第4話
一月末日。帰りのHRの後で担任に呼び出された。
要件はもう明白である。第一志望の受験結果が出たのだ。
私の地域では公立高校は結果が張り出されるが、私立高校は結果が中学校に郵送されてくる。ゆえに郵送されてきた結果通知を放課後に担任が手渡しするシステムになっている。
先週受けた志望校の受験は手応え的にはかなり良かったのではないかと感じている。特にわからないと感じた部分もなかったし、全科目時間が余ったので見直しもきちんとできた。
それでも、問題用紙も回収されたので自己採点はできていない。だから確実なことは何も言えないだろう。
職員室のドアをノックし、扉を開ける。
「失礼します、三年二組の山田です。大伴先生いますか?」
「おっ、山田。こっちだこっち」
私に気づいた担任はそちらにくるように手招きをする。私は再度「失礼します」と言って担任の前に行く。
「まぁさっき教室でも言ったように通知が届いたのでな。ほらこれだ」
言いながら机の上のA4サイズの封筒を差し出してくる。
「開けても……?」
「もちろん」
恐る恐る封を切ると、そこには何枚かの書類。試しに一番正面にあった書類を取り出してみると、そこには『合格』の二文字。
だが、それは当然である。問題は奨学金だ。
たとえ合格していたとしても、最高レベルの給付奨学金をもらえなければ進学することが出来ない。
私は極度に緊張しながら、二枚目の紙を取り出す。心臓が今までにないほど早鐘を打っている。こめかみに汗がにじむ。
その紙には奨学金に関する情報が事細かに載っていた。その書類の上部には、最高レベルの奨学金を給付するという証明である「給付奨学金-S」という文言があった。
安堵で大きく肩の力が抜ける。これで私の高校受験は終わりだ。きちんと春からも学校に通うことになる。
「お前なら大丈夫だと思っていたよ。よくやったな、山田」
私の反応を一通り観察した担任が誉め言葉をかけてくる。私は声は出さずにぺこりと頭を下げた。
「えと……それじゃあ失礼します」
「ああ、気をつけて帰れよ」
私は踵を返して職員室から退散。担任はにこやかに手を振っていた。
廊下へのドアを開けると、そこには緊張した面持ちの綾香がいた。
「ど……どうだった?」
綾香にしては珍しく、か細い声で問いかけてくる。
私が二枚の書類を見せると、それをじっと見つめる。
段々と綾香の口角が上がり、緊張した面持ちがいつもの笑顔に変わっていく。
しっかり書類の意味を理解すると、その表情は満点の笑顔に変わった。
「おおー!やったじゃんほのか!あやは信じてたぜ!」
言いながら私の手を握ってぶんぶんと振る。書類がぐちゃぐちゃになるからやめてほしい。
「ありがと。でも職員室の前だから静かにね」
「おうおう!そうと決まれば早く帰ろ!今日は私のおごりだ!」
「この間もおごってもらったばっかりなのだけど……」
廊下に置いておいたカバンに書類をしまい、下駄箱の方に向かう。
おごられるのは普通に申し訳ないが、今日くらいは舞い上がってもいいかもしれない。
調子に乗るなとささやくもう一人の私に、そう言い聞かせた。
早々に帰宅してこの間のように綾香の家で時間をつぶしてから夕食を食べた。
たわいのない話しかしなかったけど、楽しかったのは確かだ。けれど、母のことがずっと頭の片隅にあったせいで楽しみ切れなかった。
「合格した」と母に言えば、母は私に愛を与えてくれるだろうか、褒めてくれるだろうか。そんな思考に支配されたまま、帰路につく。
玄関前で綾香と別れ家に帰ってきた今、リビングに置けてある時計は九時半を指している。
そして明かりのついたリビングには、風呂上がりの母がいた。
「ん、帆霞か。いつもより帰ってくんの遅いじゃないか」
私に気づいた母が話しかけてくる。受験の結果を母に報告する必要がある、母に話をしなければならないと、再度自分に自覚させる。
「綾香とごはん食べてたら遅くなっちゃったの」
「ああ、あの子と飯行ってきたのか。なら今日の飯代はいらなかったな。それ使ってないなら明日は飯代無しでいいな」
母は平然とそう指摘してくる。
私が綾香からおごられることが当たり前であると断定してくる。非常に気分の悪い指摘だった。
母が毎日きちんと食費を渡してくれていれば、こんな習慣がつくことはなかったのに。
心の中に湧いてくる憎悪を抑え込んで、私は無表情に徹する。
「うん、いいよ」
それだけ言って立ち去ろうとしたが、私は合格報告をしなければならないことを思い出す。
私はダイニングでメイクをする母の前に移動した。
「ん?どうしたなんかあんのか?」
母はそんな私に興味なさそうに問いかける。アイラインを引く手も止めず、ただただ私を認識してるだけである。
私は声を出そうとして、踏みとどまった。なぜか私の思考は緊張に支配され、「合格した」というたった一言を紡ぐことはおろか、口を開くことも出来なくなった。
私にとって、今この場が、職員室で書類を受け取った時よりも大きな意味があること。私はそれを思い出し、ここでの母の反応が私の心を大きく揺さぶるだろうことを認識した。
母は、きちんと合格した私に対してどんな言葉をかけてくれるだろうか。私の努力を認めて、褒めてくれるだろうか。愛を述べてくれるだろうか。
私がこの数年、勉強に精を出すことが出来たのは、きちんとした、いい子でいれば母が私を愛してくれるかもしれないという期待からである。
模試でどんなにいい点数をとっても、成績表がオール5であっても、母は私を愛してはくれないどころか、褒めてもくれなかった。それでも、私は努力を続けることが出来た。
理由は単純。もっとえらい子になればいいと思っていたから。私にとってその、最もえらい子であることの指標は志望校に奨学金を得たうえで合格することだった。
