第19話 目玉を返しておくれ 【閲覧注意】


 この話は長いです。

 またグロ描写や残酷描写があるので苦手な方は読まないでください。



 これは私の祖父そふから聞いた話。

 祖父そふ叔父おじにあたる人物に重正しげまさという男がいて、彼が体験した話だ。



 祖父が生まれた大正9年(1920年)ごろの話だ。

 そのころ重正しげまさは20歳でたいそう勇猛ゆうもうな若者だった。

 重正しげまさは普段は農作業をしているが、猟銃りょうじゅうをもっており、畑を荒らす害獣を狩っている。

 重正しげまさの住んでいる村は山沿いにある。だからいのししくまが多い。

 その時代はまだ山沿いの村とあればインフラが整っていない。

 夜になれば真っ暗だし、山中には今のように整備された道路がない。

 細い獣道をとおって山を越えなくてはならない。そんな時代だから今よりも畑を荒らす害獣が多かった。

 畑の被害が多くても村の老人たちは山への信仰があついもんで。

 めったに狩りにはいかない。


 重正しげまさは信心深い年寄りたちを見て。


「欧米列強とならぶ日本人が、なにを根拠のない風習にビクビクしておるんじゃ」


 と口癖くちぐせのように言っていた。

 年寄りに対抗するように、重正しげまさは猟銃をかつぎ、猟犬のモスケを連れて、よく山に狩りに行った。

 この秋田犬のモスケもまた飼い主に似てとても勇敢ゆうかんな犬だった。


 さて。

 この山沿いの村から20キロほど離れた先に、山と山に挟まれた日陰ひかげの谷がある。

 そこは昼でも薄暗い。うっそうと茂る森と浅い沼地がどこまでも続くじめじめした場所だ。

 村の老人たちは、ここはいわくつきの土地だから絶対に足を踏み入れてはならないと口をすっぱくして言っていた。だから村の者は誰も近づかなかった。


 しかし重正しげまさは知っていた。

 村の畑を荒らす猪どもは、だいたいこの辺りからやってくる。

 ある日のこと重正は「畑の害獣を退治したる」と意気込み、昼過ぎに猟犬のモスケを連れて猪狩りに出かけた。

 猟師たちの掟では、山へ狩りにいくときは1人で行ってはならない。かならず2人以上で行く事とされていた。

 しかし狩猟の経験が長い重正しげまさは、これを無視して1人で出かけてしまった。


 2、3時間歩いてようやく日陰谷ひかげだにに着いた。

 あたりを散策するが猪はみつからない。


 気がつけば夕暮れだ。

 森はだんだん薄暗くなっていく。

 しかし重正は気にせず、あと1時間だけねばってみるかと狩りをつづけた。

 それから数十分すぎて、もうあきらめようとしていたころ、とつぜん茂みの中から大きなおすいのししが現れた。


 すかさず重正は猟銃をかまえた。

 しかし猪はそれに気づいてきびすを返し、あわててけわしいがけけのぼっていく。


 パアン。

 逃げる猪にむかって一発撃った。

 弾はたしかに猪の後ろ足に当たった。だが興奮した猪はずんずんと崖を駆けのぼり、丘のうえに去っていった。

 愛犬のモスケが真っ先に猪を追う。重正もそれにつづいて険しい崖を駆けのぼった。

 それから20分ほど追跡したが。

 その猪はとうとう見つけられなかった。

 愛犬のモスケもどこかに行ってしまい、重正は途方とほうれていた。

 しかし耳を澄ますと、どこか遠くで「わおん、わおん」と勇ましくえるモスケの声がする。


「でかしたぞモスケ。猪を見つけたんだな」


 重正はそう思って、声のする方に走った。


 モスケがいた。

 モスケは竹やぶにむかって激しくえている。

 そこは沼地になっており、動物の骨が散乱していた。色褪いろあせた白い竹が沼から伸びており、まるで異界のような雰囲気があった。


 重正はそこをよく知っていた。

 そこは日陰谷ひかげだにの奥。

 信心深い老人達が恐れて絶対に近寄らない場所。

 祟りの地。いわくつきの土地。


日陰谷ひかげだにの奥には山の神さんがいる。みつかれば食われてしまうぞ」


