24 犬のように
「あ、すいません! 考え事を……!」
「こちらこそすまない。でも、気をつけないと危ないな」
体勢を崩したシィを空軍中尉サラ・アビゲイルがにこやかに受け止めた。
「あ、中尉…‥」
「どうかしたのか? 元気がないように見える」
「ううん、なんでもない。ぶつかっちゃってごめん」
ふらりとすり抜けるその腕をアビゲイルは掴まずにいられなかった。それほどに普段の彼女とは違っていたのだ。
「その先に空軍の部屋がある。私はきみの話を聞かなくてはならない。これは友人としてのお願いだ」
強制力のある言葉だった。もしよければ、などと言えばシィは断るに決まっている。それではこの泣きべそをかいた戦友が悲しみの深みへ落ちるのを黙って眺めているに等しいのだ。
「……本当に大丈夫だから」
「シィ!」
「……私、どうしたんだろうね。たいしたことないのに、あんなの。笑い飛ばして、それでお終いなのに」
アビゲイルは唇を噛み、強引にシィを連れて彼女の執務室へと入った。
整頓されすっきりとした部屋。そもそも物が少ないせいもあるが広く感じる。
「酒はやめておこうか。コーヒーでも淹れよう。ココアもあるけど」
「どっちでもいい」
「そうか。じゃあココアにしよう。クリスが好きでな。水筒にまで入れて飲んでいたことがあるんだ。余計に喉が渇くだろうに」
アビゲイルの軽い調子にもシィはうつむいたままだ。小さなストーブで湯を沸かしているのは加湿のためだろう、それとは別のポットでココアを作った。
「シィ、まずは無理に連れてきたことを謝ろう。でも、きみの様子は明らかにおかしい。戦闘に影響が出るという可能性を否定するのは難しい」
そしてなにより。アビゲイルは続ける。
「私の精神衛生上よくない。私はきみの友人でありつもりだ。これは一方的なものかい?」
「違うわ。でも」
「ならば……いや、言いたくないこともあるだろう。そこを掘り起こすつもりじゃないんだ。お節介かもしれないが、ちょっと心配だったんだ。鏡を見てはいけないほど、ひどい顔をしているから」
「……ごめんなさい」
「謝ることはないよ。とりあえず落ち着くまでいなさい」
それからアビゲイルは他愛のない話を少しずつし始めた。くだらない馬鹿話がシィには嬉しかった。しかしココアの白い湯気が思い出させる今朝の新聞、見かねたアビゲイルは「よければ何があったか聞かせてくれないか」と問う。
「ここには私たちだけしかいない。他の連中は野暮用でしばらく戻ってこない」
そして一度席をはずし、ドアに会議中の札を引っかけた。
「これで邪魔もない」
「サラ……ありがとう。でも、本当にたいしたことじゃないのよ」
「……きみは頑固だな。プロフィールに書いてもらわないと」
「ふふ、あなただってお人好しじゃない」
「そうだな。お人好しだし、ついでにしつこいぞ」
笑いあって、シィは観念した。彼女の愚直な好意に負けたのだ。それに吐き出したくもあった。心の暗雲は、おそらく勝手に晴れることはないとわかっていたから。
「……リーシアの新聞、読んだ?」
「ああ。敗戦が続いていると、やつらにしては珍しく正直だったな」
「あのね、ギフターのインタヴューがあったの。ミレイ・ニキータってギフター」
「ああ。読んだよ。素晴らしい宣戦布告だったな」
「好がやったの。多分ね」
「……へえ。それは、凄い」
半信半疑なアビゲイルだったが、シィの言葉を遮るわけにもいかず、とりあえずは肯定した。
「前にもニキータさんと闘って、同じようなインタヴューの記事があったの。それで、好に聞いたんだ。どうして殺さなかったのかって」
好は殺すことを躊躇わない。ニキータのことは特例だった。それが二度も続いた。
「いいギフターだからだって。だから助けたって言ったの」
「……いいギフター、か」
「私にはそんこと言ったことないのに。それで今回もまた助けた。彼女がいいギフターだから。そう考えると、なんだか……胸が痛くなって、敵なのにどうしてそんなことするのかって。どうしてそんなこと言うのって……」
シィは泣き笑いして、零れる涙も拭わずに、アビゲイルの向う側、どこともなく誰かの面影を見つめた。
「会えなかった時もあるのよ……。もっと離れていた期間もある。あの子が誰かを褒めるなんて、エコーズ以外じゃほとんどなかった。それなのに最近は……。私のことなんか、どうでもいいんじゃないかって」