つまり、この瞬間は今までの私の総決算なのだ。愛されるために努力してきた私の審判の時なのだ。これまでの努力に意味があったのか、それを私が一言発するだけでわかってしまう。
そんな自分の人生における重大場面が今、ここであることをきちんと認識して、私の体は強張る。すらすらと言えるように何度も脳内で暗唱した「合格した」という一言が、口から出てこない。
「なんだ?何立ってんだ?」
訝しんだ母が再度問いかけてくる。ああ、早く言わなくてはいけない。早く私の努力の成果を報告しなくちゃいけない。
怖い。これまでの努力が実を結ばないという結末が容易に想像できて怖い。どう頑張っても母が私に愛を与えてくれないことが確定してしまうことが怖い。母が義務として私を育てているだけで、私自身に興味がないことを明確にするのが怖い。
それでも自分を奮い立たせなければならない。言わなければ、何も得られない。母が私を愛してくれることもなければ、母に私の努力を見せることもない。
そうだ、きっと愛してくれる。褒めてくれる。そう信じなくては何も言えない。一言も話すことが出来ない。
「ごぅ……した」
「ん?なんだって?」
意を決して開いた口は思うように動かずに、言葉にならない音を吐き出す。
――大丈夫。母は私を認めてくれる。
早まる呼吸を抑えて、覚悟を決めてもう一度口を開く。
「合格……した」
「お?おうそりゃよかったな。奨学金は?」
「……一番いいやつ」
「それなら春からも学校通えるじゃないか。よかったな」
母は私を一瞥するだけで、メイクを続ける。
……え?それだけ?こんなに頑張ったのに?
毎日勉強して県内一の進学校に合格したのに、おちゃらけた同級生を見下すことで自分を保ちながら頑張ってきたのに、その結果がこれ?
「よかったな」なんて他人行儀の一言で終わり?私を褒めることすらしてくれないの?
――もともと、愛を与えてくれるとは思ってなかった。もちろんそれを期待する私もどこかにいたけど、でもきっとそうならないことは予見していた。
でも、少なくとも褒めてはくれるだろうと思っていた。私の努力を認めてくれるだろうと思っていた。それならまだ私に興味があるってことだし、愛されるチャンスはまだあると、そう思えていた。
ただ、結果はこれだ。母は私に興味がない。それが明らかになっただけだ。
「……まだなんかあんのか?」
立ち尽くす私を不思議に思ったのか、母が問いかけてくる。
ここにいたら私は泣き崩れてしまう。こらえられなくなって涙があふれてしまう。
そんなんじゃ、いい子でいられない。
「なんでもない。お風呂入ってくる」
私はそれだけ言うと母の前を後にする。
耐えるのに精いっぱいで早足になりそうになるのを抑えて、平静を装いながら脱衣所に駆け込む。
音を立てないように扉を閉めて、母が入った後の湯が残っていることを確認する。
じっくりと時間をかけて服を脱ぎ、出来るだけ音を立てずに湯船につかる。
そして私は体操座りで丸まって、涙が流れそうになるのをこらえた。
何も考えないように、何も感じないように。段々と体が温まっていく感覚だけを認識して、ほかの感覚と思考をシャットアウトする。
じっと時間が過ぎ去るのを待つ。石にでもなったかのように、呼吸すらも止まりそうなほどに。
遠くで玄関を開け、ガチャリと鍵を閉める音が聞こえた。母が仕事に行ったようだ。
そこが限界だった。私はそれまでこらえていたすべてを吐き出す。
声を出して泣きじゃくる。鼻水も止まらないし、涙を拭う余裕すらない。顔面をぐしゃぐしゃにしてこれまでにないほどに泣いた。
今回のことで、私はついにわかってしまった。もう母が私を愛してくれることはない。
これまでの努力や期待がガラガラ崩れて、自分を構成していたものが崩壊してく感覚がする。これまで私が弱音も吐かず、嫌な顔一つせず生きてきたのは何のためか。
母に褒められたい、愛されたい。その一心である。
でも母は私のそんな小さな願いの一つも叶えてくれなかった。母はもう私を愛さないだろう。
ふと祖母のことを思い出す。洋子おばさんに義務的に介護施設に入れられた祖母を。
最後に祖母に会ったとき、私が感じた蔑みは同族嫌悪だったのだ。
あの時私は「こうはなりたくない」なんて思ったけれど、事実は逆。私も祖母と同じだった。誰からも愛されていない。
だからこそ祖母を蔑んだのだ。それは私から私自身への警告の意味を孕んだ蔑みだった。
適当に流すべきじゃなかった。深層心理で私は誰からも愛されていないことをわかっていた。
とめどなく涙があふれる。これまでの数年間ため込んだ分を清算するかのように止まらない。私自身では制御できない嗚咽が漏れる。
「あー……」
幼児に戻ったかのように意味のない音声を吐き出す。
私はこれから何に期待して、何を求めて生きていけばいいのだろうか?
私は今、生きる目的も術も見失っている。ここで頭を湯船に沈め、そのままこらえていればここで終わることだってできる。
でも私はそれをしない。できない。自分の生命が終わる恐怖が打ち勝って、もう目的もないのにまだまだ現世を彷徨おうとしている。まったく滑稽だし、情けない。
ここで独り、みじめに涙を流している。私を抱きしめてくれる人は誰もいない。一人。
ここに誰かいれば、私はその人を目的として生きることも出来ただろう。
誰もいない、何もない、これまでの十五年がガラクタに変わったこの場で……
「あぁー……愛されたい」
そんな原初の欲望を再度宣って、また泣きじゃくる。
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