脳内補正

 もうすぐ名京大病院に着く。

 家からずっと走って来たからか、息が切れている。

 なんか最近、走ってばっかりな気がする。

 私、運動なんて全然得意じゃないのに。


「……これもっ……あなたのせい、だから、ねっ……帰ったら……正座、だから……」


 悪態をつきながらも、脚は止めない。

 早く行かないと。

 早く、私の想いを伝えないと。




 病院の敷地に入った。

 もうゴールはすぐそこ。

 きっとそこには四季くんがいるはず。



 病棟の最上階、一番奥にある部屋まで、やっとの思いで到着する。

 そこは院長室だ。

 私は院長室のドアノブを掴み、思い切り引いた。




「え……」


 中はひどい有様だった。

 窓ガラスはところどころ割れ、普段は整理されているインテリアも破壊されつくされていた。

 呆然としたまま部屋を見回す。

 私はテーブルの手前に人が倒れているのを見つけた。

 見たことがある人物だった。


「安田先生‼」


 慌てて駆け寄る。


「ああ、のぞみちゃん、か……」

「大丈夫? しっかりしてください!」

「俺は大丈夫……。あいつに……助けられた」


 あいつ、って……。

 抑えきれずに疑問をぶつける。


「先生、何があったの? まさか――」


 急に安田先生の目が見開かれる。

 そして焦った様子で、私に伝えてきた。


「早く、この場から離れろ」


 意味が分からない。


「なんで⁈」

「お前は、大切な人のことを忘れたりなんて――」


 安田先生が言い終わるより前に、私の頭の上に誰かの掌が置かれた。

 少しびっくりしたけど、この感触を私は知っていた。

 だからすぐに緊張を解く。


「パパ……」


 安田先生がパパに向かって言う。


「院長。やめてください。それは娘さんのこれまでの人生を否定することになる……‼」


 私の人生が、否定される……?

 どういうこと?


「邪魔しないでくれ、安田君。何も、全部をなかったことになんてしない。ほんのちょっとだけ、だ。……それが、君の弟の望みでもある、だろう?」


 安田先生は悔しそうに唇をかんで、黙ってしまった。



 パパは私を見て、それから院長室のドアの向こうを見て、寂しそうに笑った。

 それで、パパが何をしようとしているのかが分かってしまった。


「パパ、やめて、私は――‼」


 激しい頭痛がした。

 脳の中の細胞一つ一つを残らず潰されていくような感覚。

 パパはきっと、私の中から四季くんとの思い出を消すつもりなんだ。なかったことにするつもりなんだ。



 あまりの痛さにぎゅっと目をつぶる。

 脳裏に四季くんの姿がよぎる。

 だいじょうぶ、私は四季くんのこと、忘れるはずなんて……。



 脳裏に映る彼の姿が、背を向けて遠のいていく。

 どうして?


「行かないで……私を、助けてよ……」


 そう言えたのかどうか。

 あまり憶えていない。


 でも彼は私からずんずんと離れていく。

 私、ここにいるのに。

 ここが、あなたの居場所のはずなのに。




 瞼の裏から彼の姿が遠のいていくのと同じように、意識も遠のいていった。







 目を覚ます。

 ここは、どこ?

 周りを見渡してみる。


「おはよう、望海」


 パパの声がした。


「おはよ。……ここはえっと、病院だよね?」

「うん、そうだよ」

「なんで私……ここにいるんだっけ……」


 ここに来る前は確か、岸井さん……ううん、七羽ちゃんと話していた。

 どんな内容だったっけ。



 そうだ。

 私は、伝えようと思ったんだ。

 自分の”想い”を届けようって思ったんだ。

『守ってくれてありがとう』って。

『大嫌いなんて言ってごめんなさい』って。

『これからも、ずっと一緒にいさせてほしい』って。



 でも。

 なんでだろう。

 そこまで憶えてるのに。


「私は……誰に……気持ちを、伝えたかったのかなあ……」


 パパがちょっとだけ申し訳なさそうな顔をして。


「知ってるの? パパ?」


 でも、首を横に振って、教えてはくれない。



 思い出したい。


 思い出さなきゃ。


 思い出せ、思い出せ、思い出せ。



 だけど。

 いくら思い出そうとしても。

 なぜだろう。

 寂しさばっかり募ってきて。

 胸の奥の方が痛くて。

 苦しくて。

 なんで思い出せないの?

 もう一回、もう一回って思い出そうとしても。

 やっぱり心の中には。

 切なさと悲しさと寂しさと虚しさばかりが地層のように重なり合っていく。


「あなたは……誰……?」


 視界が涙でにじむ。

 でも、その人に見せる顔は笑顔じゃないといけない気がして。

 ここにはいないその人に向かって、無理に微笑もうとする。


「出てきてくれなきゃ……わかんないよ……」






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