第12話
「ほのかちゃん何飲むー?おごるから好きなの飲みなよ」
席に着いたチャラ男は私にメニュー表を見せながらそう促す。ピンク色の明かりとカウンターの裏に置かれた多種多様な酒。いかにもな髭のバーテンとカウンターで談話する男性。奥の席には男女の二人組。私はチャラ男と向かい合ったテーブル席に座り、一息ついた。
初めて来たので確信はないけれど、おそらくは「バー」というやつだろう。落ち着いた雰囲気に、甘ったるい香り。差し出されたメニュー表には見たこともないカタカナの名前ばかり。多分全部カクテルの名前だ。カシスオレンジとかはさすがにわかる。……本来なら十五歳の私がいてはならない空間だ。
私は、メニュー表で顔を隠しながら、これからどうするかを考えていた。
――やってしまった。
いくら桃花から図星を突かれまくってイライラしていたとはいえ、さすがにこんな場所に来るべきではなかった。何もかもがわからなすぎるし、本来いてはならない空間にいることが私の胃を痛ませる。あんなに美味しかったしゃぶしゃぶが口から逃げ出そうとするくらいには緊張していた。
だいたい目の前の男は、私が学生ということに気が付かなかったのだろうか?ここまでの道中の会話では、「大学生です」とうそをついたがそれくらい普段からナンパしてるなら見抜けるものじゃないのだろうか。いや、ホイホイついてきたのは私なのだから彼に対して愚痴を言っても悪いのが私であることに変わりはないのだけど。
と、チャラ男は私の持っていたメニュー表をひょいと取り上げ、私の目をのぞき込んでくる。
「なに?バーとか初めて?もしかして全然わかんない感じ?」
メニュー表を見ていたのを、どれを注文していいかわからず悩んでいたと解釈したのだろう。彼はそういうとおススメのお酒を紹介し始めた。
「――これと、あとこれもおススメかな。っていうかほのかちゃんは普段あんまり飲まないんだっけ?」
「そうですね。お酒はあんまり飲まないです」
「そっかー、じゃあこれとかどう?カルーアミルク。甘くて飲みやすいんだよ」
「甘いんですか?じゃあせっかくのおススメだしそれにします」
「おっけー。ってかほのかちゃんそういうところも可愛いね」
――どういうところだよ。もっと具体的に言えんのか。
そう内心で悪態をつくが、表面上では微笑んでおく。といっても「可愛い」と褒められると素直に嬉しい自分もいる。褒められることに耐性がないのは母のせいだ。
男は店員を呼んで、注文を済ませる。というか彼はここの常連のようで、なにか雑談を交わしていた。ひそひそ話していたので内容はうまく聞き取れなかったが、そうやって話すのなら私にはあまり聞かせたくない話なのだろう。
私は改めてメニューに目を通しながら、溜息を吐きそうになるのをこらえる。
控えめに言っても、今日の私の行動は愚かだろう。まず私にはこういう場に対する知識もないし経験もない。いや、なくて当然なのだが、それゆえに何が起こるかよくわかってない。これからどういう展開になるのかとか、こういう場でどんな話をすればいいのかとか、そもそも高校生であることをちゃんと悟られていないだろうか、とか。
そんな不安と同時に、私が自分が昂っていることを自覚していた。通常なら絶対に関わることはないだろう空間、人間。すこし悪いことをしている自覚もあって、その非行を犯していることにドキドキして、自分がちょっと大人になったように錯覚する。高揚感と緊張と不安で、きっと今の私の思考はうまく機能していない。
注文を終えた男が話しかけてくる内容に、細心の注意を払って答える。一つ間違えれば高校生と疑われかねない。
「おまたせしました。カルーアミルクです」