 重正は幼いころから老人達にそう言われてきた。

 でもモスケがその竹やぶにむかって激しく吠えている。

 きっと仕留しとめそこなったいのししがそこにいるのだろう。


「日本はこれから列強国になるんじゃ。だからそんなくだらない古い迷信は破壊せねばならん」


 猪を狩りたい衝動しょうどう

 そして重正は古いしきたりを嫌っており、それを壊したい気持ちがあった。

 重正は恐怖を振り払い、その禁断の地に足を踏み入れた。


 すでに夜。

 満月の明かりでまわりが見える程度。

 この暗さではもう狩りはできない。とにかくその猪だけでも取って帰りたい。


 モスケも吠えるのをやめて、静かにあとをついてくる。

 しかし猪はみつからず、さすがにもう無理かなとあきらめかけていた。

 するとモスケがまた激しく吠えて、奥へと走っていく。

 重正もそれを追った。200メートルほど走っただろうか。

 急にモスケが腰を落として威嚇いかくの体勢をとった。


「そうか。ついに猪をみつけたか」


 重正は正面をじっと見た。

 暗くてよく分からないが竹やぶの開けた場所があった。

 小さな草しか生えておらず広い空間になっていた。


 そこに黒い影がうずくまり、クチャクチャと何かを咀嚼そしゃくしている。

 今まで嗅いだことがない凄まじい異臭がした。


「しめたぞ。他にも獣がいたか」


 重正は右のひざを地面について体勢を低くして猟銃をかまえた。

 重正はつばをんで、その獣をじっと見すえた。

 さっきの猪ではなさそうだ。猪にしては前足と後ろ足が長い。それに胴体も細い。最初は山犬かと思ったが、山犬も狼も絶滅しており、この谷にいるわけがない。


 よく見ると。

 そいつの足元には、さきほど仕留めそこなったいのししが横たわっていた。 

 無惨むざんにも腹をかれ内臓がとびだしている。そいつは猪の内臓をクチャクチャとっていた。

 重正はそいつを狩ろうと猟銃の引き金に指をかけた。だがそこから指が動かない。まるで体全体が金縛りにかかったかのように動かなくなってしまった。


 そいつに気づかれた。

 そいつは食うのをやめて、ゆっくりとこちらに近づいて来た。


 そいつはせほそった黒い狼のような姿をしていた。

 そしてどう見てもそいつは人間の顔であった。それも子供のようなすべすべした顔だ。


 そいつのニヤけた口は血で真っ赤にそまっている。あの猪の肉が口のはじっこから垂れさがっていた。

 前足と後ろ足には、それぞれ5本の長い指がはえており、まるで人間の手のようだった。

 人面の狼。長い指の生えた異形の存在。


「ば、化け物じゃ!」


 重正はこれまで感じたことのない恐怖をおぼえた。

 どっとひたいに嫌な汗がながれた。

 化け物は猪の血を浴びて真っ赤にそまった口をめながら、重正のところにゆっくり近づいて来る。


「食われる……」


 重正の恐怖が頂点に達した。

 そのとき愛犬のモスケが勇猛ゆうもうにもその化け物にむかって飛びかかった。

 モスケはそいつの前足にみつき、首を激しく振った。


「ぎゃあああああ!」


 そいつは人間の子供そっくりの泣き声をあげた。

 そしてモスケの背中にみついた。

 重正は呆然ぼうぜんとその様子を見ていたが、ふと我にかえった。

 金縛りがとけている。指が動いた。

 もういちど猟銃をかまえなおし、そいつめがけて引き金をひいた。

 しかし弾がでない。


 不発だ。


 ありえない。

 今朝、猟銃の手入れをおこなったばかり。

 出かける前にも猟銃がしっかり機能していることを確認している。


 もういちど弾をこめて引き金をひく。

 やはり不発だった。


 重正がとまどっているあいだに、その化け物が愛犬モスケの首に食いついた。

 血がにじんで、モスケが「きゃあん、きゃあん」と悲壮な声をあげる。

 そのとき化け物はこちらに背を向けており、完全に無防備だった。


「こんどこそ撃ち殺してやる」


