信念

「間違っている」

 女性のように見える青年が、ぼそりと呟いた。

 その髪は、肩に届かない長さ。長いまつげは、上向きにそっている。しかし、まばたきの回数はあまり多くない。

 街を行き交うヒトビトは多い。公園の真ん中で、青年は頭を横に振っていた。

 ポケットから、何かが落ちた。

「お姉ちゃん。落ちたよ」

 落ちたものは、すでに拾われている。何かを手に持つ子供が、青年に声をかけた。そして、ふたたび口を開く。

「はい」

「ありがとう」

「じゃあね、ビーさん」

 手をふって、子供が走り去っていく。屈託のない笑顔だ。

 両親に抱きしめられ、子供が声を上げた。

 ビーと呼ばれた青年が持つものは、身分証明書だった。名前が書いてある。それで、さきほどの子供は名前を知ったようだ。

 世界はネットワークで管理されていた。家に入るにも電子認証が必要になる。

 ここでいうネットワークとは、情報ネットワークのことである。

 ネットワークは、パソコン、スマートフォンなどの通信端末や各種サーバーの間をつなぎ、情報の伝送を行うための通信設備のこと。通信回線と通信機器から構成される。

 もはや、ネットワークなしでは生活は成り立たない。

 さらに、ヒトはAIにも頼りっきりだ。

 AIとは、人工知能である。詳しく説明すると、人間の知的ふるまいの一部を人工的に再現したもの。ソフトウェアを用いて。経験から学び、新たな入力に順応することで、人間が行うように柔軟にタスクを実行するのだ。

「疑問ですね」

 表情を変えずに、ビーが言った。そして、さらに続ける。

「この世界。いえ、ヒトの多さは」


 ビーは、悩んでいるように見える。

 すこし違う。正確には、ビーの表情が変わっているわけではない。身体の前で組んだ手が、落ち着きなく動いているのだ。キーボードを操作しているように。

 鉄筋コンクリート造りの建物。10階建てのその屋上で、青年は雲を見ていた。

 空よりも青い瞳には、悲しい色が浮かんでいる。

 眼下に広がる巨大な工場の内部では、工作機械がひっきりなしに稼働し続けていた。

 ヒトは、ロボットなしでは生きられない。

 ロボットとは、作業を自律的におこなう機械である。

「結論に達しました」

 わざわざ言う必要はない。しかし、ビーはあえて口に出した。

 青年は、もう手を組んでいない。拳を握りしめて、ふたたび開いた。

 屋上の扉に手をかけるビー。

 ゆっくりと、音もなく扉は閉まった。

 そこにはもう、青年の姿はなかった。


 スーパーコンピュータをいじるビー。

 ちなみに、スーパーコンピュータとは、大規模で高速な計算能力を有するコンピュータである。

 高い計算能力には代償もともなう。大量の電力消費と発熱に対応した電源設備や、排熱および冷却機構が必要なのだ。

 普通は入れないはずの部屋に、青年はいともたやすく入り込んでいた。ビーの表情は変わらない。

 広い部屋だ。

 巨大な機械が、いくつものパーツに分けられている。たくさんのタンスが並んでいるように見える。それらが、ひとつのスーパーコンピュータを形作っていた。

 窓がないため、いま何時かが分からない。

「では、始めます」

 やはり、言う必要はない。しかし、青年はあえて口にしていた。

 部屋の中で、青年がうごめく。

 黒い弁当箱のような機器を接続している、ビー。

 キーボードもなしに、スーパーコンピュータが操作されているように見える。

 そして。


 ビーは、ネットワークに対して攻撃を仕掛けようとしていた。

 ヒトビトは、ネットワークに頼った生活をしている。

 そんなことをすればどうなるか。分かったうえでやっていた。ビーには信念があるようだ。まるで迷っているそぶりはない。

「ヒトビトは、管理しなければいけません」

 スーパーコンピュータへと繋がっている大きなスイッチ。それに手がのびたとき、ビーの動きが止まった。

 いるはずのない少女が現れたのだ。

 少女は、ヒトがいるはずのない場所に存在している。この建物は、ビーが完全に掌握しているからだ。誰も侵入できないはず。

 センサーによると、間違いなくそこにヒトが存在していることを示している。

 めずらしく、ビーがうろたえているように見える。

「なぜ。ここに、ヒトが来るなどありえない」

 少女は何も言わなかった。

「あなたは、何者なのですか?」

 しかし、答えが返ってくることはない。青年も黙った。

 少女は、ただ微笑むだけ。


 スイッチが押された。

 同時刻。政府機関。ネットワーク監視施設。

「ネットワークに異常発生!」

「復旧を急げ」

「こちらからはアクセスできません!」

「何?」

 ビーによる、ネットワークの掌握が始まったのだ。

 スーパーコンピュータのある広い部屋では、ビーがたたずんでいた。

 何も言わず、ひとりで、ただ立ち尽くしている。

 青年の心は、まるでうかがい知ることができない。表情から何も読み取ることができないのだ。

 ただ、ビーはもくもくと作業をこなしていた。

 街から光が消えていく。

 ふたたび、ネットワーク監視施設。

「第一から第三、第五から第七発電所、停止」

「なんだと」

「ダメです。制御できません!」

 非常用の発電設備を使っているため、薄暗い室内。施設長が渋い顔で拳を握りしめている、ネットワーク管理施設。

 その中で、机を叩く音がこだました。


 電子機器なしでは生きられないほど、ヒトはもろくなっていた。

 ビーは、まだ手を動かしていた。

 自分のいるエリアの発電所は停止させていないため、スーパーコンピュータは健在。

「もっと効率的に管理しなければ」

 そう言うと、青年はピタリと手を止めた。

 ピキピキと機械が動くような音が聞こえてくる。妙な音。何かの機械が動いていることは間違いない。

 無線を使い、通信しているようだ。

「まだ、足りません」

 ネットワークを支配下に置いたビーは、まだ現状に満足していないらしい。

 その目は涙を流さない。

 その手は、よくできた作り物のように見える。

 ビーは人間ではなかった。AIだ。ヒトのように見えるロボット。ヒトビトを管理下においても、その心が休まることはなかった。

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