第10話

 猫。それは人間の愛玩の象徴ともいえる動物である。飼い猫はもちろんのこと、野良猫ですら人間はかわいいかわいいと言ってもてはやす。

 子供が弱っている子猫を拾ってきて、飼うことになるというようなエピソードを聞くこともあるけれど、それも言ってしまえば人間がかわいい、愛くるしいと感じていなければ起こりえないエピソードだろう。

 私も猫――特に飼い猫――に生まれていればこんなにも苦痛とストレスに満ちた人生を歩まなくてもよかっただろう。何もしなくても餌が来るし、飼い主は勝手に愛してくれるだろう。というか猫になってしまえば「愛されたい」という欲求すら出てこないかもしれない。だってそうやって愛されているのが当たり前なのだから。


「うーーん、かわいいねぇ。あくびしちゃってー、眠いのかな?」


 私の目の前で丸まる猫に対して、桃花が猫なで声で話しかける。

 彼女のこんな声は今まで聞いたことない。相当レアな行動だ。そんな貴重な場面に直面しているのにも関わらず、声をかけられた猫は彼女をガン無視して仏頂面で欠伸している。

 しかもこの灰色の毛並の良い猫、私の参考書を枕にしているのだ。人様のものを我が物顔で占有しておいてこの態度、やはりぬるま湯につかった生活をしているのだろう。そんな態度が許される環境で生きているということだ。

 しかもそんなことをしていても桃花は「可愛い」と言ってはしゃいでいる。私もそんな彼女に配慮して猫に強く言えない。さすがは猫様といったところだろう。


 この空間にはざっと見渡しても十匹以上の猫がいる。各々の猫たちは自由きままに過ごし、それを客としてやってきた人間たちが可愛がる。そう、いわゆる「猫カフェ」である。

 七月中旬。もうすぐ校外模試が開催されるということで土曜日にもかかわらず勉強しようと桃花が提案してきたのは昨日のことだ。

 バイトもないし、他の予定もない。つまり断る理由のなかった私は彼女の申し出を二つ返事で承諾。すると彼女は、「せっかく勉強するなら行ってみたいところがある」と言い出した。

 そういう経緯で今日は猫カフェにやってきていた。「勉強のため」という立派な理由はあるのだが、桃花はそんなもの知ったこっちゃないとでも言うように猫に夢中。スマホで写真を撮りまくっている。

 学校から二駅先の繁華街。その駅前に先月オープンしたらしく、全体的に白い内装といたるところにあるキャットウォークはまだ新しめの雰囲気を醸し出していた。私たち以外の客は十人ほど。その多くがカップルでのご来店。別に女子二人で来ても何も違和感がない空間だとは思うけど、なんとなく気が引けてしまう。

 私の教科書を枕にした猫が立ち上がり、大きく伸びをしてはるか上の足場にジャンプ。同時に抜け毛が宙に舞う。


「あっ、おいどこいくんだ?まてよー」


 桃花もそれを追いかけて立ち上がる。教科書すら出してないし、彼女は最初から勉強などせずに猫を堪能するつもりだったのだろう。

 学校ではギャルっぽい雰囲気を出しながらも、根っからの真面目である桃花だが、校外で遊ぶときは精神年齢が下がりがちな気がする。

 高校入学から約四か月。たかが四か月ではあるが、ほぼ毎日顔を合わせるので桃花のこともたいていは理解していると思う。彼女はその軽薄そうな見た目とは裏腹に、いわゆる完璧超人という部類の人種である。

 最初の中間テストでは、堂々の学年一位。それをひけらかすこともなく、全く変わらない態度はクラスの人間から多くの好感を得ていたことは間違いない。そして、その見た目通りにコミュニケーション能力も高い。まるで弱点のない女である。

 そんな非の打ちどころのない女である桃花だが私の知る分には彼女の私生活はだらしがない。

 先月桃花の家にお邪魔することがあったのだが、彼女の部屋自体はきれいだった。しかし、布団の下には脱ぎ散らかされた寝間着、箪笥の中はものすごくごちゃごちゃ、人が来るからとりあえず片づけたということがありありと伝わる部屋だった。それを指摘すると、「お母さんが部屋片付いてないと怒るんだー」とぼやいていた。

