第2話
十二月十三日。にわかに冬が押し寄せて、体を軋ませる十三日の金曜日。
年が明ければ受験ももうすぐ、そんな時期なので私は自室にこもりきりで勉強をしていた。
このままいけば合格間違いなしだろうと担任からも判を押されてはいたが、ほかにやることもないわけで、最近の放課後はいつもこんな感じである。
多くのクラスメイトは塾に通っているが、もちろんうちにはそのようなお金はない。むしろ受験校の過去問を買ってくれただけでも感謝すべきだろう。
音楽も流さず過去問を解いていたところに、廊下からギシギシと足音を立てて部屋に近づいてくる音が聞こえてきた。
この時間なら母は寝ているはずだが。訝しみながらもペンを走らせる。
と、足音が部屋の前で止まる。コンコンと扉がノックされる。
「帆霞、ちょっといい?」
それは間違いなく母の声であった。母が私の部屋をノックすることなど、年に一度あるかないかである。何かがあったのだろうことは容易に想像できる。
「なに、お母さん?」
私が返事をすると、母は扉を開ける。
ぼさぼさの髪に、眠たそうな眼。母が寝起きであることは容易に想像できる。
「帆霞、明日おばあちゃんのところ行くよ」
母はいかにもめんどくさそうに、ポリポリと頭をかきながらそう告げる。
祖母のところに?例年祖母と会うのは年始だけだったのだが……大病でも患ったのだろうか。
だとすればそれは中々厄介な問題である。もしそんなことになったら、祖母の治療費はどこから出るのだろうか。それが私の学費から支払われるとすれば、私の進学は難しくなることは容易に想像できる。
自然に私は疑い深い表情になる。そんな私を母は変わらずめんどくさそうに見ている。
「なに、洋子おばさんが来てくれと言っていてね。なにやら大事な話があるそうだ。帆霞もつれてこいとは言われてないけど……お前も知っておいた方がいいだろうと思ってね」
洋子おばさんは母の姉で、医者の男と結婚した二児の母である。いかにも金持ちってオーラがあって、いけ好かないと感じているけど、ああなりたいなと感じる私の理想の将来像を体現する人物である。
幸せそうな家庭を築いていてとても羨ましい。それを思い出すと目の前の母に嫌悪が湧いてくるのだが、その感情がこの場において何の意味もないことは分かっているので、そっと胸の奥にしまい込む。
「はぁ……知っておくってなに。そんなに大事な話なの?」
「そう警戒すんな。お前は話聞いとくだけでいいから」
「んー……わかった。明日は空いてる」
私の返事を聞くと母は頷いて、
「んじゃ明日の朝に出るから準備しとけ。いや、日帰りだから特に準備はいらねぇか」
それだけ言うと母は扉を閉じて寝室に帰っていく。
「ったく。明日は打てないな」
そんなぼやきが廊下から聞こえてきた。
――あぁ、お願いだから私に不利益がありませんように。
――翌日、電車一本で一時間ほど。
私の住む町と比べると多少田舎寄りの住宅街。その中のアパートの一室が祖母の家である。
祖母宅に到着するまでの間、私はずっと音楽を聴いていたし、母はパチンコの本をずっと読んでいたので特に会話もなかった。
まぁ会話なんてしていることの方が珍しいから、そんなに気にすることでもない。というか何を話せばいいかわからないし。
築40年くらいの古びたアパートの三階。角部屋の前に立ちベルを鳴らす。
どたどたを足音が中から聞こえてきて、ギィと音を立てて玄関の扉が開かれる。
「よく来てくれたわね。あら?帆霞ちゃんも一緒だったの?」
出てきた人物は祖母ではなく洋子おばさんだった。
年相応にしわが出てきた顔はいつものようににこやかではなく、ちょっと引きっているように見えた。いつもならベージュ系で固めた小綺麗な服装とちょっと厚めのメイクから感じる、有閑マダムっぽい雰囲気もなかった。
「帆霞ももう高校生だからな」
「そう、それもそうかしらね。とりあえず入って」
促されるままに祖母宅に上がり込む。
居間では、だらしなく座り込んだ母が湯呑でお茶を飲んでいた。
彼女は私たちに気づくと、
