曹操が死んだ日、俺は『曹昂』になった。

久保カズヤ@試験に出る三国志

第一章 覇者の死

1話 宛城の戦い


 都会は家賃が高い。

 こんなワンルームの壁薄の部屋が、ひと月で八万もする。馬鹿げた話だ。


 徒歩圏内の勤務先がそのうちの半分を支払ってくれているとはいえ、そのぶん給料から差っ引かれているように思えてならない。

 安月給で、深夜まで勤務し、残業代は出るが時給換算すればアルバイトの方がよっぽどマシだった。


 帰ったら震える手でハイボールを空け、煙草を吹かし、部屋に山と積まれた歴史小説や資料を読み漁る。

 そして気絶するように眠る。


 こんな生活をもう二十余年か。


 妻子なんて作る暇はなく、必要性も感じない。給料は酒税とたばこ税に消え、老いた母親は電話口で泣いていた。

 もし人生をやり直せたら。そう考えることもあるが、たぶん俺はまたきっと同じような道を辿るだろう。別に不幸だとも思わないからだ。


 しかしこの書籍の中の、俺を魅了してやまない偉人。

 千年に一人の風雲児「曹操」のように生きてみたい、とは何度も思った。


 意識がまた、遠のき始める。

 このまま今日も気絶するように眠るのだ。そしてまた、明朝に目が覚めるのだ。


 すきっ腹に、トドメの酒を流し込む。グラスを満たすほどのウイスキーに、申し訳程度の炭酸水。

 あぁ、ヤバイ。そう思った瞬間、俺の意識は既に途絶えていたのだった。




 身体の芯は凍えるように冷たいのに、全身は焼けるように熱い痛みが突き刺してくる。

 息も出来ないほどに苦しい。声も出ない。手足も動かない。それどころか四肢の感覚が一切ない。


 誰か、誰か助けてくれ。

 意識も朦朧としたまま、ただただ暗闇の中で救いだけを求めた。


 ──若! 若君!!!!


 怒涛の水の流れ。ガチャガチャとした足音。馬の嘶き。荒野の風。

 そして遠くの方から、知っている声が聞こえる。いや、知らない。知らない声なのに、知っている気がする。


「すぐに馬をひけ! 若君をお連れする!!」


 鼓膜が破れんばかりの怒号であった。大木のような腕に抱きかかえられ、安堵が胸に溢れる。

 その一抹の安心が、痛みをこらえていた俺の意識を、再び断ち切った。




「っ……」


「若君、お目覚めですか」


 暗くて広いテントの中、パチパチと燃える篝火の明かりが、目の奥を圧迫する。

 ここはどこだ。全身が痛む。嘔吐感が込み上げる。冷え切った身体の芯が震える。


 俺は、あれ、俺は、誰だ?


 毛布で幾重にも包まれ横になっている俺の顔を覗き込むのは、大柄の男であった。

 赤色の装飾が施された鎧。まるで映画の様だと思った。そして俺はなぜかこの男を、知っていた。


「か、こうとん……」


「はい、夏侯惇に御座います。若君がご無事で、何よりでした」


 三国志において、曹操の旗揚げから付き従った宿将。最たる忠臣。それがこの、夏侯惇であった。

 しかし俺は何故、この男がその『夏侯惇』であることを知っているんだ?


 頭の中には二つの記憶がぐちゃぐちゃに混在している。気分が悪い。自我が壊れてしまいそうだ。

 ただ確かなのは、俺は俺だということ。ブラック企業で死んだように働いていた、アル中でどうしようもなかった俺だ。


「俺の、名を、言ってくれ」


「若君は、若君です。漢王朝が臣下、司空であり車騎将軍であられる曹操様が嫡男『曹昂』様に御座る」


「そうか。そうだな」


 ガンガンと響く頭痛が次第に引いていくと同時に、ぐちゃぐちゃであった記憶が本棚へ綺麗に収まっていくような感覚。

 整理と区別。異なる二つの記憶が上手く分かれ、一つの魂を構築していく。


 結論を言えば、俺は、俺だ。『曹昂』ではない。

 しかしこの体は、信じられないことに『曹昂』なのだ。


 曹昂として生まれ、曹昂として生き、そして、曹昂として死んだ。

 その肉体に、何の因果か俺の魂が宿った。馬鹿げた話だが、俺の体のことは俺が一番よく分かる。



 つまり俺は、曹昂になったんだ。



「まだ、上手く前後が、思い出せない。どうして俺は、ここに」


「順を追ってお話しします。まず、我らは南陽を占める張繍の討伐に動き、奴らの降伏を受け入れ、宛城を掌握しました」


「あぁ……宛城の戦い、か」


 時は一九七年。三国志の覇者「曹操」は、天下最大の勢力を誇る「袁紹」との決戦に備え、後顧の憂いを断つべく周辺勢力の掃討に動いた。

 呂布や袁術など倒すべき相手は多い中、最初に目を付けたのが、背後の南陽郡に駐屯する「張繍」の軍であった。


 ただ張繍は曹操軍との戦力差を案じて即座に降伏。過酷な戦を続けてきた曹操にしてみれば、願ってもない幸運であっただろう。

 兵を損じず、戦をすることなく容易く城を落とせたのだ。しかしその油断が命取りとなってしまった。


 曹操は僅かな兵のみで陣を構え、宛城にて我が物顔で振舞った。それは張繍にとっては屈辱以外の何物でもなかった。

 こうして張繍は突如として裏切り、油断していた曹操の陣を急襲し、一瞬で壊滅させたのだ。


「あれ、いや……だったら、何で俺は生きてるんだ?」


 宛城の戦いで戦死した主要な人物は、曹操の護衛隊長である典韋、曹操の甥である曹安民。そして、嫡男である曹昂。

 それなのに何故か、今、曹昂は生き延びている。いや、曹昂の肉体は生きていると言った方が正確か。


 痛む体を無理やり動かし、夏侯惇の巨躯を両手で掴む。

 真っ赤な目をしていた。激しい怒りと、この上ない悲しみを訴える瞳だった。


「曹操は、いや、ち、父上はどこに。無事なんだろう!?」


 夏侯惇は唇を嚙んで、首を横に振ったと同時に、その場で崩れ落ちる。

 熊のような叫び声であった。その叫び声で、俺はすべてを察してしまった。



「──殿は、殿は、戦死なされましたっ!!!!」



 三国志の覇者として君臨していた『曹操』が死んだ。

 そして俺はそんな世界で『曹昂』として、生きていかなければならなくなったらしい。

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