧しい衣服に身を包んでいる。


「お初にお目にかかります。我々は、曹操様に仕えし『没我』と申します。間者として働く代わりに、子や孫の税を免除していただいております。曹操様から夏侯惇様へのご遺言の伝令を、仰せつかりました」


「あ、あぁ」



 ひとつ、曹操が戦死した場合、夏侯惇と荀彧を後見人として、曹昂が家督を継ぐべし。


 ふたつ、曹昂が無理な場合は、夏侯惇に全権を委ねる。


 みっつ、仇討は後にして全軍を帰還させ、内側を固めるべし。


 よっつ、重要事項の決定は夏侯惇、于禁、参謀格の面々と共に決めるべし。参謀格の意見が分かれた場合、程昱を尊重すべし。



「ご遺言は以上です。これより没我は、曹昂様にお仕えいたします。曹操様と変わらぬ待遇を、よろしくお願いいたします」


「……分かった」


「では」


 没我と称する婆さんは、淡々と最小限のことを述べると、再び闇の中へと消えていった。

 本当に曹操は死んだのだ。遺言を聞いたのちに、その実感が込み上げてくる。


 不思議と、悲しさはない。驚きだけが心中を占めている感覚だった。

 曹昂としての自我はもうこの身体に宿ってはいない。この感情がそれの何よりの証拠であるように思う。


「若。いえ、殿。曹操様のご遺言に従い、これよりこの夏侯惇、身命を賭して殿にお仕えいたします」


「俺が今、頼ることが出来るのは貴方だけだ。どうか教えてくれ。これより先、どうすればいい」


「曹操様は撤退を命じております。復讐の気持ちをここは堪え、臥薪嘗胆を胸に刻み、全軍で許昌へ帰還すべきでしょう。その為にもまず諸将を集め、殿が健在である姿をお示し下さい」


「殿軍は」


「この軍の主はこれより殿であることを示すため、殿ご自身に率いていただくべきかと。補佐に于禁を残し、全軍の指揮は私が預かります」


 胸騒ぎの抑えられない心中を宥めるように、深く呼吸を繰り返す。

 全身が痛み、そして凍えている。このような状態で、平和に溺れていた俺が、軍隊を率いることが出来るのだろうか。


 そう、不安に圧し潰されそうになっていた時であった。

 一人の兵士が息も絶え絶えに慌てながら、飛び込むようにテントへ転がり込んできたのだ。



「──で、伝令! 曹洪将軍、および程昱様の部隊が、軍令を破り右翼より出陣! 張繍の伏兵に遭い、壊滅しました! お二人の安否は不明に御座います!!」



 まずい。曹操が不在の状況でこのまま開戦に雪崩れ込めば、間違いなくこの軍は壊滅する。

 額に血管を浮かべながら目を怒らせる夏侯惇は、急ぎ諸将をこの場に集めるよう指示を飛ばした。

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