第6話 

 中学を卒業してからの約半月。進学先の高校から郵送で送られてきた入学前課題を粛々とこなし、たまに綾香と遊ぶくらいであっという間に過ぎ去っていった。

 四月。新生活。今日はその最初の一日。

 即ち高校の入学式である。

 

 中学よりも幾分か厳かな雰囲気を醸し出す校門をくぐる。

 卒業式の日と同様に雲一つない晴天。新生活を励ますかのような青い空。

 周りには父母とともにやってくる新たな同級生たち。対照的に私は一人だが、別に恥じることじゃないと自分に言い聞かせる。

 昇降口まで行き、私の下駄箱を探す。事前に配布された資料に書かれた番号と一致するものを探し、そこに今まで履いていた靴をしまう。

 カバンから新調された上履きを取り出して着用。すでに制服やカバンも新調しているのだけど、なんだかこの瞬間にこれまで三年間通ってきた中学とは違う空間に来たということを実感する。

 日の差し込む廊下をほかの新入生の群れに紛れて歩く。私の教室はこの廊下の一番端らしい。これから少なくとも一年は長い廊下を歩くことを考えるとちょっと憂鬱である。

 後ろ側の扉から教室に入ると、すでに数人ではあるが席についている人たちがいた。黒板に白い紙が貼ってあり、そこに3人ほど人が集まっている。おそらくあそこに自分の席がどこか書いてあるのだろう。

 黒板に近寄り、これからの同級生たちの後ろから貼られた紙を見る。やはり席順のプリントらしく、窓際の一番後ろの席の位置に私の名前があった。

 窓際か。日が差してきそうで嫌だな。などと思いながら自分の席に移動する。横の席にはすでに男子が着席していた。

 彼は私の近づく音に気付くと顔をあげる。ばっちり目が合う。彼が会釈するので、私も思わず頭を下げる。

 彼の視線を受けながら席に着く。その視線が気になって私も彼を見る。またばっちり目が合う。

 彼の眼はとても奇麗だった。整ったまつ毛に二重。目じりのキリっとした感じでいい形をしていると思う。まぁでもそれ以外は一般的な感じだと思う。あともうちょっと鼻が高かったらイケメン扱いされるのではなかろうか。


「あ、初めまして」


 私が内心で彼を評価していると、そう言って彼が微笑む。

 そりゃコミュニケーションすることになるよね。ちょっと面倒に感じながらも必要なプロセスであることは理解しているので、返事をする。


「初めまして。山田帆霞って言います」

「あ、僕は原島亜樹」

「そう、じゃあ亜樹君だね。私のことはほのかとでも呼んでよ。よろしく」

「んぇ?!あ、よろしくね。ほのかさん」


 彼の反応を見るに、苗字で呼んだ方がよかったかもしれない。お隣さんだし、円滑な関係を築きたいということで名前で呼んでみたが、これは失敗だったか。

 でも、一回言っちゃったしもう突き通すしかない。

 とりあえず、これで会話が終わるのも気まずいので会話を回そう。


「亜樹君はどこの中学?」

「僕は横浜西だよ」

「横浜西?遠いね。電車通学だよね?」

「そうだね。今日初めて電車で来たんだけど、五十分もかかったよ」

「五十?!そりゃ大変だね……毎朝早起きすることになりそう……」

「あはは、ちょっと憂鬱だよね。ほのかさんはどこ中?」

「九条だよ。学校までも一駅」

「え、いいなぁ。僕も近くの学校がよかったや」


 横浜西あたりには偏差値の低い学校しかないしね。仕方ないね。

 亜樹君と会話をしていると、周りの席も段々と埋まりだす。やがてやってきた前の席の男女二人も交えて会話は盛り上がる。

 そうしているとチャイムが鳴り、定刻を告げる。静まり返った教室に先生らしき人が入室してきた。

 彼は、手に持ったファイルを置き、生徒たちに向き直ると、


「皆さん、合格おめでとうございます。私はこれから一年間あなたたちの担任を務める甲斐田光彦です」


 随分と低いしわがれた声に、退行した頭頂部。なんか堅物そうで規則とかにうるさそうだな、という感想を抱かせる。

 彼は一通りの自己紹介をして、これからの日程を説明する。それが終わると、彼はぐちぐちと高校生としての心構えとか、これからはもう中学とは違うという自覚を持てだとか説教じみたことを言い始めた。

