Chapter9 群青-D
偏執市場の深層は、夜も昼も無いように思えた。地上の偏執市場には、夜しか開いていない店昼しか開いていない店というのがあるが、ここにはおそらくそういう区切りは存在しない。
ひたすらに続く白熱灯と電飾看板は、常夜ならぬ常昼の雰囲気を醸し出していた。もう午後十一時をとっくに回っているはずなのに、そんな雰囲気は微塵もなかった。誰も彼も、眠さも見せずに道端で会話をし、ところどころで煙草を吸っては紫煙を吐き出し、携帯端末を弄っている。
主に観光客を相手にしている一縷は深層の案内をしたことは無かったが、香屋埜のファイルにはこのあたりのことも子細に穿って書き込んであるのだろうか。
「出費が多いよぉ」
買ったばかりの寝袋をぶらぶら揺らしながら、少し後ろを歩く剥離がぶちぶちと文句を垂れている。それに対して一縷は鼻を鳴らした。
「私を呼んだのにベッドが一つしか無いのが悪いんだろ。何だお前、こんな美人と同じベッドで寝る気だったのか? 調子に乗……」
るなよ、と言いかけて、一縷はちらほらと見える屋台のひとつに目を留めた。
「剥離」
「別に同じベッドで寝たって何も起こらないよ……え? 何?」
「あれ食べたい」
一縷が指を指したのはいちご飴の屋台だった。
「ええー? あんな苺に着色料入りの飴を付けて固めて温めただけの食べ物をぉ?」
「食べたい」
「うう……まあいっか……」
剥離は一縷の横を通って屋台へ向かった。
「昔は買えなかったしね」
すれ違いざまにぼそりと付け足された言葉に脳裏を刺激されながら、一縷は剥離の背中を追った。
そう言えば、明後日からは肆戸神社の例大祭が始まる。
明日は前夜祭だった。屋台が出ているのはそのせいだろうか?
生まれて初めて、祭りに行ってみたいなという気がした。
「こういうのは、楽しいと思う」
そう言うと、剥離はちらりとこちらを振り返った。
「うん。僕も」
店のお兄さんにいちご飴をひとつだけ注文する剥離を眺めつつ、一縷はアトリエでの会話を思い出した。
『君が思い出さないなら、それでいいんだよ』
剥離は、一縷の問いかけに対してそう答えたのだ。その後すぐに出かけてしまったので、聞けなかったことがある。
「あのさあ、剥離。お前と私は、」
あのとき、病院で会っていたのか。そう言いかけた口に、生暖かい感触が触れる。竹串を持った剥離が、一縷の唇にいちご飴をくっつけていた。
眉間に深い皺を寄せながら、一縷は剥離の手から飴を奪い取った。
「はい、あーん」
「言うのが遅い!」
こいつは本当に私の表情を変えさせる奴だ。そう思いながらいちご飴を舐める。
「……おいしい」
「それはよかった」
一縷は視線を逸らした。
「ありがとう」
「どう致しまして」
剥離の声は若干笑っていた。その顔を拝んでやりたかったが、上手に誤魔化されてしまった自分の今の顔を見られたくなくて、そして笑顔の剥離を見たくないような気もして、一縷は不自然に斜め下を見ながらただ歩いた。
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白熱灯の灯る台所で手を洗ってから振り返ると、剥離が何かを机に並べていた。椅子も二人分出ている。
「一縷は晩御飯食べてないよね?」
「え? ああ……そう言えば、一日寝てたから、食べてない。いちご飴食べたからいいかと思ってたけど」
「お菓子しかないけど、食べてから寝る?」
美容の敵だ、と思いつつ机を覗き込んだ一縷は、思わず驚嘆の声を上げた。
「こ、これはまさか……」
息を呑む。そこに並んでいたのは、かつて本州北端、とある市に存在していた伝説の銘菓、【よされ亀】だったのである。黒糖の風味のするぼそぼそとした餡を包んだ、すこし焦げ気味の饅頭。亀の形に頭、手足、甲羅が整形されているが、その形はどう見たって幼稚園児が作った粘土の花かな? といった風情であった。しかしそれが一部のマニアの間では多大な人気を博していたのだ。
精神病棟に入院していた際、少し年上の患者からその美味しさと外見の不格好さ、絶妙な焦げ臭さについて語られていた一縷は、諦めつつも、一度でいいから食べてみたかったと思っていたのである。
「な、なぜこんなところによされ亀が……経営困難で製造停止になったはずなのに……」
「食いつき方が少し怖いんだけど……その辺りに店があるよ。この甘すぎない感じがたまに食べたくなって、時々買ってるんだけど」
「そんな時々買えるの? こんなに貴重なものが……まさか、偏執市場によされ亀を作ることができる人物が残っていたなんて……不覚だ、知らなかった。でも、そうだな、もし残っているとしたらここしかないか……た、食べていい?」
「いいよ……まさかこんな郷土菓子でここまで喜ばれると思ってなかったよ……」
一縷がよされ亀の頭部をちぎって口に運んで、もそもそと噛み始めた辺りで、剥離は喋り始めた。
「それで、君を誘拐した理由なんだけど」
食事時に話すのかそれを。