「あら明日香、来てたのね。そっちの若い子は……はて、誰だったかしら?」
明日香というのは母の名前である。
いやでも分かる祖母のあからさまな嫌がらせにこわばりそうになる顔を笑顔に固定する。
私のことを忘れた振りだとか、わかりやすい嫌がらせにもほどがあるんじゃなかろうか。洋子おばさんには是非察してもらいたいものだが、期待するだけ無駄だろう。
「もう、お母さん。自分の孫の顔も忘れたの?」
洋子おばさんは苦笑を浮かべながら叔母にそう語りかける。それを聞いた叔母は分からないといったように首をかしげる。
年の割にあざとさのあるその行動が私のヘイトを買ったのは言うまでもない。
「まぁ二人とも座って頂戴。お茶でも入れてくるわね」
そう言ってキッチンへ入っていく洋子おばさんを見送りながら、私と母は叔母の対面に座る。
最後に祖母に会ったのが正月なので、ほぼ一年ぶりの邂逅である。相変わらずなんか抜けた顔でこちらを見てくるが、その顔を見ると嫌でも苦い記憶を思い出す。ろくに遺産も何もないわけだし、正直なことを言えばいなくなってくれた方が私には都合がいい。
母は何を言うでもなく腕を組んでただ祖母を見ていた。そこにどんな感情があるのかを推し量ることはできなかったけど、少なくとも嬉しそうな表情でないことは確かだ。
自然と発生した沈黙が居間に堆積していく。別に気まずいとかはないけど、何話せばいいかわからないし、そもそも祖母と話したくないし……
「三人ともお待たせ。帆霞ちゃんは熱いお茶大丈夫よね?」
目の前に今しがた注いできたであろうお茶を出しながら、洋子おばさんが尋ねてくる。
私がただ頷くと、彼女は「もう子供じゃないしねぇ」と作り笑いで言った。
まだ子ども扱いされているのか、それとも大人として見られているのかどちらとも取れない発言である。
二人分のお茶を出した洋子おばさんは祖母の隣に座る。彼女はお茶を一口飲んで息をつくと、その表情を引き締めた。
「明日香、帆霞ちゃん。今日は忙しい中わざわざ来てもらって悪かったわね」
「私はたまたま休みだったから問題ない。帆霞も土日は学校ないからな」
「あら、でも帆霞ちゃんも塾とかあるんじゃないの?」
「帆霞は優秀だからな。塾なんて行かなくても問題ないんだよ」
母のその言葉の真意が、行かせるような金なんてどこにもない。と、いうことは重々承知の上だったけど、それでも久しぶりに母に褒められた気がして私の口元は自然に緩む。
それを誤魔化すためにお茶を一口。
そんな程度のことで嬉しくなっていることが、私という存在を象徴的に表しているようで何とも言えない気分になった。
「それは親としてはうれしいでしょうね。……じゃあそろそろ本題なのだけど、今日来てもらったのはお母さんのことよ」
手を組んで、叔母を一瞥する洋子おばさん。その一瞬の視線からは普段はひた隠しにしている冷たさが垣間見えたように感じた。
「明日香もわかっているでしょうけれど、お母さん、かなり認知症が進行しているみたいなの。自分の孫の名前も忘れるほどにね」
――『認知症』
その言葉を聞いた瞬間、私の頭に衝撃が走った。
それまで考えもしなかった可能性を提示されて、私の思考は「祖母が認知症である」という仮説の検証に費やされる。
言われてみれば思い当たる節はある。洋子おばさんが言ったように私の名前を忘れているのは代表的な症状だろう。何度も私の小さいころの話を繰り返していたのは、嫌みでもなんでもなく話したことを覚えていなかっただけかもしれない。
年々私との会話が適当になっていたのは、私のことを蔑んでいたわけじゃなくてもう会話もできないレベルで耄碌していたということか。
状況証拠はいくつもあり、その事実に関しては疑いもないように感じた。
今まで私に対しての嫌がらせと思っていたものの中にも、認知症の症状があったのだろう。と言っても幼いころの暴言や虐待は明確な悪意のある行動だろうけど。
まぁこれまでの話を加味してみても、まだひとつだけ疑問に残る点がある。
――認知症にかかるには如何せん若すぎないだろうか?
