34話 行くから来るな

 もうすぐ日の出だ。シィ・ホープセルはたった一人、拠点の入り口に佇んでいる。少し前から降りだした雪が頭に柔らかく積り、それを払いもせずに遠くを眺めていた。矢倉で見張りをする軍人たちは彼女のすることに文句も言わず、ただこの幻想的な儚さを携えた少女にうっとりとしていた。


「なにやってんだろ、私」


 好との電話を終えてからどうも様子のおかしい彼女、それは暗鬱としている以前の不調ではなく、浮き足だち弾むような、まるで誰かと待ち合わせでもしている心地だった。


「おーい! シィ!」


 声の主はエリザベス・シルヴァ・オルカ少佐だ。中隊長の彼女にある連絡が届いたのだ。


「どうしたんですか?」


 心のどこかで、配置変更や戦力補充を望んでいた。自分が南部へ、南部からエコーズが、そういう夢想に取りつかれた。

 オルカはよほど急いでいたのか、この寒さにも分厚いジャケットのボタンもとめていなかった。


「進軍するとロードレッド中将から達しがあった。きみも用意をしてくれ」

「……はい」


 そう。北部での戦闘に勝利し、そちらでの進軍の用意をしている以上、南部と中央にもはや遅滞する理由はない。総力戦までの時間は着々と刻まれているのだ。


「どこまで進むんですか」

「二十キロ前進する。そこが大きな拠点の最後になる」


 そこからウィトベイクは目と鼻の先、野戦の後、攻城となる。


「トリオポ。我々はそこで雌雄を決する」


 オルカは寒さを感じていない。身体中を流れる煮える血液のせいで暑いくらいだった。


「それと、シャロット小隊から応援が来るんだが」

「誰!」


 期待と興奮で彩られた青い瞳を輝かせて叫んだ。

 オルカはこの反応を予期していただけにいたって落ち着いていた。


「テナーだよ。背が低くて、元気なあいつだ。ほら、シィさぁんってくっついていたじゃないか」


 オルカのモノマネは多少気色悪い部分があったが、シィの関心はそこではない。しかし落ち込んでもいられないと鼓舞しはにかんだ。


「ああ、あの子ですか。可愛いし、また賑やかになりますね」

「だろうな。さあ、部屋に戻って用意をしてくれ。テナーが到着し次第出発する」

「はーい」


 明るい声音に隠された悲痛さをオルカは感じずにはいられない。隣に並んで戻ろうとすると、ちょうどガトーテックが走ってきた。


「あ! 少佐、大変です!」

「へ? な、なんだ」


 空気を切り裂く高音と大地を揺るがす重低音、頭に乗った雪がパラパラと落ちた。


「おい! 不審なギフターが接近中! 警報はなぜ鳴らん……オルカ少佐!」

「へ? わ、なんだなんだ」


 それらはほとんど同時だった。ガトーテックも警備兵も、無意識に指を指している。目を向けると雪原に豆粒ほどの影。


「テナーの護衛に……」

「真っ黒なユニット……あれは……!」

「うそ……」


 嘶き高く、蹄を鳴らし、現れたるは人馬一匹その姿、どんどん大きく、ますます鮮明に、少女の心を震わせる。


「……ベルのやつ……おかしいと思ったんだ」


 警報は鳴らない。ただこれが誰の到着かはわかった。だから出てくる者もいない。警備兵は矢倉の上から敬礼した。いつかヨーディにいた兵士の一人だった。


「護衛に一人……エコーズから出すとのことです!」


 辛抱などできるはずもない。シィは走った。途中で何度もつまずいて、頬は寒さに赤く染まる。だがこれが寒冷地の常、それだけにとどまるものではないことを、彼女も、またオルカたちも知っていた。


