第3話


 年も明けて一月。寒さが本格的に身を突き刺し、通学が苦痛を伴うようになる。

 また高校受験も佳境であり、それが精神的な苦痛を与える。

 そんな苦痛だらけの月。さっさと全部終わらせて気怠い春を迎えたいものである。


 痛みを与えるような風の吹きすさぶ帰り道。普段なら身を縮こまらせて歩くはずであるが、その日は違った。


「じゃーん!ほのか、見てよこれ!」


 自慢げに私に一枚の紙を見せつける綾香。下校している周りの生徒たちが驚いてこちらを見る。

 綾香のこういう時に恥ずかしさを感じないところは、悪い点だと私は思っている。

私は寒さに凍えながらも、そこに書かれている二文字に注目する。


 ――「合格」


 その二文字が意味するのは彼女の春以降の進路が決定したこと。つまり綾香の高校受験の終わりである。


「……おめでとう。まぁ第一だし落ちることないと思ってたけど」

「ありがとー!!……でもなんかその言い方ちょっと棘ない?」


 綾香は私の学区のいわゆる底辺私立校を専願入試で受験した。

 専願入試とは「合格したら必ずその高校に行きます」というルールを定めたうえでの受験だ。

 つまりこれに合格した時点で、高校受験は終わりである。

 通称、第一と呼ばれる高校は「名前を書ければ受かる」と言われるほどの学校である。その学校の専願入試なのだから、落ちる方が難しいだろう。


「そんなことないよ。でも綾香はもう受験終わりかー」

「そだよー。ほのか専願だっけ?」

「いや、もし奨学金とれなかったら悲惨だから一般で受けるよ」


 私の高校受験は来週である。一般的に専願入試は一般入試よりも行われ。綾香の受験校もそうであった。


「ほのかなら問題ないだろ。この間の模試もA判定だったんでしょ?」

「そうだけど、念には念を、ってやつだよ」


 ――あなたみたいに何も考えなくても進学できるわけじゃないからね。

 祖母を施設に入れることになり、そのための金が急遽必要になった。

 大部分は洋子おばさんが出したそうだけど、全く出さないというわけにもいかなかったみたいである。

 おかげで家計はより厳しいものになった。

 それゆえにこれまでは一つ下のレベルの奨学金でも進学できるはずだったが、最高レベルの給付奨学金を得ないと進学が不可能になった。

 その事実は嫌でも私から余裕を削っていく。たとえ模試A判定だったとしても、絶対に合格しなければならないというプレッシャーは私に重くのしかかる。

 合格して、手間のかからないいい子でいなければならない。


「ふーん。ま、でも今日はお祝いだ!晩御飯食べに行かない?」


 合格証明書をしまいながら綾香がそう提案する。

 歩きながらカバンにしまうのにちょっと苦戦していた。


「いいけど私そんなにお金ないよ。それにご家族の人とお祝いしなくていいの?」

「家族とは明日行く予定だから!あとお金はあやに任せな!」


 決め顔でそういうが、それは普通に申し訳ない。だがせっかくのお誘いだし断るのも罪悪感がある。

 そう思うながら私が悩んでいるのを見かねたのか、綾香が私の肩に手を置き、


「あやに任せな」


 と繰り返した。これは折れた方が早いやつだ。


「ん-わかったよ。それじゃあ今日は一緒にご飯行こうか」

「よしきた。どこ行く?サイゼ?」

「綾香サイゼ好きだもんね。そこでいいよ」

「うむ!じゃあさっさと帰ろ!今日はサイゼでぶち上げよ」

「こっちが恥ずかしくなるからあんまり騒ぎすぎないでね」


 まぁすでに彼女の高いテンションで周りから距離をとられているのだけど。

 そこからは早足で帰宅。お互いに家に一度帰った後に綾香の家に集合しようということになった。

 制服を着替え、財布とスマホを持って家を出る。

 綾香の家までは歩いて五分もかからない。すぐに彼女の住むマンションに着いた。

 十一階建てのこの辺ではそれなりに大きいマンション。おしゃれな大理石のエントランスで十階の一号室を示す「1001」をインターホンに打ち込み、呼び出す。

 呼び鈴がなり数秒、


「はいはいどなた様?あら、ほのかちゃんね、今開けまーす」


 インターホンに出たのは綾香の母だった。開けるという宣言とともにエントランスのドアが開く。

 エレベーターで十階まで行き、「1001」号室まで行くと玄関のドアが開いていた。

 そこにはかわいらしいリボンで髪をまとめ、白を基調としたロングスカートとこれまた白いファーの上着を着た綾香がいた。

 こいつ私服は意外とかわいらしいもの着るんだった、などと失礼なことを思いながら手を振る。