 重正はそうおもって、ふたたび猟銃に弾を込める。

 油断していた化け物が、モスケの首を放し、こちらに振り向いたとき。


 パアン。

 一発撃った。

 銃弾はそいつの左の目にあたった。そいつの目玉がバラバラに飛び散った。


「おみゃああああああ!」


 そいつは人間の赤子のような、あるいは発情期の猫のような鳴き声をあげた。

 そいつはヨタヨタと歩きながら、竹やぶのさらに奥へと逃げていった。


 重正はいま見たものが信じられず、あっけにとられ、立ちすくんでいた。

 愛犬モスケが首から血を流しており、「くうん、くうん」と弱々しい声をあげている。


 そこで重正はハッとした。

 モスケの首にはハッキリと人間の歯型が残っていた。

 水筒の水で血を洗いながし、アルコールをしみこませたハンカチで、傷口をふいてやった。


 ともかくぼうっとしていたら、またあの化け物が戻ってくるかもしれない。

 そうおもって愛犬のモスケを連れて、急いで来た道をもどった。

 ひたすら走って、ようやく日陰谷の入り口までやってきた。

 そこには、もう誰も使っていない古い炭焼き小屋がある。

 そのさきは開けた道になっており、村まで一直線につづいている。

 二時間も歩けば村に戻れる。


 重正はホッとして、さらに足をはやめた。

 おかしいと重正が気づいたのは、下り道を歩きながら10分ほどたったときのこと。

 どうも同じ道をぐるぐるとまわっているような奇妙な感覚にとらわれた。

 このあたりは何度も来ている。道にまようはずがない。

 言い知れぬ不安をかんじて、重正は足早になるが。

 やはり同じ道に戻ってきてしまう。それでも意地で走っていると、見慣れた炭焼き小屋が前に現れた。


「そんな馬鹿な……」


 あり得ない。

 山道をくだっていたはずなのに。

 また同じ炭焼き小屋の前にたどり着くなんて。

 それとも気が動転して、自分でもわからないうちに山道をまわっていたのか。

 真っ暗だから知らぬうちに違う道へ入ったのか。

 そうおもってもういちど山道をくだる。

 しかしどうしても山道を降りた先に、あの炭焼き小屋がある。

 愛犬のモスケはいよいよ疲れ果て、弱々しく鳴いている。首からまた血がにじんでいる。


 これいじょう歩くとモスケが危ない。

 本当は嫌だったが、しかたなくその炭焼き小屋で朝まで休むことにした。

 そのころにはすでに夜の9時を過ぎていた。

 疲労ひろうと空腹で、足はくたくたである。


 重正は小屋の床に横になった。

 天井を見上げながら、つい先ほどのことを思い出し、恐怖に震えた。

 狼の体に人間の子供の顔。前足後ろ足に5本の長い指がはえており、まるで人間の手のようになっていた異形の化け物。


 あれは何だ?

 あれが老人たちの言っている山の神さんなのだろうか?

 とても神さんには見えない、おぞましい姿をしていたが?


 そう考えると、また体がぶるぶる震える。

 重正は猪を狩ったときに飲もうと思っていた祝いの焼酎しょうちゅうかばんから取り出した。

 恐怖から逃れるように、焼酎をいっきにあおった。にぎり飯も持っていたが、どうにも食う気分じゃない。

 モスケに分けてやった。

 モスケは腹をすかしており、よろこんでそれを食べた。

 今夜は眠るわけにはいかない。朝まで小屋を見張ろうと思い、猟銃をわきに置いた。


 がりがり……がりがり……。


 いつのまにか眠ってしまったらしい。

 ふと重正が目を覚ますと。

 がりがりという奇妙な音が、入り口の扉から聞こえてくる。

 懐中時計をみると午前2時すぎ。


 モスケも起きており、扉にむかってうなごえをあげて威嚇いかくしている。

 重正もがばっと起き上がり、猟銃を扉にむかってかまえた。

 今度は何かが小屋の屋根に飛び移ったようだ。

 ぺたぺたと音がする。

 まるで人間の手で這っているような不気味な音だった。


 まさかあいつがやって来たのか?