祖母はまだ五十代。年金も受給されていない年齢である。
それに祖母はパートで働いているはずである。さすがにそんな人間が認知症にかかっているとはいささか考えにくい。
「いや、それにしては若すぎねぇか?」
母も考えることは同じようでそう指摘する。
「そうなのよ。……でも若年性って言うのかしら。若くてもなるときはなるらしいわよ。それに、これはお母さんのパートの方から聞いたんだけど、仕事中もぶつぶつ独り言つぶやいたり、ミスや遅刻がここ数年ですごく増えたらしくて……仕事に支障が出るレベルって相当じゃない?」
「姉さん、おかんのパートの人と交流あったんだな」
「たまたまね。その方から相談されたことで気づいたのよ」
「そういうことか。……おかん、あんた認知症らしいぞ」
母はそれまでまるで他人事のように沈黙を保っていた祖母に問いかける。
「そうらしいね。私としてはきちんと仕事も出来ていたと思ったのだけれど……遅刻もしていないし」
祖母の認知症であると感じさせない明瞭な回答に私は驚く。これだけきちんと会話できるなら、認知症にかかっているなどと夢にも思わないだろう。
ただ、私の名前を忘れていたことを加味すれば、仕事をきちんとできなかったことや遅刻したことを忘れている可能性もあるわけだ。
これが認知症の恐ろしいところ……ということだろうか。
ボケを感じさせない祖母の回答に、洋子おばさんは肩をすくめて、
「ほら、自分のしたことを覚えてないでしょう?」
そう言われても私たちには事実確認の方法がないのだけれど、そう言うならたぶんそうなのだろう。
祖母は悲しそうな顔でうつむいているが、仕方のないことだろう。
自覚症状がないとは、恐ろしいことである。
「それでね、これからが本題なのだけれど……ほら、認知症なのに一人で生活させておくのってやっぱり心配じゃない?だからお母さんには介護施設に行ってもらおうかと思っているの」
そう語る洋子おばさんからは祖母に対する心配の念が感じられる。
けれども、平然と本人の前で「介護施設に放り込む」ことを提案できるのは、なんというか冷酷に見える。
優しい態度で冷酷な行動をとるなんて、まるで詐欺師のようである。
「あーわかった。施設にぶち込むのにも金かかるだろ?それについての話ってことだな」
合点がいったと母がそう指摘する。そういうのはもうちょっとオブラートに包んで告げるべきではないだろうか。
まぁ母はそういうところ無神経なので仕方ないか。そこが嫌いなのだけれど。
洋子おばさんは苦い顔をしながらも、
「……話が早くて助かるわ」
「それで、いくら必要なんだ?言っとくが私はそんなに出せないぞ」
「わかってるわ。……そうね、確定ではないけれど今のところ月十万くらいかかりそうよ」
生々しいお金の話が始まる。
ぶっちゃけそこからは私にはあまり関わりのない話であり、私にはまだよくわからない話である。ゆえに私はただただ座って祖母を見るだけだった。
娘二人が自分を施設に入れるための話し合いを目の前でしているのを見る祖母は、一体何を感じているのだろうか。
なんというか、介護施設に入れるというのは優しさであるように見えてその実、自分では介護を行わずに、親とは距離をとるという冷たい対応であるように思う。
たぶん本来なら一緒に暮らすことを提案すべきなのだろう。そのうえで介護を行うのが、いちばんやさしい方法だと思う。だけどそれは介護という重い負担を背負うことになる。洋子おばさんはそれを拒否したわけだし、無論母も拒絶するだろう。
洋子おばさんは、祖母を放置することはせず、きちんとしたプロセスを経たうえで認知症という問題に対処しようとしている。それが放置することよりは優しい選択であるのは当然だろう。
ただ、それは祖母にとって最善でもない、中途半端に優しい手段である。その解決策をとられては、目の前の祖母の表情が沈んでいても何らおかしくはないだろう。つまり、今哀愁を漂わせる祖母の態度は当然の帰結である。
そんな分かり切ったことであるににもかかわらず、洋子おばさんはそれを指摘しない。
まるでそこにいないかのように、ただ淡々と「親を介護施設に入れる計画」を進めている。
それはまるで、義務をただ遂行しているように見える。親の世話をするべきであるという社会的義務。周りから非難されないためにそれをこなしているようにも感じられる。
――だとすれば、祖母は今、誰からも愛されていないのかもしれない。
義務感からのやさしさを与えられているだけで、そこに本来あるべき親愛があるように思えない。
無論母が祖母を愛しているとも考えづらい。きっと彼女が愛しているのはパチンコだけだ。
このまま施設に入れられてしまえば、祖母はそのまま誰にも愛されることもなく、段々と心身が老朽化して、死んでいくだろう。形式的な葬式だけが行われ、誰も彼女のために涙を流さない。
もう誰からも愛されず、朽ちるのを待つだけ。
祖母の状態はそう言えるのではなかろうか。とてもかわいそうな結末が待ち受けているのがとても不憫である。
……などと私が思っていたならば、祖母は少なくとも私からは愛されていただろう。
祖母の状況を推し量ったうえで、私の心理に浮かんでくるのは喜びと蔑みだった。
当然の報いである。私にしてきたことを思えば、むしろ天罰が軽いくらいではなかろうか。
そうやって祖母が終わっていくこと、もう私に祖母から厄災を与えられないこと、祖母が誰からももう愛されないこと、そのすべてが私に喜びを与えた。
――ざまぁみろ。
そう言って内心嘲笑う。
と同時に、こうはなりたくないとも思った。
こんな風に愛をもう与えられることもなく終わっていく人間は、世の中にごまんといるのだろうけれど私はそうはなりたくない。
誰かから愛されて死にたい。愛情を受けながら死にたい。
今はだれからも愛されていない私だけど、最後は誰かに愛されて終わりたい。
そんな思考がぐるぐる、ぐるぐると私の脳裏で回る。
やっぱり、それなら誰かに愛される方法を知るべきだよね。
でもどうやったら愛されるんだろう。やり方がまったくもってわかりやしない。
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