明日はあたしの風が吹く

バンビ

第1話人として

生物として、人として生まれてきたからには、誰だってジャンルはどうあれ一度は地上最強を志すもの。いかにも坂本龍馬あたりが言いそうな台詞だが、少なくともアタシはそう思う。 

格闘技の祭典 アルティメット大会で、グレイシー柔術を見たのは、幼馴染の格闘技マニアの男の子から借りてのDVD鑑賞だった。

一目見た瞬間に雷が脳天に落下し、全身をビリビリとした衝撃が襲いかかり、心臓はバクバクと悲鳴を上げ続けていた。

まさに一目惚れというやつだ。

マウントパンチ、テイクダウン、チョークスリーパー、腕十字、ひとつのミスも許されない何でもありという名のルールで行われるバーリトゥードの中で、相手を子ども扱いに敗北させていく瞬間を目の当たりにして、アタシは自分の存在意義をはっきりと見つけてしまったんだ。

当時、一緒に住んでいた父親に、グレイシー柔術を学びたいと言ったら、目を白黒させて、玉子焼きを口に放り込もうとしたまま固まってしまっていた。

弟に至っては、「はあ?」という表情で、真剣なアタシの顔を小首を傾げながら凝視していた。

「またあ、松村さんとこのさとるくんの影響でしょう?」

斜め向かいに座る母親がため息をついた。

松村 智くんはアタシの同級生で、格闘技のDVDを貸してくれた友達だ。

「智から借りたDVDがきっかけだけどさ、アタシはもうこれしかないって思ったんだよね」

向かいで茫然としていた父は、コホンとわざとらしい咳をしてから、お茶を飲みほした。

「まあまあ、陽菜はるなもまだ小学校4年生なんだし、そんなに急いで人生の目標を見つけなくともいいだろう。それにほれ、お前は腐っても女の子なんだしさ」

腐ってもって何だよ。そりや2個下の弟のゆずるに比べたら、アタシは顔もオツムの具合も平凡だけどさ。

「姉ちゃん、そのグレイシーなんちゃらよりも、空手とか剣道とかのがいいんじゃないの?」

「あんたは黙ってな!」

アタシは横から口を挟んできた譲をキッと睨みつけた。

「なんだよ。おっかねえ…こんなんでプロレスまで始めたら、もうヤンキーじゃん」

アタシは隣で卵焼きをつまもうとする譲の頭を引っ叩いた。

「いってえ」

「このバカゆず、グレイシー柔術はプロレスじゃないよ!総合格闘技なんだ。ショーなんかじゃなく本気で殺し合うくらいに真剣なんだ!」

アタシが息を切らしながら、弟の譲に力説しているのを父は仰天した様子で眺めていた。

「こ、こ、殺し合うって……お前、小学4年生の娘が……」

「あ、いや、今のは言葉のあやで……」

父親は、その後、高熱を出して寝込んでしまった。

もはやこの話は打ち切りかと思われた数日後に、友人の智が、両親の説得にわざわざ実家まで来てくれた。

「僕は見続けたいんです。ハルちゃんがグレイシー柔術を究め、400戦無敗のヒクソン・グレイシーのような存在の高みに到達する瞬間を」

両親はテーブルの前で懸命に語るメガネの少年の言葉を茫然とした表情で聞いていた。

「見たい、見続けたい、ハルちゃんがどう変わるのか、あくなき最強幻想への追求は僕の心を締め付けてやまないのです」

「は……はい……」

生返事をする両親を目の当たりにして、アタシはもはやどちらが年上なのか分からなくなってきていた。

智は、小学校2年の頃に転校してきて、チビでメガネでモヤシみたいな体型で、イジメの標的にあっていた。

百科事典を片手に、誰とも遊びに行こうともしない智は、近所のボス猿連中のいいカモにされていた。

アタシは智が近所に住んでいたという伝手つてもあって、智がイジメにあっていたときは、すかさず父親の金属バットを片手に追い払った。

気がつけばアタシは勝手に智の専属のボディーガードになっていた。

智は、将棋や読書、コンピュータ関係に詳しく、色んなことを教えてくれた。

格闘技も智がのめり込んでいる趣味の一つだ。

「智……ありがと」

アタシは、両親を説得してくれて、3つ離れた駅にあるグレイシー道場に入門を認めさせてくれた智にお礼を言った。

「頑張ろうね。ハルちゃん」

いや、あんたはやらないんだけどさ……格闘技。

「格闘技界なんて、万人に気に入られるスポーツじゃないと思うんだ。そんな格闘技界を夢溢れるものにしようと疾走している女の子がここにいる。気高い。志が高いじゃないか」

おいおい智、あんた危ないクスリでもやってるんじゃないの?