 ユニットが解除され、二人は走った。拠点から一キロのところまでシィは出迎えに走った。

 ようやく。ようやく会えた。触れられる。抱き合える。シィは半ば暴走した頭を落ち着かせることなく、走った。

 すると、一方は立ち止まる。片手を前に出し、まるでそれ以上は来るなと言わんばかりである。もう数メートルの距離まで近づいた頃だった。


「…………好?」


 待人は軽く俯き、その表情を読ませない。前に出した腕だけが、拒絶の証明がシィから最も近い彼女だった。


「来るなよ」


 その言葉だけで心が壊れそうだった。膝をつき、溢れる涙が雪を溶かす。怒りなど湧いてこない。目の前の彼女は一体誰なのだ。

 その正体不明の女は平然と、片手でポケットをまさぐり、片手で火をつける。

 手を出したまま、紫煙を散らし、距離を詰める。


「私が行くんだ。お前からじゃない。私がそっちに行く」

「……好」


 ブーツが雪を踏む。膝をつくシィに、拒絶の腕が差し出された。

 一方の手で煙草を摘み、会心の、シィだけが知る笑みを浮かべた。


「こいつがなけりゃあ、いつもの私じゃねえだろう?」

「馬鹿!」


 跳ね起き、首に手を回した。抱きつき雪上二人は重なり、上から嗚咽を下には冷気を、煙は真上に昇っていく。


「馬鹿! 馬鹿! なんで、もっと、もっと普通に会いに来てよ! 私、本気で悲しかったんだから!」


 喉の奥で笑う好、胸の揺れがシィに伝わり、いよいよ抱きすくめる腕に力が入る。


「熱烈だぁね」

「馬鹿!」


 煙草を放り捨て背を撫でた。しゃくりあげるのをなだめ、文句を愛しんだ。


「……寂しかった?」


 好は素っ気なく言った。空いている手で煙草を口に含む。


「……うん」

「電話、怒ったか?」

「……うん」


 火をつける。ああと声を出しながら煙を吐いた。

 二人は起き上がり、雪まみれの姿を笑いあう。確執などどこにもなかった。


「好はどうなの」


 拠点までの道のりは遠いようで近い。シィは好の手を自分のポケットに入れて歩いた。


「どうだと思う?」

「……なんとも思ってないんでしょ?」

「あはは、正解だ」


 ではどうしてここまで来たのか。そんなことを突っ込むシィではなかった。


「やあエリー……オルカ少佐。おはよう」


 形だけでもと好はシィポケットから手を抜いて敬礼した。シィは残念そうだった。


「おはよう好。急いだか?」

「全然」

「テナーは?」

「え? なんでテナー? 来るの?」


 頓狂さは真実で、好が出ていった後に仕組まれたものだった。

 オルカは眉間を揉んでやられたと呟く。


「……あいつは本当に……」

「よくわからないけど、まあいいじゃん。あ、シィ。コーヒー淹れてくれよ。軍の粗悪品を」

「う、うん……」


 もう一時でも離れたくないのだろう、曖昧に頷き、しかしすっと後退り。


「私は少佐と話があるから、先に行っててくれ。あのプレハブだろ?」


 指差して、好はシィを急かした。


「そうだけど、早く来てね……冷めるといけないでしょ」


 足早にシィは戻っていった。話とはなんなのか、オルカもガトーテックも知らないことだ。


「やあゼノ。調子はどう」

「好調です。さっきもあなたのいう不味いコーヒーをおかわりしました」


 不味いとは言っていないが、それは共通認識である。


「素晴らしい。オルカも楽だろう、優秀な副官がいて」

「ああ。することがなくて困るくらい……いや、そうじゃないだろ。せっかくだからシィともっといてやれ。話はいつでもいいし、それとも緊急か?」


 好は首をかしげた。


「話なんかないさ」

「……何を言っているのかわからないのだが、なかったら早くシィのところへ」


 オルカを遮るように好はウインクをして、ネクタイをほどいた。一本の紐となったネクタイを首にかけ、ジャケットのボタンも引きちぎった。


「おっと、困ったな。ドレスコードしなくちゃあ恥ずかしい。ちょっと直してくるよ」


 それでわかった。こいつはこれのためにここまで来たのだと。


「……厄介なやつめ。ゆっくり直してこい」


 苦笑してオルカはしっしと手を振った。


「私、裁縫上手ですけど」


「ガトーテック大尉のお手を煩わせるほどのことじゃない。幸運なことに、面倒見のいいやつがいるもんで」


 揺れる煙の向かう先、まだ温かいコーヒーが待つ方へ。


「へえ。ネクタイが結べない人、いるんですね」

「ああ。ここに来るとき誰にやってもらったのか知らないが、結び目正しく綺麗なものだったがな」

「そうですね。ベルに一報入れますか?」

「……いらない。それよりテナーは?」

「あと一時間ほどで」

「護衛の意味がないじゃないか」

「嘘吐きの言うことですから」

「はぁ……戦力比を均等にしたいからエコーズを分けたのに」

「北部のミスリスたちがここに立ち寄るはずなので、その時に一緒に帰るそうです。もちろんテナーも」

「まだ到着もしてないのに。それは誰が言ったんだ」

「シャロット小隊の」

「ああ、もういい。出発の準備だけは」

「ギフターたちは完了しています。全体の配備が済み次第、いつでも」


 優雅に一礼、ゼノ・ガトーテック大尉は上目遣いにオルカを見た。


「……それじゃあ大きくかまえていようかなぁ!」

「それでこそ」

 こいつとルカ、どっちがましだろう。胃の痛みを覚えるが読みかけの雑誌に気がついて、結局はうやむやに収めたオルカだった。

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