 あー、これは嫌われるタイプの人間だなと思いながら、私は窓の外に目を向ける。窓のすぐ外は中庭。種類は分からないけど黄色い花と花弁が散り始め、青々とした葉のつき始めた桜が植えてある。綺麗ではあるのだけど、私は山並が見える方が好きなのでちょっと残念ではある。

 禿担任の説教は続く。だいたいなんで入学初日からそんな厳しいことを言われなければならないのか、全くもって意味が分からない。だって悪いこともしてないし、だらけた姿を見せたわけではない。つまり彼は、ほとんど知りもしない新入生たちを「気の抜けているガキども」と認識して今話していると予想できる。

 こうやって最初から悪い先入観を抱いてくる人間に碌なやつはいない。きっと人に好意を向けるという行為を遠い昔に忘れてしまったのだ。世の中の全部憎んでたり、自分じゃなくて周囲が全部悪いとか思ってそう。


 内心担任に相当な悪態を吐きながら私は私自身を顧みる。こんな大人になりたくないな、私はこんな醜い人間じゃないよな、と。

 いや、根っこの部分では私もこいつと同じかもしれない。私も最初の印象で担任に悪いイメージを持ったし、そういう部分では同じとも考えられるだろう。

 そう思うと鳥肌が立ってくるのだが、まぁ私は外見はどうあれ中身が醜い人間であることは自覚している。この気持ち悪さは甘んじて受け入れるしかないだろう。

 ただやはりこの禿男と私は違う。明確な違いは内心でどう思っていてもそれを表に出すかどうか、だ。

 私は誰に対しても最初は平等に、あくまでも先入観を持っていないという装いで接している……筈だ。それに対して彼はどうだろうか。最初っから先入観全開で説教じみたことを垂れている。その点で私はこの年寄りよりも優れていると思う。

 いや。もしかすると彼も自分より立場が上の存在の前ではそんなことしないのかもしれない。……だとしたらもっとたちが悪いか。

 こういう人間にはなりたくないものだ、と心の底からそう思う。

 

 窓の外を見るのにも飽きてきて、隣の亜樹君に目を向ける。

 彼はこちらに気づくそぶりもなく、真剣にあの禿の話に耳を傾けていた。おそらく担任の小言を真剣に受け止めて反芻しているのだろう。とってもいい子ちゃんである。

 本来なら私もそうあるべきなのだろうけれど、というか数か月前の私なら内心はどうであれ外見は今の亜樹君と同じように振舞っていたと思う。

 卒業式の日。初めて他人に愛を伝えられた日。あの日から私のこれまであった固定観念は崩れ始めているように思う。

 それまでは母に愛されたい一心でいい子を演じ続けていた。母からしか愛は得られないだろうと妄信していた。

 それでも報われなかった。今でも思い出すと涙腺が緩みそうになる。とてもとても苦い記憶だ。

 そんな努力は全く報われなかったのだが、卒業式の日にふいに私は愛を受けた。彼の連絡先も何も知らないのでもう彼から愛をもらうことはないだろうけれど、私は彼に対して何の努力もしていない。なのに彼は私に愛を与えた。

 今でも思い出すと、甘い感覚が脳内を満たし、おなかの奥が熱くなる。

 それほどのものを私は無償でもらってしまった。それまで、努力しなければもらえないと思っていたものをなんの努力もせずにもらってしまった。

 だとすれば、今までの努力は何だったのか?私は努力しなくてもいいんじゃないのか、とそう思うのも当然だろう。そのせいだろうか、私はいい子ちゃんでいる必要を感じなくなってきていた。それまでいい子じゃなくちゃいけないと思い込んでいた自分を少しずつ崩している。

 そのせいだろう。私は今、担任の話を全く聞いていないことに罪悪感の一つも感じていない。ただ退屈だと思うばかりである。

 亜樹君から目を離し、ほかの生徒たちを見てもほとんど皆、真剣に話を聞いている。きっと今まで真面目に生きてきて、それが報われると妄信しているのだろう。大きな挫折も絶望も味わったことがないに違いない。

 

 と、ちょうど教室の反対側、対角線上の女子と目が合う。彼女もこちらに気づいたのかウィンクしてきたので、私も同じように返しておいた。

 彼女は私と同じように何かに絶望したのだろうか。何かを諦めたのだろうか。それとも、そんなことを考えずただ本能のままに反抗しているのだろうか。

 どちらかは分からないし、どちらにしてもあまり関わらない方がいいのかもしれない。もし彼女が私と同じような人間なら、たぶん彼女に対して嫌悪を抱いてしまう。同族嫌悪。私は私が醜いと自覚しているからこそ、同じような人間なら嫌いになれる自信がある。それにそんな人間は私を愛しちゃくれないだろう。


