第5話


 三月の半ば。例年より少し早い桜前線のおかげで満開の晴天。春を凝縮したようなその日は、私の中学の卒業式だった。

 体育館で行われる操業証書授与式。春のうららかな日差しが差し込み、眠気を誘う。

 並べられた椅子の一つに座り、校長の話を聞く私は、眠気で瞼が重くなるのを感じていた。隣のクラスメイトはすでに熟睡。あからさまに舟をこいでいる。

 どうして壇上に立つ人間の話というのは、ここまで眠気を誘うのだろうか。特に体育館という広い空間はいけない。

 教室ならばどんなに教師の話が退屈であっても教科書を読んだり、丁寧にノートを書いたり、後は内職でもすれば眠気には抗うことが出来る。

 だけど体育館はダメだ。周りの多くの人間からの視線、教科書や他のものに集中することを許さない空気、それらが話を聞くこと以外を抑制する。さらに言えば、大体の場合において壇上の高説は聞かなくても特に問題はないし、面白くもない。

 まるで出来の悪い子守歌を聞かされながら寝ないことを強制される拷問みたいだ。

 そんな事を思いながら眠気に抗っていると、いつの間にか校長の話は終わっていたようで、頭頂部がさみしい校長が壇上から降りていく。


「卒業生、答辞」


 司会の先生が案内すると、一人の男の子が立ち上がり壇上に登っていく。私のクラスの学級委員だ。

 彼は壇上に上がるとこちらに背を向けて、懐から台本を取り出す。


「暖かい陽の光が降り注ぎ、春の訪れを感じる今日……」


 彼の落ち着いた声はマイクを通じて体育館中に響き渡る。同級生の言葉は校長よりも興味をそそるのか、横で爆睡していた女子も目を覚ましていた。

 彼のこれまでの三年間を振り返る答辞に、私も過去に思いをはせる。


 本当に、この三年間、何もなかった。ただただ淡々と、機械のような三年間だった。

 優等生としての役割を果たし続けるロボット。先生方からすれば手のかからない素晴らしい生徒だったことだろう。何度成績上位を褒められたかもう覚えていない。

 ただ、それだけである。私はただのいい子であり、それ以上の感慨を誰にも残すことはない。無論私自身がそうなることを望んだのだが、そのころにはまだ優等生になることに意味があった。

 手間のかからない優等生でいれば、母も愛してくれるのではないか、とそんな無駄な期待があったからだ。

 けどその期待もつい先日、打ち砕かれた。私がどれだけ真面目な優等生でも母が私を愛してくれることはない。私の心がそう断言してしまった。その瞬間に私の三年間は無用の長物になってしまった。

 だからこの三年間、何もなかった。意味のない非生産的な日々だった。

 そう断定しているのに、私はまだのうのうと生きている。平然と日常を送っている。しっかり絶望して、期待をすべて失ったのにまだ誰かが助けてくれることを期待している。

 浅はかで醜いことこの上ない。それでも私は生に執着してしまっている。理由を失った人生を惰性のままに生きている。

 母から愛情をもらうことはできなくても、誰かが与えてくれるのではなかろうか。もうそれが「愛」と名付けられるものなら何でもいいから、誰か私に与えてくれと、自暴自棄に陥りかけながら主張している自分がいた。

 そんな自分を押し黙らせて惰性で生きている。期待するだけ無駄だ。一番近くにいた人間がくれなかったのに、外野がくれるわけないじゃないか、と。


「……益々のご発展を祈念として、答辞といたします」


 委員長が答辞を終えて、壇上から降りてくる。

 これで式のプログラムも終わり。最後になんか歌ったら教室で卒業証書を担任から渡される。それで終わり。

 私は、何度も同じことを反芻する思考に苦情を言いながら、過ぎていく時間に身を任せる。

 気づいたときには、式も証書の授与も終わり、後は記念のクラス集合写真を撮るだけとなっていた。


「ほらっ、ほのか!あやの横来て!」


 綾香がそう言って私の腕を引っ張る。私は促されるままに彼女の横に立つ。

 周りを見ると、ワイワイと楽しそうな男子に、こらえきれずに涙を流す女子、それらを見ておおらかに笑うが、その目には涙……な教師。

 いろんな顔が見えるけど、私はそのどれにも共感できない。楽しさも悲しみも、この場には残っていない。


「ほのかー記念写真だぞー。笑えよー」


 私の仏頂面を見てか、綾香がそう提案してくる。

 ――ああそうね。こんな表情はこの場所に適してないね。

 そう内心で呟き、いつもの作り笑顔を浮かばせた。

 