 でも外に出て確かめる勇気はなかった。

 気の遠くなるような長い時間がすぎた。

 音がやんでも重正は天井にむかって銃をかまえたまま。


 やがてぼそぼそと人の話す声が聞こえた。


「め……だま……めだま……」


 愛犬のモスケが天井にむかって激しく吠える。

 ぺたぺたぺたと音がして、何かが屋根を這い回ったあと、すとんと地面におりた。


 小屋のまわりを何かがぐるぐるまわっている。

 ふたたびぺたぺたと音がする。

 それから外にいる何かは入り口の扉の前でとまった。

 愛犬のモスケが今度は扉にむかって激しく吠える。


 がりがり……がりがり……。


 さっき屋根のうえにいた何かが、ふたたび入り口の扉を歯でいているようだ。

 愛犬のモスケも怯えはじめ、すみっこで丸くなっている。


「だれだ!」


 重正は叫んだ。

 猟銃を扉にむかってかまえる。

 すると扉を引っ掻く音がやんだ。

 扉のすぐ外から、人間の子供のような声が聞こえてきた。


「わたちの……めだまを……かえちて……かえちて……」


 重正の顔から血の気がひいていく。体はぶるぶる震えてとまらない。

 それでも重正はガチガチなる歯をおさせて必死に叫んだ。


「何しに来た!」


 気がつけば愛犬のモスケがとなりっている。

 モスケも怖いのだ。それでもモスケは扉に向かって威嚇いかくした。


「わたちの、めだまを、かえちて、おくれ」


 外の化け物は、ハッキリと人間の幼児に似た声で「目玉を返しておくれ」と言った。

 恐怖がこみあげ、たまらず重正は猟銃を扉にむかって一発撃った。

 すると銃弾であけられた扉の穴から、片目のない人間の白い顔がみえた。


「わたちの……めだま……めだまを……かえちて……おくれ」


 またその化け物は人間の幼児に似た声で言った。


「お前の目玉など知らん! 去れ!」


 重正はそう叫んで、二発目を撃とうとした。

 しかしまた金縛りにかかったように指が動かない。


「わたちの……めだま……めだまを……かえちて……おくれ」


 まるで壊れたレコードのように、そいつは同じ口調で同じ言葉をささやいている。


「ほ、本当に知らん。俺が銃で撃ったとき、お前の目玉はバラバラにはじけとんだ。だからここにお前の目玉はないんじゃ!」


 しかしそいつはもう片方の血走った赤い目で穴をのぞきながら。


「ちがう……おまえが……わたちの……めだまをうばった……めだまを……かえちておくれ」


 とても恨めしそうな声だった。

 もはや愛犬のモスケも吠えるのをやめて、重正の背中に隠れてちぢこまっている。


「だから俺は知らん! たのむからあっち行ってくれ!」


 重正は理性をうしない、ひたすら叫んだ。


「ちがう……おまえが……わたちの……めだまをうばった……おまえの腹をいて……なかにめだまを……かくしてないか……みせておくれ……!」


 また恨めしそうな声をあげると、荒々あらあらしく扉をたたやぶって中に侵入してきた。


「勘弁してくれぇ! 許してくれぇ!」


 重正は絶叫した。

 恐怖のあまり重正の記憶はそこから先があいまいになった。

 人面の狼が目の前に。そいつの5本の指が迫った。

 首をしめられ床に倒される。腹をかれた。

 するどい痛みが走った。血がにじむ。

 そして愛犬モスケのうなごえ

 モスケが化け物に飛びかかる。

 猟銃を棍棒こんぼうのようにふりまわした。

 化け物が悲鳴をあげる。重正から離れた。

 すると今度は化け物が愛犬モスケに飛びかかる。

 化け物はモスケの腹を引き裂いた。腹の中に手をいれて中を探りながら。


「ここにはない……ここにはない……つぎは……おまえの……はらいて……なかに……めだまを……かくしてないか……みせておくれ」


 重正は発狂して、小屋を飛び出し、無我夢中で走った。

 転げるように山道を降りて、そこから意識がとぎれた。


 そして。

 次に目を覚ましたとき。

 重正は村から近い診療所のベッドのうえに寝ていた。

 医者がいうには、道端で倒れているお前を、心配して探しに来た村人達が見つけたと。

 発見されたとき重正は重症だった。

 右足首の骨折。全身の打撲。腹部に獣にまれたような裂傷。

 そして狂ったように「たすけて、たすけて」とわめいていた。


 一緒に行った愛犬のモスケだが、その数日後に村の近くの山でみつかった。

 モスケはきれいに骨と内臓を抜き取られており、毛皮しか残ってなかった。

 医者はモスケは熊におそわれたのだろうと説明した。


 しかし生前に祖父はこう言っている。


「あとになって村の者たちがモスケの死体を見た。それで皆が口をそろえてこう言った。あれはどうみても絶対に熊のしわざじゃないと……」

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