第2話灌木の御老公
150㎝台で体重も恐らく40キロ台の小柄なお年寄り。吹けば飛んでいくようなか細い
心臓は未だにバクバクしていて、背中から冷や汗はとめどなく流れ、膝はもうわらっちゃってるし、身体の自由は効かなくなっちゃってるのにも関わらず、何故かアタシは笑っていた。
「すごっっ 凄すぎん? あのおじいちゃん」
「うん」
隣にいた智も目を開いたまま口をパクパクさせていた。
「あのおじいちゃんに顧問やってもらおうよ。柔術部の」
「え?」
「絶対あれ、
「けど、先生かどうかも分からないぜ」
「え、でもピグモン、なんか澤井先生とか言ってなかったけ?」
言った瞬間、アタシの頭に水平チョップがコツンと落下してきた。
「こら!誰がピグモンだ」
あの小柄な老人教師に見惚れて、この大男の存在をすっかりと消し去っていたアタシは舌を出して笑った。
「澤井先生は、御年70の嘱託教員だよ。お前らのクラスでも道徳の授業をしているだろう?」
「道徳なんて寝てるから知らないもん」
「オレは、その時間、別の教科の自習してる」
再度、ピグモンの水平チョップがアタシと智の頭に落下してきた。
「威張ることか!ったく」
ピグモンは、鼻を膨らませて、大きくため息をついた。
「ちなみに俺も、ピグモンじゃなくて、高崎健二って名前があるんだ。この学校のボクシング部の顧問をしている」
「ふ~ん」
アタシはピグモンには全く興味がなかったので生返事を返した。
「お前、柔術じゃなくて、ボクシングやれよ。その身のこなしなら十分に通用するぞ」
高崎は、馴れ馴れしくアタシの肩に手を置いたが、その手をまるで糸くずでもついているかのようにあっさりと振り払った。
「やなこった。アタシとこの智は、柔術を世に広めて、格闘技界自体を夢溢れるエンターテイメントワールドに創造しようと心がけてるんだから、ね?智」
高崎はポカンとした表情で、アタシと智を見据えた。
「お前ら……変なクスリでもやってるんじゃないだろうな?」
高崎は溜息を洩らし肩をすくめて、踵を返し、職員室へと戻っていった。
「あ~、そうだ、ボクシングしたくなったら俺のとこに来いよ。うちのボクシング部はいつでもウェルカムだ」
振り返りざま、そういう高崎に、アタシはアカンベーの表情で返した。
教室に戻り、アタシは早速、澤田先生のことを仲の良いクラスメイトの辻 清美に聞いてみた。
「辻ちゃん、澤田先生って知ってる?」
辻ちゃんはおぼろげな記憶を辿るために暫く考えた後、ハッとした表情で、ポンと手を叩いて、アタシを見つめた。
「もしかして、あれ、えーと、道徳の澤じいのこと?」
「そうそう、道徳の先生だって言ってた」
「てゆうか、今まで澤じいのこと知らなかったの?ウケるんだけど」
「だって、道徳の授業なんて眠いだけだし……」
「確かに、澤じいの声って眠気を誘うような低音ボイスで癒されるよねえ」
「その澤じいさんさあ、めっちゃ強いって言ったら信じる?」
「澤じいが強いって?ウケる」
辻ちゃんは机をバシバシ叩いて、声を上げて笑った。
「ハル、分かったよ」
声が聞えて振り返ると、ひどい寝癖頭の智がアタシたちのそばに突っ立っていた。
「ちょっ智、気配消して寄って来られたらビックリするじゃん」
「ごめんごめん、あの気になってた澤井先生のこと調べてたらさ、驚くなよ、柔道や合気道の達人だって、ほらっ」
智は、アタシと辻ちゃんにスマホの画面を見せつけてきた。
画面には、澤井先生と思われる人と、その生徒のような人たちが一緒に記念撮影していた。
「数年前の写真だけど、当時、合気道の名門「養神館」の師範をされていたらしい。柔道の段位も五段の黒帯だってさ」
「マジ?」
アタシと辻ちゃんはお互いに顔を見て、目を見開いた。
「生徒さんのSNSで見つけたんだけど、今は引退しちゃったらしいよ」
アタシは胸の鼓動が止まらず、この才気の固まりのような人物の登場に興奮がおさまらなかった。
見せてもらったSNSには、プロフィール澤井治五郎 養神館二代目師範「長寿会」主催の合気道大会最優秀賞 柔道黒帯五段、極真空手初段、居合道四段という凄まじいほどの経歴だ。
それを聞いたときからアタシの頭の中は、澤じい一色で、次から次へとまだ見ぬ澤田治五郎のイメージが出来上がっていく。
持ち上げた相手をつかんで、そのまま頭部を地面に叩きつけられそうになるという最悪な目にあっているのに、ドキドキがおさまらないほど内心はひどく興奮している。
そしてそのアメコミのヒーローにも似た強さが夢となり、枕元で眠るアタシに、澤田治五郎という伝説をことこまかに興味深く語ってくれる自分がいた。
(もし、仮にマイクタイソンと澤井治五郎先生が闘ったらどうなるんだろう……?いやいや、澤井治五郎が勝っちゃうんじゃないの?)