「はい、チーズ!」


 その掛け声とともに写真を撮るカメラマン。その後ろには参列した保護者たち。もちろんその中に母の顔はない。その代わりとでも言うように、綾香の母がこちらを見て微笑んでいた。

 いや、彼女も私を見ているわけではないだろう。私の横にいる綾香を見て、その目に涙をためているのだ。綾香の母からすれば、今の私は綾香のお友達という付属品に過ぎない。

 そう思うとこの場にいるのもなんだかきつくなってくる。私はここにいる人間にとってモブキャラであり、人生を彩る群衆の一匹でしかない。

 私が強制的にメインキャラクターになる母の物語では、私は求められていない。


 顔に張り付けた笑顔とは対照的な内心を保ったまま、卒業式は終わりを迎えた。

 貰った卒業アルバムをバックにしまって、未だ涙と笑い声にあふれている教室を後にする。

 いつもなら一緒に帰る道には綾香がいるわけだが、今日ばかりはそうもいかない。今日は親とちょっといいご飯屋さんに行くと言っていた。流石にそれを邪魔するわけにはいかない。

 まだすっからかんの昇降口に春風が吹き込む。心地よい風だけど、それを感じているのは私一人だということに一抹の寂しさを覚えた。

 靴箱に上履きを放り込んで靴を履き替える。あ、上履き持って帰らないといけなかった。もうここに来ることはないわけだし。

 とは思ったけれど、私は上履きを放置して昇降口を出る。もう使うこともないだろうし、これくらいは許されてもいいだろう。もういい子でいる必要もないのだから。


 桜の花が舞い散り、春の美しさ、卒業シーズンの切なさを醸し出す校門。ふと立ち止まって振り返る。

 三年間通った学び舎をあらためて見上げる。毎日のように通った空間であるはずなのに何の思い入れもない。それが自分をよりみじめに見せているように思えた。


「……バイバイ」


 ちょっと感傷的な自分を演じてみたくてそう呟いてみる。

 ……私だって、もっと楽しかったと言える学校生活を送りたかった。


「……あのっ!!」


 振り返って立ち去ろうとしたとき、昇降口の方から大声で呼び止める声が響いた。私以外の人々はまだ校舎内にいるわけだし、私以外に呼び止める候補もいない。そう自分を言い聞かせて振り返る。

 いや、その行動には学校に対する期待があったのかもしれない。私に何も残していない空間ではあるけれど、最後に何かくれるかもしれない、と。

 振り返るとそこには、こちらに走ってくる男子生徒。カバンをからっていないし、どうやら帰るというわけでもなさそうだ。

 彼は私の目の前までくると立ち止まり、膝に手をついて呼吸を整える。

 彼は確か……クラスメイトの男子だったはずだ。あんまり騒がしくないグループの子だったはず。私とは委員会が一緒だっただけで、ほとんど話したこともないはずだけど、一体何のようだろうか。

 彼は荒い呼吸も収まらぬうちに、顔をあげて私の顔を見上げる。目が合う。


「ええっと……はぁはぁ……その」

「息整ってからでいいよ」


 私がそう言うと、彼は顔を下げて呼吸を整えることに集中する。

 春のうららかな日差しがだんだんと暑く感じる頃に、彼は膝から手を離して屹立した。彼の瞳が何かに揺れているように見える。


「えっと、その……山田さん。卒業おめでとう」

「ありがとう。でもそれは君も一緒でしょ」

「あはは……そうだよね。でも今日はいい天気でよかったよ」


 頭を掻きながら、目を逸らしながらそう話す彼。ただ雑談するために引き留めたわけじゃないだろうに。そう思いながらも、急かすこともせずに話を合わせる。


「そうね、いい天気」

「ほんとそうだよね。山田さんはもう帰るの?」

「うん、別にやり残したこともないし」

「そっか、まぁそうだよね。もう卒業の日だっていうのにやることもないか」

「うん、そういう君はもういいの?」

「僕はあとで友達と遊ぶ予定だから……」

「そう。楽しんでね」


 私がそう言うと、彼は押し黙る。そろそろ本題を話してくれないだろうか。日差しを直で受けているおかげで、額に汗が滲み始めている。

 彼は私を見据えて、意を決したかのように口を開く。


「えっと……山田さん!」

「はい」


 彼はそこで口ごもり、言おうかどうかを悩むようなそぶりを見せる。こちらとしては非常にもどかしい。早く要件を済ませてくれないだろうか。

 

