第32話 長い犬の死体


 これは私が中学生のときに先輩から聞いた話。


 私の中学校は地方の田舎にあった。東京に近いけれど、自然豊かな場所で、山や川がある。よく友人や先輩たちと渓流釣けいりゅうつりに出かけたものだ。そのころはテレビの影響で釣りが流行ブームだった。


 先輩を仮にTと呼ぶ。

 T先輩は陸上部に入っており筋肉隆々きんにくりゅうりゅうだった。山奥の急斜面を重い荷物をかつぎながら、ひょうひょうと登っていく。


 その日も、友人とゲーセンで遊んだ後、どうしても渓流釣りがしたくなった。荷物をかついで一人で山奥の渓流にむかったそうだ。


 時刻は午後三時ころ。

 真夏だったので陽はギラギラと輝いている。山の中はあつく、やたらせみの声がうるさい。何度も急な斜面をのぼりおりしているうちに、ようやく川のせせらぎが聞こえてきた。


 ここはよくあゆが釣れる。まれに天然うなぎも釣れる。

 釣り竿さおをとりだして、針に餌を付けていると、背後のしげみがガサガサとれた。


 驚いて振り向くと、そこには眼鏡をかけた優しそうなおじさんが立っていた。

 おじさんは田舎には不釣り合いなほど、黒いスーツをびしっと着こなしていた。


 茂みの向こうにはじゃり道があって、そこに東京ナンバーの車がとまっている。

 車の中を見ると、後部座席に白いワンピースを着た女性が座っていた。この人の奥さんだろう。そしてその女性の隣には、なにやら長いものが横たわっていた。丁寧に白いタオルケットが覆い被さっている。T先輩にはそれが何か分からなかった。

 開けられた運転席のドアから冷房でキンキンに冷やされた車内の空気がもれてきた。

 車内はこれだけ寒いにも関わらず、ワンピースの女性は隣に横たわってる長い物をうちわでパタパタとあおいでいる。


 おじさんが優しい声で言った。



「私たちは都会から犬を連れて山に遊びに来たんだけど、車の長旅で疲れたのか犬がグッタリしちゃってね……」


「それで悪いんだけど、この近くに動物病院はあるかな? けっこう症状が悪くて……」


 T先輩はハッとした。

 なるほど。あのタオルケットで覆われているのは犬か。

 ただその犬は死んでるかのようにピクリとも動かなかった。


「ここは農村部だから……」


 とT先輩は首を横に振った。

 それを見ておじさんは静かにうなずいた。


「それならこの近くに駅とか大きなお店とかあるかい? 東京にいる獣医さんを電話で呼んで待ち合わせしたいんだけど……」


 それにT先輩は首を横に振った。

 そしてT先輩は言った。


「でもこの山の北のほうに大きなゴルフ場があるから、あそこなら……」


「そうか。ありがとう」


 そう言っておじさんはニコニコ笑ってお辞儀したあと、ワゴン車に乗って去って行った。


 それから数週間がたち、T先輩はおじさんのことをすっかり忘れて、部活の県大会に向けて練習していた。


 そんなあるとき。

 たまたま放課後に職員室を通りかかると、開いてるドアから、職員室に置かれたテレビが見えた。


 T先輩は心臓が飛び跳ねそうになった。


 テレビにはあのスーツ姿の優しいおじさんの顔が映っていた。

 車内にいた白いワンピースの女性の顔も映っていた。


『警察の取り調べによると、被告の証券会社に勤めている夫婦は、虐待死させた子供を東京都郊外の山奥に遺棄したとして……』


 それから。

 部活が終わり、荷物を持って帰るとき、T先輩はあることを思い出して嫌な汗が流れた。後悔の念と得体のしれない恐怖が湧き上がってきた。



 あのとき。

 おじさんは『獣医を呼びたいから近くに駅とか、大きな店はないか?」とたずねてきた。

 そして自分は『ここは農村部だから無い。でも山の北の方に大きなゴルフ場がある』と答えた。



 おじさんは本当は獣医を呼びたいのではなくて。

 あの山で人が滅多に近寄らない場所はどこかを探るためにいてきたのではないか。


 そして。

 あのとき車の後部座席に横たわっていた長い犬の死体は、ほんとうは……。

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