第4話



 俺はぼう、とその場に突っ立っていたが、ぐっと眉間にしわをよせて、いやいや方向転換した。足音荒くベッドに歩み寄って、依然として死んだように横たわる美沙を見下ろす。

「それでいいのか、だって?」

 俺は馬鹿にするようにふん、と鼻を鳴らした。

「いいんじゃねーの。別に」

『じゃぁ本当に、彼女が目覚めなくてもいいんですね?』――。

 金子の言葉が、再び心の中で鮮明に問いかけた。だから俺は考える。

――彼女が、目覚めなかったら。どうなるだろうか?

 とりあえず、俺はいろいろなことから解放されるだろうな。

 朝の無意味な電話。デート代の心配。女友達との関係を誤解されて言いつくろう苦労もなくなる。いきなり呼び出されてつきあわされる買い物とか、夜の長電話。だいたい、なんで何も用がないときでもかけてくんだよ。次の日バイトがあるってのに寝かせてくれないし。何を話すわけでもないのに、ただ、「ねぇ窓から月見える?」とか、「私の窓からも見えるよ」とかそんな馬鹿らしい話ばっか…電話代馬鹿にならないっつーの。

 その時ふと、俺の脳裏に窓越しに眩しく輝く満月の情景が浮かび上がってきた。

 思わぬ記憶の断片に、俺は戸惑うと同時に、苦笑する。

「なんだよ…眠かったくせに、よく覚えてんじゃねーか」

 電話片手に見上げた月は、今も色あせぬまま、こうも瞼に焼き付いている。

 そして、その記憶をきっかけに、せき止めていたものが溢れ出るかのように、美沙との思い出が次々と浮かんできた。

 初めて会ったときの美沙。「へぇ、同い年。もっと上に見えた」そう言ってにこりともせずに顔を背けた彼女の第一印象は、「なんだこの無愛想な女は」だった。

 最初からなんとなく反発しあっていて。仲良くなって間もないというのによくケンカしていた。授業中小声でケンカし続けてその後教授に「なぁに授業中もいちゃいちゃしとるかね君らは!」と怒鳴られ、めちゃくちゃ心外だった。でも、なぜだろう。会えばケンカ、顔見りゃケンカだったのに、俺らは見えない糸で引かれ合うようにいつも近くにいた。

 大学にも慣れてきて、なんとなくつるむ奴らも決まってきた頃、気がつけば俺たちは同じグループにいた。自然と一緒に遊ぶことも多くなって、お互いのことを深く知るようになって。うんざりすることも多くなった。

 どうして付き合うことになったのだろうと、今でも不思議に思う。あんなにお互いの欠点を見せ付けあった後だというのに。

 時には、ぶつくさ言いながら勉強を教えてくれたり。時には、「奢れよ」とか言いながら美沙のレポートを手伝ってやったり。

 数え切れない、そんなちょっとしたことの積み重ねが、いつの間にか俺と美沙との間に切っても切れない関係を築きあげていたんだ。

 人に、どういう関係なの?って聞かれても、的確な言葉が見つからなかった。だからというわけではないが、周りの奴らの口車に乗せられたのもあるかもしれないが、とにもかくにも、俺たちは付き合うことになった。しかし、付き合う前と後では大して俺たちの関係に変化はなかった気がする。

 まぁ、あいつがさらにわがままになったくらいか?

「もうさ…なんなんだよ」

 後から後から溢れてくる記憶の重みに耐えられなくなったような気がして、俺はふたたびしゃがみこんだ。ガキみたいに膝をかかえてうずくまった。

「なんでお前じゃないといけないんだよ…」

――もしも、彼女がこのまま起きなかったら。

 俺はあっさりと彼女を忘れ、他の女を探す旅に出るのだろうか。

 だけど、今俺の身を押しつぶしそうなこの記憶は、簡単にはなくならないだろう、と思った。この記憶を塗りつぶしてくれるような、他の誰かとの記憶を積み重ねるのは、ひどくおっくうな気がした。それに、そんな人が、果たしているだろうか。

――もしも、彼女が千年を超える眠りにつくのなら。

「…俺も、眠ろうかな」

 呟いて、俺は喉を震わせて笑った。そうだ、俺はきっと眠りにつく。彼女みたいに魔法にかけられてはいないから、千年は眠れないけど。そう、長くて百年くらいは。

 その百年の間に、じわりじわりと、音のない孤独に身を蝕まれていくんだ。

 それは――やだな。

 俺はすっくと立ち上がって、美沙の枕元に跪いた。彼女の寝顔は相変わらず生気がなくて、ざわりと胸が騒ぐ。俺はそんな自分を深呼吸しておちつかせた。

 大丈夫、金子も言ってたじゃんか。眠り姫を起こす方法がたった一つあるって。有名すぎて、悲鳴をあげたくなるくらい気障な方法だけど。

「ま、しょうがないよな」

 美沙の前髪をかきあげて、俺は、自分でも驚くくらい優しい笑みをこぼした。今なら、なんだって言える気がした。どうせこれ夢だし、美沙だってこんな爆睡してるし、それにちょっと、金子に言われたことがひっかかってたんだ。