「その……僕は山田さんのことが……」

「うん」

「ずっと、好きでした……」


 言い切る前に彼の声は小さくなり聞こえなくなる。

 ――今、彼はなんと言ったのか。私のことを「好き」と言ったのか。

 私は抱いていた本当に微かな期待を満たされたことで、思わずにやけそうになる。そんなはしたない女になるものかと思って口元を引き締め、再度彼を見つめる。


「私のことが好きって言ったの?」


 問いかけると頷く彼。私の心はその彼の挙動に興奮していた。突如として与えられた好意。それを即時に愛を受けたと断定するのは難しいかもしれないけど、それは今まで得られなかったものであるということは間違いない。私は今、得たことのない何かを、特に仲良くもない彼からもらい受けているわけだ。


「その……高校になったら別々になっちゃうから、伝えるだけ伝えておきたくて……えと、自分勝手な理由で申し訳ないんだけど」


 そう言って彼は俯く。いやいや、伝えてくれただけ素晴らしいではないか。伝えてくれなければ、私は今日一日陰鬱なまま過ごすことになったわけだし。

 ――好意を明確に伝えられたのはいつ以来だろうか。思い出せる限りに、そんな記憶はない。もしかしたら一度も伝えられていないかもしれない。綾香も私に明確に好意を示すことはない。まぁ示すレベルの相手ではないということだろう。

 つまり彼は、暫定たった一人の私に好意を伝えた相手というわけだ。

 

「自分勝手なんて、そんなことないよ。ありがとね」


 彼の目を見て微笑しながら告げる。すると彼は不安そうな顔から一変、無垢な少年のような笑顔を見せる。


「それだけ伝えたかったんだ、ありがとう……じゃあね」

「あ、待って」

「え、何?」

「確認したいのだけど、それは私のことを陰ながら愛してくれていたってことでいいの?」


 そう尋ねると、彼は驚いた後にだんだんと頬を染めながら、


「気恥ずかしい言葉になるけど、そういうことになるね……うん、僕は山田さんのことを愛していた……んだと思う。なんか気持ち悪いよね、ごめん」

「ううん。そんなことないよ」

「ぅえ……そうかな。うん……じゃあ、ばいばい」


 彼はそれだけ言うと振り返って校舎の方に戻っていく。その足取りはなんだか軽快に見えた。

 私も校舎から向き直り、校門を出る。これで本当にこの学校とはおさらばである。


 何もない虚無の学生生活だと思っていたけれど、全くの無意味ではなかったらしい。少なくとも誰かに好意を抱かれるほどには意味があったということだ。

 つまり私は誰からも愛されないわけじゃない。この世の中にはどこかに私を好いてくれる人、愛してくれる人がいるわけだ。これは私にとっては青天の霹靂、しかも超いいニュースである。

 母からもう愛をもらえることはないという事実を、即ち誰からも愛されないということであると誤認識していた。母が愛してくれなくても、ほかの誰かが私を愛してくれる。

 今でも胸が高鳴っている。意識しなければ自然と頬が緩んでしまう。それは私が嬉しいと感じている間違いのない証拠。

 ただ「愛していた」といわれるだけで、ここまで私は高揚してしまうのかという驚きと、強く拍動する心臓を押さえつけようとする理性。とても心地の良い、精神的な快楽が私を包んでいる。

 別に母に固執する必要はなかったのだ。私はもらえるなら誰からの愛でも満たされるのだ、とそう自覚して自分の視野が狭くなっていたことを反省する。

 

 ただ、ここで問題が一つ生じたことにもなると私は気づいた。

 彼は、私のどこを見て「愛していた」と感じたのだろうか。私にはそれが本当に、皆目見当もつかない。

 私はこれまで、母に愛されるために努力を続けてきたわけが、彼に愛されるためには何も努力をしていない。むしろ私は彼に対して無関心だったわけだ。

 それでも彼は「愛していた」と感じた。何を見て?何を感じて?あぁ、きちんと聞いておくべきだった。もう彼と会うことはないだろうに。

 何をすれば愛されるのかわからないのならば、私はどうやって生きればいいのかわからない。


 でも、私は誰からも愛されていなかったわけじゃないという事実があるのは間違いない。この事実は私に生きる理由を与えてくれた気がした。もう母に固執する必要はない。誰かから愛をもらえればいいのだ。


 少し強くも、優しい風が吹く。春の心地よい日差しが、私を包んでいる。

 

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