しばらくしてダンディーな店員が私にお酒を持ってくる。カフェオレのような色で、確かに甘そうだし、一見お酒には見えない。
「じゃあほのかちゃん、かんぱーい」
「か、かんぱーい」
促されるままにグラスを近づけ、カツンと音を鳴らす。
彼はぐいっと杯を煽る。それを真似するのも違うと思ったので、両手でグラスを持って一口。お酒とは思えないほどに甘い。ほんとうにカフェラテみたいだ。
そこから彼は、酒を飲みながら自分語りをしていた。自分がいかにモテるか、仕事では自分がどれだけ頼られているのか、この辺で自分がいかに顔が広いか。そんな中身のない自慢を、武勇伝でも語るかのように話していた。正直中身がなさ過ぎて、ほぼほぼ「へー、そうなんですかー」と答えることしかできなかったが、それでも彼は満足げだった。
彼は私が普段あまり関わらない部類の人間だと思う。ここまで自慢を惜しげもなくしてくるようなやつを私は知らない。自分を大きく見せて、尊敬を集めて気持ち良くなりたいだけ。彼は本当に褒められていると感じているかもしれないけど、実際は愛想笑い。多分他のナンパされた女も同じようなことを思うんじゃないだろうか。
虚栄心をかき集めた、承認欲求のモンスターみたいなやつ。
好きにはなれない部類だし、これが大人として認められているのが可笑しくて仕方ない。でも、私が知らないだけでこんなしょうもない人間は世の中にあふれかえっているのだろう。
結局私が一杯飲み終わるまでに、彼は三杯も飲んでいた。あまりわからないけど、たぶん結構早いペースで飲んでいたのではなかろうか。だいぶ声がうるさかったので、店側が迷惑被っていないか心配である。
だが、店を出るときにきちんとお金は払ってくれたので助かった。ついでに店側から高校生と疑われなかったことも助かったと思う。
通りは静まり返り、各所にネオンの光。時刻は夜中と言える時間に差し掛かろうとしていた。この時間に電車に乗ることはないのではっきりは言えないけど、たぶん終電があるかないかというくらいだろう。
突然、彼は私の肩に手を回し、耳元で囁く。
「……じゃあ、いこっか」
たぶん彼の中では最大限甘い雰囲気を醸し出した声だったのだろう。だが、耳に息のかかる距離で発されるそれはシンプルに嫌悪感を持たせるものだった。
本来ならここでおさらばするべきなんだろうけど、たぶん私も酔いが回って思考力が低下していたんだと思う。ここまで来たならせっかくだし経験しておくか、みたいな気持ちになっていた。気持ち悪いけど。
無論、彼の発言の意図も理解している。おそらくこのまま彼についていけば、私ははじめてを失うのだろう。でもそれも別にいいか、と。そも、私のそれは大事にするほどのものでもないし、誰に捧げるとか、そんなものでもない。そんなメルヘンな感性はとうに消え失せている。ここらでサクッと失っとくか、くらいのものだ。
私は頷いて、彼の足取りに合わせて歩く。夜の街を歩けば、露出の高い服の女性、スーツのへべれけ男性集団。普段私が関わることのない世界だと改めて感じさせる。
男は歩きながら、私の尻を撫でる。不快感しかない。囁いてくる言葉も――褒められるのは悪くないが――いちいち耳にかかって気持ち悪い。
十分ほど歩いて、駅前のそういう雰囲気のホテルに到着する。彼は手慣れた様子でチェックインを済まし、私は促されるまま部屋に案内される。
部屋の扉を開くとクソでかいベッドに淡い光のライト。いかにもな感じである。靴を脱いで入室。続いて彼が部屋に入り、カチリと鍵を閉める。
さすがにここまで来ると逃げる余地もないだろう。ふわふわした思考でついてきてしまったが、客観的に見るとこれはかなり「カモ」だったのではないだろうか?