 机を囲んで勉強したのだが、学校とは違い猫背だし、スカートのくせに胡坐を組むからパンツが丸見えである。他に人がいないところでは、いつものような完璧超人ではなくだらしなくなるので、いつもの完璧ぶりは演技と努力の結晶と考えて間違いないだろう。

 今の四つん這いになって猫を追いかける姿も、いつもなら絶対に見せないシーンだと思う。

 

 入学式で話しかけられたとき、私は彼女が同じ人種なのではないかと疑っていた。私と同じで何かを諦めた人間だと、そう思った。

 けれども、同じ精神性ではあるかもしれないけれども、彼女は私とは明確に違う。優等生であることを諦めた私に対して、彼女は優等生でい続けている。他人から求められるであろう形を演じ続けている。

 きっと、彼女と同じ部分は人から求められる人物像を演じてきたことと、その仮面が剥がせるものであると気づいたことであり、違う部分はその演技を続けているかどうかだと思う。

 つまり、桃花は完全に私の上位互換である、と言えるかもしれない。そんな彼女が私に対してはだらしのない部分を見せるのは、私が桃花に対して感じているものを、桃花も私に対して感じているからだろう。

 そんな立場に対して劣等感を持ち合わせることはない。それでも、桃花は同じ価値観を持った違う人種であることは忘れてはならない。私が演技をやめたのは、彼女と同じことをしても私自身の欲しいものは得られないとわかったからだ。

 私は優等生を演じる努力をしても愛情を得ることはない。それ以外のやり方で愛を得る方法を考えなくてはならない。

 頬杖をついてため息を吐く。私の目的を達成するための手段は、未だ分からない。


「おーい、何悩んでんだ?教科書も開かないでさ」


 私の左ほおを人差し指でつつきながら桃花が話しかけてくる。いつの間に猫を追いかけることをやめたのか。と思ったけれど桃花の足元にはさっきの猫。どうやら猫がこっちに来たからついでに話しかけたみたいだ。


「勉強しに来たはずなのに誰かさんは猫に夢中だなーって」


 もちろん私の心中をいきなり語るわけにもいかないので皮肉を放っておく。


「もーほのかもここまで来たらわかってるでしょうが。勉強なんで口実よ」

「わかってるわよ。言ってみただけ」


 うんうんと頷きながら桃花は私の隣に座る。


「なにー?ほのかはもしかして猫嫌いか?ほら見ろ。かわいくない?」


 さっきの灰色猫が私の足にすり寄ってくる。さっき教科書を枕にしてた時とは対照的にとても愛嬌がある。そういう動作が愛らしさを引き立てるのか、なるほど。

 私が撫でようとして手を伸ばすと、猫はキャットウォークの上に駆け上った。撫でさせてくれないなんて意地悪にもほどがあるのではないだろうか。


「あちゃー残念。猫ってのは気分屋だね」

「そうね。それに人を誑かすのも上手だと思うわ。さっきのは焦らしのテクニックよ、たぶん」

「ふーん、なるほどねぇ。……誰かさんと一緒だな」

「……それは誰のことかしら」


 私はほんとにそれが誰のことかわからずに問いかける。会話の流れに従うなら私のことだけれど、人を誑かすようなことをした覚えがない。

 私の問いかけに桃花は目を丸めて、


「またまたぁ、そういうところだぞ。わかってるくせにー」

「いや……私、人のこと誑かしたことなんてないわよ。私は真面目で、品行方正だもの」

「えーそれマジで言ってる?亜樹君のこと、マジでわかってないの?」


 その言葉に私は目を丸くする。

 どういうこと?亜樹君が、私となんだって?

 しばし、流れる沈黙。私と桃花は見つめあう。

 しばらくして桃花は呆れ顔で目をそらし、


「ほんとにわかってなかったんだ。ほのか分かってて焦らしてるのかと思ってたよ」

「え?どういうことよ……」

「亜樹君の態度、見ればわかるんじゃないの?あの感じ絶対あんたに惚れてんじゃん」

「ええ。そんなことなくない?」


 亜樹君が私に惚れている?なんの冗談だろうか?