一縷はもそもそ食べつつも、少しだけ耳を傾ける姿勢に入った。
「えっと、今、昔流行ったカルト教団みたいなのが再流行し始めてて。女の子ばっかりの。その教団が、【到達点 -アブソリュート-】を信仰してるんだよね」
【到達点】というのは、凡人たちが一縷に貼ったレッテルである。到達しない流線型こそが天才だというのに、それを理解出来ない人間がこの世界には多かった。
いきなり鳩尾にストレートをぶっ込まれた気分になったので、一縷は亀を食べるのを止めた。そう言えばヨキも同じような話をしていた。少女戒律、だったか。
「食べてていいけど」
「……いいよ。続けて」
「僕、ずっと一縷に会いたいなってなんとなく考えててさ。それで最近、昔の君を崇拝してる教団のこと調べてて、それで知ったことなんだけどね。その教団の子たちは、【到達点】に近づくために日々研鑽してるんだって。それで、到達しそうになった女の子から投身し始めた」
「お前が殺してたわけじゃないのか」
「うん。僕が殺したいと思う女の子は、きっと世界で一人だけだ」
剥離と俄に視線が合った。
一縷はそれを逸らさない。
それは自分なのではないか、と一縷は思ったが、口には出さなかった。
出す必要は無いと思った。
「誰が何を思ってそんな宗教をしてたのかはわからないけど……その教義が、あんまりにも――普通で。可哀想に思って。もし一縷に、【到達点】に近づきたかった女の子なら、あんなに平凡な死に方をするのはあんまりだって思って」
剥離の瞳には、死んでいった少女達への哀れみが浮かんでいた。その瞳の色に少しだけ焦燥に似た思いを感じながら、一縷は机に手を置いた。
「不憫だったから、少しだけ、特別にしてあげてた。だけ」
「サイコパス」
ぼそりと呟く。
もしも私だったら?
普遍的な殺され方をしていたら。剥離に葬り直されたいか?
一縷はそっと右眼に手を押し当てた。
わからない。
今の一縷には、生も死も、どこか隔てた遠いところに微かに感じられるだけのものになっていた。
昔だったら想像できた? この眼窩にまだ本物の眼が嵌っていた頃なら。鈍って劣化した今の一縷の脳ではもう無理だ。人形の眼を嵌めてぎりぎりのところで少女性を保っているような今の一縷では。
もう私は少女では無いのだ。
それならどうして生きているんだろう。
私は、どうして生きているんだろう。
「それで」
続きを促す。頭痛がしてきた。
「殺人教唆犯は、教団の指導者のギフテッド。その子は、自分が本当に一縷になれると思ってるみたいで」
「ギフテッド?」
頭痛が酷くなってくる。
模倣。
かつて偶像が彼らにしたように?
「たぶん、このまま行って、教団内に自分より【到達点】に近い女の子が居なくなったら、一縷本人を殺しに来ると思ってる。だから、君を自分の手の届くところに置いておきたくて」
「人を人形みたいに言うな」
「というのは実は建前で、本当は君と話がしたくなっただけなんだけど」
剥離のその言葉が、一縷の頭痛を少しだけ軽くした。
どうして生きているのか、その答えが少しちらついた気がした。
顔を上げると、剥離はよされ亀の右脚をちぎったところだった。
「一回話せそうだったのに、君、全然僕のこと覚えてないし」
「もし覚えてても車にあんな連れ込み方されてたら全力で拒否するに決まってるだろ、馬鹿。この状況が奇跡だと思えよ」
一縷は再びよされ亀を囓った。
「というわけで、しばらく僕と一緒に居てくれる?」
「え? ああ……今日何日だっけ?」
「ええ、画家にそんなこと聞かないでよ……うーん、たぶん、八月十一日」
「そうか。じゃあ、悪いけど、明日からバイトあるから無理だ」
「あ、それは大丈夫」
「何が?」
剥離は携帯のメッセージアプリを起動してみてと一縷に促した。嫌な予感を覚えながら端末を取り出してアプリを起動する。
最新の通知は、尾花からの着信。それは明日にでも掛けなおそうと思いつつ、探し屋パラノイド・ボランティアの佐々木宛の欄に、書いた記憶のないメッセージを発見した。
『悪いけど、これから先一週間バイト代わってくれない? 返事ははいで頼む』
「おい」
「配慮のつもりで」
「おい、これ、いつだ? いや――あの現場しか無いな、コラ、お前勝手に、というか美形が気絶してるのにそれを無視してアプリを起動したのか? 違う論点がずれる、ああもう」
地味に一縷の口調を模倣しているのが腹立たしい。
「そういえばバイトしてたなと思って」
「配慮の方向を間違えるな、間違えたまま全力疾走をするな、というか、あまつさえバイトの同僚の名前を把握してるんじゃない! 畜生、祭り時なのに、かきいれ時で時給も高いのに、佐々木だって二つ返事じゃないか、いやアイツは目的が少し違うけど――」
「というわけでしばらく――」
言いかけた剥離の脛をブーツの先で蹴って、一縷は立ち上がった。
「寝る」
「痛い……とても……」
「だろうな!」
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