そう思うと「私は安い女です」と主張しているみたいであんまりいい気分にはなれなかった。
と、彼は私をベッドに押し倒す。
「もういいよね。てかほんと可愛い」
荒い息でそう囁いて、彼は私の唇を奪う。
よく知らないけど、こういうのはまずシャワーを浴びたりするのではないだろうか。そのまま舌を這わせて来るのを、私は特に抵抗せずに受け入れる。
あまりいい気分ではないし、気持ちよくもない。ドラマとかで男が出社前に嫁とするキスはこんな感じなのだろうか?だとしたら朝から気分が滅入るというものだ。
私の首筋から肩のラインを撫で、胸をまさぐる。なんというか乱暴で、やさしさの感じられない手つきだ。性欲に正直ということだろう。……浅ましい。
男ってみんなそんな感じなのだろうか?だとすれば哀れ。もうちょっと情緒とか、そういうのを感じられた方が人生は豊かになると思うんだけど。
太ももに硬いものが当たる感覚がある。あー、これがあれなのね。私の体に入ってくるであろう物なのね。なんだか気持ち悪い。
生物として、種を残すために必要な行為だし、必要なものであると理解しているけど、だとしても湧き上がるのは生理的嫌悪感。これは、私が彼を優秀な雄だと判断しなかったから感じるものなのだろうか。だとしたら気持ちよくもないし、この行為に私にとってのメリットは皆無と言える。あー、帰りたい。こんな男にホイホイついてくるんじゃなかった。
彼の手は私の腹をなぞりながら、秘部に手を入れる。今まで誰にも触れさせたことのない場所に他人の温度を感じた。
「なんだ。ほのかちゃんも濡れてんじゃん」
ああ、そうなのか。意識もしなかった。私にもきちんと人間としての生殖本能があるということなのか。こんな男に対しても、女性と迎え入れる準備を自然と行ってしまっているのか。私はしっかり人間という獣の部分も持ち合わせている。そう認識させられる。それでも一度抱いた嫌悪感は拭えない。
「ほんと可愛いねー、もう大好き越えて愛してるよ」
――瞬間、弾けた。
彼にとっては軽口の一つだっただろう。それほど感情を込めた言葉でもなかっただろう。なのに……それなのに、私は思考を失った。
劇的だった。それまで気色悪く感じていたものが、心地よくなった。彼の声にも手つきにも、嫌悪感しか感じていなかったはずなのに、突如としてそれは快楽になった。私の脳内を幸福物質が満たし、煩雑な思考を全て壊していくのを受け入れるしかなかった。
たった一言、愛を囁かれただけで。
それだけで、全てが一変した。
「あら?やっぱ気持ちよさそーじゃん」
彼も私の変化に気づいたのだろう。語り掛ける言葉の意味はあまり理解できないけど、彼の表情がそれを伝える。
甘い痺れが私を縛り続けるが、その引力はだんだんと弱まっていく。もう一度、あの快楽を味わいたい。今の私は本能のままに動く獣と変わらない。
「あの……もいちど、言って……」
いつもなら挟んでいたはずのフィルターを介さずに、ただ思ったままの言葉が口からこぼれ出る。
「え……なに?」
「もっかい……言って」
「あー……愛してるよ」
再度、甘い痺れが私を満たす。きっと今の私は、今までにないほどだらしのない表情をしているだろう。だが、それを意識する余裕もない。
こんな風になってしまっているのは、お酒のせい?それとも雰囲気のせい?なんでもいいから、もっとこれを味わいたい。
「すごい感じてんじゃん。ふふ、可愛い……愛してる」
耳元で囁く声。気持ち悪かったその吐息が、今は私に幸せを与える。
もうそこからどうなったのか。私はよく覚えていなかったが、気持ちよかったことだけは覚えている。
――気がつけば、駅前のベンチにいた。
雀が鳴く。朝日が差す。披露した顔の社会人が駅に吸い込まれていく。まぎれもなく朝だ。始発も動いている様子。
意識が覚醒していくに従って、昨夜のことを思い出す。まだうすぼんやりしているけれど、あの快楽が脳裏に浮かぶ。
思い出すだけで、腹の底がジワリと温かくなる感覚がした。思い出すだけで幸せになる。あそこまで劇的だったのはアルコールのせいだと思うけど、それでもわかってしまった。
あれが私の求めていた愛、なのだろう。
――わかっている、歪だ。きっと彼の言葉は心のこもったものではない。私の反応を楽しんだだけのでまかせだろう。でも、それでいいと本能は訴える。そんな粗末な愛でいいから囁かれればいいと、そう理解する。
言葉で愛を語られるだけでイイなんて、たいそう安い女だ。客観的に見てもそうだし、主観的にもそれは間違いなくて、嫌気がさす。
ああでも、それでもあんなものを一度でも知ってしまったらもう……私には抗えない。あんなのが私の求めていた愛だと思いたくないけど、もう求めずにはいられない。
と、ポケットのスマホが震える。画面を確認すると、知らない名前。……いや、知っている。
『今日は楽しかったよ。また遊ぼうね』
メッセージの内容とタイミングで誰か理解できる。昨夜の男だ。
自然と口元が緩む。温まる腹に手を添えて、私は返信の内容を考え始めた。
中庸 @Lothar
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