 彼は席が隣でよく話はするけれど、それだけの関係である。

 亜樹君がゲーセン通いしていることがわかってからは、バイト終わりに駅で会って話をすることもあったが、それも偶々会うだけだし、ちょっと世間話をする程度だ。

 そんな彼が私に惚れている、つまり私を愛している?冗談だとするならば、ひどく品のない冗談である。


「あらあらほのかさん。もしかして恋愛に対してはかなり疎いんじゃないです?」


 桃花は口に手を当てて、煽り属性高めの発言。その通りではあると思うので、ぐぬぬと言うことしかできない。自分には中学からの彼氏がいるからって煽りやがって。


「ねぇ……それって冗談でもなく、本気で言ってるの?」


 私が問いかけると、桃花は煽り百%のにやけ顔から真面目な表情になり、


「本気だよ。亜樹君、ほのかにだけ明らかに態度が違うし、彼が積極的に話しかける女子ってほのかくらいだし。もちろん断言はできないけど可能性は高いと思う」

「……そっか」


 私としては意外過ぎる事実。中学卒業式のあの男子を思い出す。

 あの時はなぜ彼が私を陰ながらに愛していたのかわからなかった。そして今もそう。桃花はそういうけれど、私には何も確信もないし、言われたとしても信じられない。

 ただ、中学の頃の経験は、「そういうこともある」ということを私に教えてくれる。全く信じられないことでも、本当にそうであることもあると私は想像できる。

 もちろん桃花が出まかせを言っていたり、悪意を持って虚言を私に言っている可能性もあるけれど、少なくとも百パー嘘ということはないと思う。


「ほのかってわかったうえで弄ぶ女狐タイプだと思ってたけど、意外と純情ガールだったんだね」

「そういうつもりはないけど……恋愛経験がないのは確かね」


 恋愛に興味なかったし、中学の頃は母に愛されることに執着していたし。

 けれども、言われてみればそうである。私が愛されるのに一番手っ取り早いのは恋愛をすることなのではないだろうか?

 指摘されれば当たり前のことなのに、なぜ今まで気づかなかったのだろうか。愛されたいなら恋愛するのが、サクッと彼氏を作ってしまうのが一番確実だろう。それなのに愛を得る方法の候補にすら上がってこなかったのは自分を恥ずべきレベルの失態かもしれない。


 ……いや、わかっている。その理由は自分の中では、はっきりしている。

 母の影を引きずっているのだ。得られるならばどのような形の愛でも構わないと思ってはいても、愛は母から得るものであるという認識が思考にこびりついてしまっている。だからこそ考えが及ばなかった。私だけではそのような思考に行きつくことすらできなかった。

 この指摘をしてくれた桃花に対しては、きちんと感謝するべきかもしれない。


「まぁそれならそれでいいとして、亜樹君どうよ?悪くないと思うけどね」

「うん、そうね……悪くはないと思うわ」


 正直愛してくれるなら誰でもいいとすら思っていたので、良いも悪いもない。愛をくれるならクラスメイトでもそのへんのおっさんでも構わない。


「なら、どうさ。まぁ待っててもあっちから告ってくるとおもうけど、ほのかにとってもありなんでしょ?」

「そうね……まぁ考えてみるわ」


 考えてみるとはいっても、どうすればいいのかわからない。待っていたら向こうから告白してくるというのなら私は断然待つだけを選びたい。何をどうすれば彼が私を愛し続けるかわからないし、私が下手に何かすれば逆効果になるかもしれない。

 結局、わかったことが増えただけで根本は何も変わってないように思える。


「ん。そろそろ百二十分か。出ようか、ほのか」

 

 桃花が時計を確認しながら言う。ここの猫カフェは時間制で二時間。いつの間にそんなに時間が経過していたのか。

 私はもやもやしながらも教科書を片付ける。

 三千円ほど支払って猫カフェを出る。お財布に対して大きいダメージではあるが、桃花にはそれを悟らせないようにする。

 街に出るともう日は傾き始めていた。時刻は六時半過ぎといったところだろうか。

 ここからの予定は何も決めてないけれど、順当に行けば解散することになるだろう。と、思ったのだが……


「ほのかまだ時間ある?せっかく亜樹君の話が出たことだしさ、晩御飯でも食べに行かない?」


 どうやら桃花は私が思っていた以上に恋バナがお好みのようだ。

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