アタシは智が頬を真っ赤にしながら力説するのを、あんぐりとした表情で茫然と眺めていた。

当時、グレイシー柔術はカルト的な人気を誇っていたが、いまはさすがに下火になってきており、県内に唯一存在するグレイシー柔術の道場も門下生は20名もいなかったし、ほとんどが幽霊会員のようなもので、私と付き添いの智は大きくため息をついた。

師範の山下・サントス・エレナ(28)さんは、女性でブラジルのサンパウロ出身、アブダビコンバットという寝技の世界大会で優勝したこともあり、あまりの強さに、アラブに住む王子さまに求婚までされたらしい(速攻で振ったそうだ)

エレナさんは、アタシがイジメ防止やら、護身術目当てでなく、単にグレイシー柔術の頂点を極めたいというワガママを黙って聞いてくれて、特別なカリキュラムを作ってくれた。

エレナさんの丁寧な指導もあって、アタシはメキメキと強くなっているのを自分自身で感じ取っていたのだが、キッズ部門での女子の参加がいないために、大会に参加することができず、歯がゆい思いをしていた。

智と共に小学校を卒業する頃を迎えると、もはや道場でも師範や指導員以外にアタシの敵はいなくて、帯の色も、この年齢では最強の緑帯となっていた。

智をイジメようとする奴らには、容赦なく柔術を仕掛けようとしたが、そのつど智に止められて説教された。

智は、某有名私立の中学校を受験するように親から言われていたが、アタシに合わせて無理やり公立の中学校に一緒に進学した。

当然のことながらウチの中学校には、グレイシー柔術の部活などあるわけもなく、アタシと智は、クラブ新設のために、ポスターを配ったり、チラシをばらまいたりした。

「おい、お前ら、何してる?」

チラシを配って、部員募集している最中に、一人の角刈りで屈強な肉体と阿修羅のような恐ろしい人相をした体育会系の教師がアタシと智の前に立ちふさがった。

「お前ら、勝手なことして、届け出しとるんか?あ?」

直後、空気がピリッとしたような異様な緊張感に包まれた。

「はい、出してます」

智は落ち着いて、挑発してきた教師に対して、まっすぐな視線で返した。

「お前、パーマしとんか?」

角刈り教師は智の前に立ちふさがり、恐ろしくドスの利いた声で言った。

智は幼い頃から天然パーマで、特に耳の上が酷かった。

「天然です」

「うそつけ」

「ほんまです」

「そんなピグモンみたいな天然パーマがあるかあ!」

「せんせの顔って、ピグモンに似てますね」

ふいに空気を切り裂いたようなアタシの一言に、角刈り不細工教師は固まった。

「ふっ」

角刈りは自分でも可笑しかったのか、鼻で笑った後に、アタシとの間を詰め寄ってきた。

アタシも負けじと、角刈りに向かった瞬間、智が二人の間に入ってきた。

「やめとけって、ハル、俺のことはいいから」

「別にアンタのことで怒ってるん違うよ。自惚れんといて」

アタシは、角刈りが襟首をつかんできた瞬間に身体を捻って、そのままヒジ関節を極めた。

「いててて」

ヒジ関節を極められた角刈りは脂汗をかいていた。

すると板張りの廊下の奥から、スタスタスタという音が聞こえてきた。

その後、白髪頭の老齢の教師が、ぬっとアタシの前に顔を近づけた。

「さ、澤井せんせ……え」

ヒジ関節を極められた姿勢のまま、角刈りが苦しそうに、老齢の教師を見上げて声をかけた。

身長155センチくらいで体重も50キロもなさそうなおじいさん教師は、ヒジ関節を極めたままのアタシの手首や腕をもみもみと触ってきた。

「まだあれやな、ここの力の入れ具合がなっとらんな」

瞬間、アタシの身体は浮いて、ふわっと持ち上げられ、その直後、地面に後頭部を叩きつけられそうな寸前で止められた。冷や汗をかいたアタシは茫然と天井を眺め、ぜえぜえと息を切らしていた。自分がどうなっているのか、すぐには理解できない信じがたい光景に、智も驚愕な表情を浮かべたまま茫然としていた。

「痛いと感じさせるようじゃだめだ」

老齢の教師は、そのままアタシをゆっくりと起こした。

両足は未だに震えがとれず、酩酊したように景色が歪んで見えた。

「痛くて我慢させてるようじゃだめだ。痛くないけど、どうしようもないというところまで追い込んでやらにゃ」

老齢の教師は腕を押さえてうずくまったままの角刈りを、ひょいと片手で起こした。

「高崎せんせも、あまり生徒を雁字搦がんじがらめに縛りつけちゃいかんねえ」

「はあ……すみません」

「いや、若いな、はっはっはっ」

老齢の教師は笑いながら奥の職員室へと消えていった。

小さいお爺さん、だが決して好々爺こうこうやではない異次元の強さを誇るお爺さん教師の出現にアタシと智は直立不動のままただ黙って固まっていた。

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