 それを見て笑顔になって綾香が手を振り返す。

 ちなみに私は紺のスキニーに黒いパーカーといった陰キャ衣装である。


「よく来た!寒いから早く来て!」

「お邪魔しまーす」


 私が入ると綾香は勢いよく扉を閉める。

 廊下の先には綾香の母がいた。


「ほのかちゃんも忙しいのに綾香に付き合ってもらってごめんねー。今日は綾香とごはん行くんでしょう?お金は気にしなくていいからね」


 この母あってのこの娘である。

 綾香とは幼馴染なので、私も何度も彼女の母には世話になっているし、そのおかげでうちが貧乏なのも把握されている。

 それでも一言目にお金の話をするのはデリカシー的にどうなのだろうか。


「いえいえ、私も受験勉強のストレス発散できるのでありがたいですよ」


 お金のことは触れずに、とりあえずの社交辞令。

 

「もー、ほのかちゃんはほんといい子ねー。綾香も見習いなさい?」

「もぉーいつも一言多いのママは!ほらっ行こ、ほのか」


 綾香に手をつかまれ彼女の部屋に引きずられる。後方から綾香の母の「ゆっくりしていってねー」という声が聞こえたので、振り返って笑顔を頷いておいた。


「まー適当に座っててー」


 そう言うと綾香は私を残して部屋から出て行ってしまう。きっとお菓子でも取りに行ったのだろう。

 私は定位置である丸テーブルの前に座る。

 綾香の部屋は典型的な女の子の部屋といった様相だ。

 勉強机にベッド、桃色のカーペットとカーテン。枕元にはかわいらしい人形。端っこに置かれたバックは乱雑で、そこだけ散らかっているように見えるのは、綾香の性格を表しているよう。

 私の机と布団、後はちょっとした小物しかないような部屋とは対照的である。

 部屋を見まわしているとドアが開き、ジュースの入ったグラス二つと焼き菓子の載ったお盆を持った綾香が入ってきた。

 

「今日オレンジジュースだってー」

 

 お盆を丸テーブルの上に置きながら綾香が報告する。

 私の対面に綾香が座ったのを確認して私は話しかける。


「とりあえず、改めて合格おめでとう」

「ありがとー!いやまぁ余裕だと思ってたからな」


 調子がいい女である。照れ隠しのように頭を掻くのがいかにもそれっぽい。


「それはそうだけどね」

「あとはほのかだな!ま、余裕だろ!」

「余裕だと思いたいけどね」

「よゆーよゆー!あとは気持ちの問題!あ、てか溝口あいつ落ちてたかも」

「溝口君も第一受けてたの?」

「うん。でも第一でも偏差値高めの国際なんちゃらコースってとこ」

「あー、あそこだけ偏差値五十超えてるんだっけ?」

「そうそう。で、せんせーから合格証書もらった後に廊下で会ったんだけどさ。あいつ結果教えてくれなくて」

「……あー」


 溝口君は模試のクラス順位も最下位だったし、自他ともに認めるバカである。そんな彼だが無謀にも底辺校でも比較的いいとこに行こうとしたみたいだ。

 彼は自分の実力すら理解できないほどのバカということだろう。彼の模試の判定はE判定とかだったのではなかろうか。知らないけど。


「ま、当然っちゃ当然だよな。あいつ一個下の彼女と試験前日に遊び行ってたらしいし」

「へぇ溝口君って彼女いたんだ」

「うん。二年の吹部。こじんまりとしたかわいらしい子だよ。あいつには勿体ない」

「そうなんだね。でも前日は確かにどうなんだろ」

「だよなー、さすがに受験なめすぎだぜ」

「そういってる綾香は前日に勉強したのかしら?」

「するわけないだろ、名前書きゃ受かるんだから」


 そう言って綾香が大仰に笑う。

 ――彼氏か。

 真面目一辺倒だった私は、彼氏がいたことがない。っていうか丸眼鏡にどんよりした服装の女なんて好かれる要素がまずないのだけれど。

 ただそれとは別に、恋人なんて不純、不真面目。褒められる行為ではないという固定観念が私の中にあったのも原因だろう。

 母から褒められたい、愛されたい一心だった私には恋人なんてむしろ邪魔な要素だった。

 それはきっと今も変わらず、だからこそ私は恋愛に興味を持てなかったのだろう。

 だけど、心の中で私が私に問いかける。


 ――恋人からもらう愛と親からもらう愛ってそんなに違うものなのだろうか。


 一般的な話をすれば、それは全くの別物なのかもしれない。

 でも、その両方に同じ「愛」という名称が使われている。それなら間違いなく「愛」という共通概念を有しているわけであり、それが私の求めているものだとするならば……

 私は、母の愛にこだわる必要がなかったのではなかろうか?