そんな妄想を夢見て、夢の中ではマイクタイソンを投げ飛ばし、技を極めてしまうおじいいちゃんに感嘆したりもした。
それはアタシがこれまで全幅の信頼を置いていた本物の格闘家、ヒクソン・グレイシーに次いで、澤井治五郎というおじいちゃんが、アタシの中での世界最強争奪戦に加わった瞬間でもあった。
「見たい!教わりたい!」
翌日のお昼休み、アタシは鼻息荒く、昼食にサンドウィッチを頬張る智に、高らかに宣言した。
「な……何を?」
智はアタシとは真逆で冷めた口調になっていた。
キョトンとする智が座る机を両手でバンッと勢いよく叩くと、周りの皆が一斉に振り向いた。
「決まってるじゃん。澤じいさんに柔術部の顧問をしてもらって、世界一の技をご教授してもらうんだよ」
「世界一って……」
「澤井治五郎師匠は、何でもできる凄い人なんだよ!マイクタイソンにだって勝っちゃうんだから」
アタシは勝手な妄想を茫然としている智に半ば強引に押しつけた。
「もしかしたら、400戦無敗のヒクソン・グレイシーに初めて土をつける人なのかも知れない」
アタシの力説の前に、智はサンドウィッチを咀嚼しながら首だけを縦にブンブンと動かしていた。
いつもは何かにつけて文句を言う智も、迫力ある決意表明のアタシの前では借りてきた猫のようにおとなしくなっていた。
放課後、二人で恐る恐る職員室の扉を開けると、奥の席で澤井先生が、お饅頭を食べながらお茶を飲んで座っていた。
こうして見るととてもじゃないが、合気道の達人に見えないし、威厳も全く感じない。
アタシと智は、忍び足で澤井先生のもとへと近寄り、挨拶をした。
「おや、この間のお嬢ちゃんかい? 今日はどうしたの?」
澤井先生は、まるで一流の落語家を思い起こさせるような渋みのある魅力的な低音でアタシたち二人に尋ねた。
「先生にお願いがあります!」
アタシは周りの教員の視線を感じながらも、澤井先生の前で声を大きく張り上げた。
澤井先生は、お茶を口にしながら目を見開いていた。
「あの……アタシたちの……その……創設した、柔術部の、顧問を……その、お願いしたいなと思いまして……」
最初の勢いは失速し、声も段々としぼんでいき、おそるおそる上目遣いで、眼前の澤井先生に申し出た。
「ああ、いいよ」
断られるかと思いきや、いかにもあっさりした答えが返ってきた。
「いいけど、部活の条件である最低5人はいるの?」
澤井先生に問われて、アタシと智は思わずうなだれた。
「集めます! いまは2人しかいないけど必ず! 近いうちに!いや、もう、絶対に!」
「じゃあ5人集まったら、もう一度ここへおいで、こんな老いぼれでよければ、なにか役にも立つかも知れんし……」
「やったあ」
アタシは声を張り上げて、隣の智とハイタッチをして喜び合った。
そして、この出会いが、今後のアタシたちの運命を左右するだなんて、当時中学1年坊の子供には想像も出来なかった。
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