アビゲイルは好のことをよく知らない。だが二人の関係性をただの友人とは見ていなかった。どちらも互いを理解しあって、認めている。共有している情でもって秘密の空間を造り上げているとすら感じていた。
喜怒哀楽はその空間にしまって、そのくせ愛憎は自分一人のものとする不器用な関係性、とまでは見抜けなかったが、それでも信頼しあっているのはわかっていた。
「どうでもいいなんてことは、ないと思うがね」
シィの瞳は涙に濡れながら非難するものに変わった。
「きみはよく彼女のことを、春川のことを聞かせてくれる。数えているわけではないが、日に一度はね」
「……私は、ね」
「その内容は大体似たようなものなんだ。横着して私に面倒を押し付けるとか、言伝を頼むとか」
「きっと、私のことなんかお手伝いさんとしか思ってないのよ」
重症だ。アビゲイルは根気よく、宥めながらシィに向き合った。
「考えてごらん。それらは……いわゆる甘えというやつだ。犬を飼ったことはあるかい? 彼らは主人の気を引くために時にはいたずらもする。行動理由としては同じだ。単純にきみの気を引きたいのさ」
「そんなこと……」
心当たりのあるような、ないような。
周囲の者は誰も触れてこなかった。エコーもミラーもそれなりに察していたし、アークにいたってはあえて黙っている。他も似たり寄ったりで、あいつらはああだから、と放っておいた。
だからシィとしてはアプローチがあっても「素直だな」とか「珍しい」とか、果ては「成長した」といった、それこそ飼い犬のように眺めていたくらいだ。
「きみが言っていた、ほら、ネクタイの件がまさに好例だ」
好がネクタイを締めろとせがんでくる。その話をシィは年の離れた妹を紹介するような感覚でもって人を問わず話していた。
「でも、本当にできないかも……」
「一人で外せるのに、外してくれとは頼まない!」
段々とイライラしてきたアビゲイル。なんのことはない、シィこそ好がかまってくれないものだから、拗ねているのだ。それで寂しくなって、小さなきっかけで爆発したのだ。
「今から通信室に行こう。それで解決すると約束してもいい」
「え、ちょっと……わ! 待ってよサラ、引っ張らないで!」
慌てて眼を擦るシィ、アビゲイルはぐんぐん歩く。通りすがりの軍人たちは何事かと見守るが、憧れのシィ・ホープセルと銀鷹サラ・アビゲイルが一緒にいるものだから、眼福と喜んだ。
「失礼します!」
「声が大きいってばぁ!」
眼を丸くする技術兵、オルカの粘着性のある嫌味はまだ続いていた。
「あ、シィ。どうした? 突然走ったから驚いたよ」
「オルカ少佐がいるのであれば話が早い。南部へと電話をしたいのですがよろしいでしょうか」
それはもう裂帛の気合いがこもっていた。技術兵に目配せすると、彼らはすぐに退出した。仕事放棄など普段はするはずものない彼らだが、とんでもない喧嘩の前触れのような気配を察知したのだろう、シィにはなんとなく元気がないし、ここまでの鋭さを持ったアビゲイルを見たことがなかったのだから。
「南部? どうして……ああ、シィだね。いいとも」
「な、なんで私だといいんですか?」
オルカは気楽そうにしながら受話器を手で遊ばせた。
「さっき言ったじゃないか。ルカに注意してくれって。それで来たんだろう? 私が頼んだのに、私が断ったらおかしいじゃないか」
「……シィ、逃げてはいけないね。オルカ少佐にもそうやって言われているのだから」
「……うん、わかった」
「ベル、いいな。勝手な行動は慎め。それでもしてしまったら報告しろ。新聞で事後報告など許さんぞ。エメルにも伝えろよ。以上」
オルカは乱暴に受話器を置いた。ただあくまでもポーズであって、その表示は柔らかい。
「困った連中だ。……私も出ていった方がいいかい?」
「……いえ、そんなことは……あの、ありがとうございます少佐も、中尉も」
エコーズで使用される専用ダイヤル。コール三回、懐かしい声がした。
「シィか?」
リーシアに来てからはアークを交えての通信会話が一度あっただけで、二人きりというにはなかった。私的な会話が何度もできるような雰囲気ではなかった。
「……そう、だけど」
二人の黙ったままの電話、開口一番叱り飛ばすと思っていたオルカだったから不思議そうに、隣に腰かけるアビゲイルへ小声で言った。
「何かあったのか?」
アビゲイルははにかむしかない。
「ええ、まあ。どうも……すれ違いといいますか」