 そんなこれまでの私を否定するような疑問がつい浮かんできてしまうのだ。

 もらえるならば、誰からの愛でもよかったのではなかろうか。誰からもらうかではなく、愛そのものが重要なのではないか。

 まぁ、それは私の欲しいもの、欲望の対象がただただ純粋な愛だった場合に限られると思う。でも、今の私にはそれを確かめる方法がないのだ。

 私の欲望が求めるのが「母の愛」なのか「対象を定めない愛」なのか今の私にはその違いを感じ取ることも説明することも出来ない。

 でも、どちらの方が簡単に得られそうかは、明白な違いがあるのではなかろうか。


「ねぇ、綾香は彼氏いたことあったっけ?」

「え?去年の夏にユウトと付き合ってた時くらいかな?なんでいきなり?」

「溝口君の話を聞いて、ちょっと気になったの」


 私がそう答えると、綾香は何かを思いついたかのように目を見開き、そして細める。


「ははーん、もしやほのか、恋愛に興味津々か―?」


 綾香はにやけながら私の頬をつついてくる。ちょっとうざったいからやめてほしい。


「……これまで全く経験してこなかったから、少しはね」

「照れちゃっても―、てかほのか彼氏いたことないの?」

「ないわよ。私に男っ気ないのは綾香もしってるでしょ?」

「まぁほのかに男友達が全然いないのは知ってるけどさ。でも告白とかはされたことあるでしょ?」

「いや、ないわよ」

「男に一緒に帰ろって言われたことは?」

「えー、たぶんなかったと思うけど……」


 合点がいかないというように腕を組んで思案する綾香。

 私はジュースを一口飲んでから、尋ねる。


「何かおかしい?」

「いやね、ほのかのこと好きーって男子、意外と多かった気がすんだよね。だからほのかに全くアプローチがなかったことがかなりびっくりというか……」


 それはたいそう予想外である。

 教室でも常に読書している、丸眼鏡の陰キャ女子を好む男がこの世にいたとは。


「でも全くなかったわよ」

「うーんおっかしいなぁ?」

「というか私にそんなに持てる要素無いでしょ」

「いや、それは違うね!ほのか自分ではわかってないかもだけど美人さんだよ!それに窓際の席で読書してる姿が窓際の令嬢みたいで美しいって言われてたし」

「え、誰がそんなことを」

「クラスの男子とかが言ってたよ」


 ド陰キャでも、雰囲気が合えばそれっぽく見えるということか。勉強になる。

 というかそのような好印象を抱いてくれている人間がいるならば、本当に母よりも簡単に愛を与えてくれる人がいるかもしれない。

 いや、窓際の令嬢とかいうくらいだから、私がそういうことを求めるのはイメージ違いかもしれない。そんなことをしたらはしたない女性だと思われかねない。

 

「んー、恋愛に興味持つのはよくわかるけど、もうすぐ卒業しちゃうわけだし高校で恋を探す方がいいかもね!」

「ん、綾香にしては珍しくまっとうなこと言うね」

「珍しくとはなんだ、珍しくとは!あやはいつもまっとうな人間ですが?!」


 抗議するかのように目じりを吊り上げる綾香。だがすぐににへらと笑って、


「でもあやはなんだか感慨深いよ。恋愛なんて道端の空き缶と一緒!みたいな顔で澄ましてたほのかがそんなこと言いだすなんて~」

「そんなつもりはなかったのだけど」

「いや~?どーでしょうねぇ?」


 あー、これは面倒くさいやつである。

 時折綾香が見せる、人の弱みを徹底的にいじるモードだ。

 この時の綾香の執着たるや、どれだけ話をずらしても効果はなく、いじり倒してくるのだ。厄介極まりない状況。もうなんか帰りたくなってきたな。

 とりあえず、無駄と分かっていても抵抗をしてみるとしよう。


「ところで綾香、もうそろそろいい時間じゃない?」

「んえ?ほのかもうおなか空いた?」

「んー、まぁちょっとだけ」

「そかそか。それならそろそろサイゼ行くとしますかね」


 そう言って立ち上がり、私の腕を引っ張る。

 その時見せた純粋な笑顔が私の陰を晴らしてくれるような気さえした。


 ――愛を与えてくれる人間が誰でもいいとするなら。

 それは母親でも恋人でもなく、単なる友人でもいいのではないのだろうか。

 特別な形を求めないただシンプルな愛ならば、誰からもらっても一緒なのではなかろうか。

 それならば、綾香が私に与えてくれればいいのに。


 いや、綾香が私に愛を与えるわけがない。彼女はただの友人であると断じて、希望もない誘惑を切り捨てる。

 母からの愛すらもらえない私が、方法すらわからない相手から愛をもらえるわけがないと、自分自身にそう言い聞かせた。

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