「中学と同じだと思ってはいかん。高校は圧倒的にレベルが違う。ぼうっとしているとおいて行かれるぞ、今日のうちに気を引き締め……」


 キーンコーンカーンコーン、と。

 無限に続くかと思われた説教がチャイムで中止される。


「時間か。よし、では体育館に移動するぞ」


 そう言って担任が廊下に出ていく。生徒たちもそれに倣い、ぞろぞろと廊下に出ていく。

 だが、一人だけその流れとは逆行してくるのが見えた。さっき目が合った対角線上の女だ。彼女は一目散に私に近づいてくる。


「なぁ。さっき目、合ったよね?」


 溌溂とした声でそう話しかけてくる。あまり関わりたくないけれど、話しかけられたら無視するわけにもいかない。


「……合ったわね。みんな真面目に話聞いていたのにあなたもしかして不良さん?」

「話聞いてなかったのはお前もじゃない?あたし桃花、よろしく」

「そうね。でも私は不良じゃないわよ。ほのかよ、よろしくね」

「あたしだって不良じゃないぜー。でもたぶんあいつうぜぇなー、って思っているのは一緒じゃない?」

「……そうね。そこは同意だわ。入学初日なのに気が滅入る」

「だよね。ま、仲良くしようよ」


 彼女は亜樹君とは違って随分とフランクである。厄介なことに彼女には気に入られてしまったかもしれない。さすがに今の会話じゃ判断できないけど、ただのバカ、能天気でやんちゃ気質であることを祈る。それならただの厄介なやつで済んで、嫌いになることもないだろうから。


「そうだ。今日午前終わりだろ?この後ご飯行かない?」

「とても素晴らしい提案だけど、今日の私は持ち合わせがないの。お断りするね」

「えー!じゃあ明日は?明日も午前終わりだろ?行こうよー」

「……考えておくわ」


 ……なかなか面倒な相手と目が合ってしまったかもしれない。

 

 その後の入学式もそつなく終わり、全員の自己紹介と明日の予定のアナウンスがあった後に帰りのHR。そつなく終わり、本日はこれで解散となった。

 亜樹君含む自分の周囲の席の人間とは打ち解け、怖気づくことなく誰にでも話しかける桃花のおかげで多くの女子とも軽い交流を行った。高校生活一日目としては上々ではなかろうか。


 そう反省しながら、私は駅のホームで電車が来るのを待っていた。同じように電車を待つ生徒たちはたくさんいるが、そのどれもが親付き。独りぼっちなのは私くらいだろう。

 別にもうそれを気にする必要はない。あの人が私を愛することはない。それはもうわかり切ったことで、受け入れたこと。何度も反芻して、丁寧に飲み下した事実。

 手に入らないものをねだってもしょうがないだろう。私は別のものに目を向けるべきである。

 努力しなくても愛がもらえることはあっても、それは偶然の産物。それに期待して生きることがどれだけの虚無期間を生むのかは、経験しなくても分かる。そんな人生は価値も意味も目的も主体性もない。誰かのためのモブキャラとしての人生に違いない。

 不本意な形ではあっても、私はこの世界に生を受けたのだし、せっかくなら私は私の欲望を満たしたい。簡単に死ねない精神構造にプログラムされているなら、欲望満たしてやりたいだけやりたいことをでき、ほしいだけほしいものが手に入る人生がいいだろう。

 私の欲しいもの、欲望はとっくの昔に明白--『愛』である。それを手に入れるために積極的に生きていきたいわけだが……

 さて、どうしたものか。未だに私は愛され方がわからない。未だに私は偶然の愛を期待することしかできない。

 高校という新しい環境で、私は欲しがり方を知ることが出来るのだろうか?こんな不出来で不完全な私は、誰かから愛される演技が出来るのだろうか?

 まさに今の私は、中身だけ変わって外見は何も変わっていない。起源は変わっても本質は変わらない。これを変えなきゃ私は私の欲望を満たせない。

 この、高校三年間でもしそれが出来ないなら、私は私を終わらせてしまおう。そうぼんやりと心の中で誓う。どうせできなくてもぼんやり生きるのだろうけれど、思うだけなら問題ないし。


 やがて電車が到着する。周りの愛に満ちた群衆に混ざりこんで電車に乗り込む。


「あの箱では、誰かが愛してくれるかな」


 誰にも聞こえないようなか細い声で、誰にも気づかれないように本音を漏らす。

 


 


 


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