オルカは薄く笑って足を組んだ。
「宴会のネタにはなるかい」
「エコーズの火薬庫で火遊びを? あの銃口に見つめられたら、さすがの私も平常ではいられません」
無言を破ったらのは好だった。
「おーい、どうした?」
「どうって……あのさ、新聞の」
「読んだか! あいつまた来たぜ。死ななきゃ勝ちだとよ、やっぱりあいつ」
「待って。その先は……言わないで」
「え? なんで」
「聞きたくないの。好、だってあの人は敵じゃない」
沈鬱な声音、好の表情は怪訝そのものだ。シィの背後にいる二人も雲行きを案じている。
「敵、か。そうだな」
「そうよ。それなのにどうして」
ミレイにかけられる言葉。本来その評価を受けるべきは。シィがその実力を有しているかどうかではなく、ただ一言、自分にかけて欲しかっただけ。しかしそう伝えることはできなかった。あまりにも厚顔無恥であり、なによりもそういう関係性ではなかったのだ。そんな言葉など無意味なほどに時間を共有しているのだから。
だからこそ、とるに足りない言葉だからこそ、誰かに与えられるのは悔しかった。
「よう、シィ・ホープセル。私は誰だ?」
「……好でしょ」
「そう。私がどんなやつかお前はよく知っていると思う」
「ひねくれもの。空気が読めない。芋が好き。変なやつ」
「ははは、そう。私は私の通りのことしかしない。正直に生きているんだ。ひねくれながらね」
心底楽しそうな好。シィの知っている彼女だった。それが辛かった。こんなときくらい、真剣に語り合いたかった。
「その私が、だぜ。他人を褒めているんだ。お前以外をな。そうだ、銀鷹に伝えてくれ。早く遊びたいって。それにエリーともワルツがしたいな。バックにオーケストラを並べてさ。イントロはマリンバ、滑り込んでくる絃楽器ども。素敵だね」
「ふざけないで!」
オルカもアビゲイルも険しい顔つきなった。好の声は大きく、シィの不快感に理解を示さずにはいられない。事情のわからないオルカでさえ、好の不真面目な態度に舌打ちをする。
無論南部の通信室でも同様だった。説教から解放されたシャロットと、様子を見に来ていたヒューゴも、好に対する評価を改めようとしていた。壊れたユニットは最優先で修理させ、当の本人はあっけらかんとしていることもさることながら、性格だと許していたが、この受け答えはそれほどに不愉快だった。絶叫するシィに同情もした。
「ふざけてなんかいない。私はお前だけを褒めていない。それは事実だし、これからも多分そうなることはない。求めるなよ、そんなこと」
「……そんなことって、私にとっては」
「シィ・ホープセル。お前は称賛が欲しいわけじゃねえだろう。本当はそんなもんいらねえんだよ。いいか、よく聞けよ糞ったれ。私が褒めないのはお前だけ。手柄を自慢するのも、机作業も、料理も掃除もお前にだけ押し付けてんだ。その意味がわかるか?」
「わからないわよ、馬鹿! そんなの誰にだってできるじゃない! 他の……他の人に頼めばいいじゃない! あなたが褒めるいい人に! もう知らない!」
受話器を叩きつけシィは部屋を飛び出した。オルカもアビゲイルも止めはしなかった。
「あのシィが……なんというか、派手だな」
「まだ陣地の構築まで日数がかかるとのことですが、それまでに立ち直れるでしょうか」
「困ったな。後で見舞いに行ってみるか……無駄だろうけど」
「しかし、春川のやつ、もっと素直になればいいものを」
「アビゲイル中尉、他言無用だぞ」
「無論です。ああ、まったく面倒になりましたね」
そして南側、交換手も含めた全員が、好の態度に不満を持った。
「あれはないよ、好。シィが可哀想だ」
「ひねくれているというか、もはや人の心を失った怪物ですね」
「ベル、説教されるのはお前の専売特許だろ。エメル、怪物はひどいぜ」
「わざと逆なでしてどうするのよ。心配して連絡してくれたのに」
「わざとってわかるんなら、ベル、お前も怪物だ」
「ベル隊長もちょっと歪んだところありますからね」
「聞き捨てならないわね、エメル。あなたが飲み過ぎて盛大にトイレを汚した時、掃除を手伝ったのは誰かしら?」
「そういうところですよ」
「まったくだ。意地悪な隊長さんだ」
「違うでしょ!」
オルカたちとは対照的な、のんきな風の吹く南部戦地だった。
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