「やっぱ俺、お前じゃないと駄目みたいだ。ひっじょーに困ったことだけど、お前いないとムリっぽい。こうなったのも全部お前のせいだぞどーしてくれる」

 そうして俺は、祈りをこめるように目を瞑り、いままでしたことないような、はにかんだ口付けを落とした。まるで年端のいかぬ少年が、初めて好きになった少女にするキスのような――。



「だから、お願いだ。

   目を覚ましてくれ…」



「目を覚ますのはあんたでしょ」

「…ぬぇ?」

 どこか遠くから聞こえてきた声に、俺は珍妙な声をあげてしまった。その自分の声も遠くに聞きながら、俺は今までいた世界が遠ざかっていくのを感じた。その代わりに押し寄せてきたのは、より確かな感覚と、なんだか受け入れたくない現実の予感。

 果たして、恐る恐る目を開けた俺は、視界いっぱいに広がっている女の笑顔に本気で度肝を抜かされた。声もなく硬直して、次の瞬間奇声を発してベッドから転げ落ちる。

「ぎゃーっ!出たー!」

「な、ひっつれいね!なんなのその驚き方!?人をお化けかなんかみたいに!」

 そう言って頬を膨らませたのは、紛れもなく、さっきまで眠り姫やってたはずの美沙だった。俺は混乱した頭を整理しようと必死に脳を活性化させる。

 ちょっと待て、なんで彼女がいるんだ?昨夜は間違いなくこの部屋には俺一人だったよな?…あ、いやそうだ金子が飲みに来てた。でも金子はいないぞ!?なんで金子じゃなくて彼女が俺の家に…いやいやそんなことよりも重大なのは――。

「ねぇ、さっきのもう一回して」

 ふいに、美沙が甘えた声を出して床に座り込んでいる俺の首に腕を回してきた。俺は嫌な予感が的中した気がして、でも認めたくなくて白を切る。

「な、なんのこと?」

「とぼけないでよ、さっきのだってば!その前には、なんかすごい嬉しいこといってくれたよね~」

 にやにやと抑えきれない笑みをこぼして、美沙はわざと考え込むようなふりをする。

「うーん、なんだっけ。“おれやっぱお前がいなきゃ――”」

「ああああああああああ!!」

 俺は絶叫してばね仕掛けの人形のように飛び上がった。自分でもかわいそうなくらい顔を真っ赤にして、両手を振り回しながら必死に言いつくろう。

「ち、違うっつの!あれはなあれは夢の中に…めぇっちゃ可愛い子が出てきてさーあっ、そうそう安田佳代!安田佳代といちゃいちゃしてる夢見てたんだよーっもうすっげー幸せだったー!あぁいい夢だったー!」

「ったく、馬鹿なこと言ってんじゃないわよこのねぼすけ!」

「あたっ」

 額を平手で叩かれ、俺はむすっと口をつぐんだ。「まったく何が安田佳代よ」と呟きながら、美沙は立ち上がってキッチンに歩いていく。どうやら誤魔化しきれたようだ。

 安堵のため息をもらしてから、俺はなんとも言えない気分で窓から差し込む朝日に目を細めた。昨日までが嘘の様な、馬鹿に晴れた日だ。

「そっか」

 自分にだけ聞こえるような声で、俺はそっと呟いた。

「目が覚めたのは、俺のほうだったんだ」

「ほら、これ飲んでちゃんとしゃきっとしなさい」

 こん、と机にカップが置かれる音がした。あぁ、ありがとうと反射的に言って振り返った俺は、目を見開く。

 机に置かれていたのは、四葉のクローバーの模様が散らばる、珍しい薄青色のカップだった。

――もうどこにも売ってないってあんなに泣き叫んでたくせに。どれだけ探し回ったのやら…。

 俺はゆっくりとカップを手にとって、両手に包み込み、温かいコーヒーを口に含んだ。ほどよいほろ苦さに、涙が出そうになった。数回まばたきして、俺はもう一度言う。

「ありがとう」

 数え切れない気持ちを詰め込んだ、その一言を。千年の眠りからさめた心優しき眠り姫は、さらりと笑って受け入れてくれた。この期に及んでも謝れない、どうしようもなく意地っ張りな俺の弱さとか、そんなもんも全部、全部ひっくるめて。


「どういたしまして」



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千年の眠り 百年の孤独 茅野 明空(かやの めあ) @abobobolife

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