ショートショート C

多田七究

完全

 遺伝子組み換え技術。

 それは、生物に全く新しい性質を与える驚異の技である。

 DNAが生物を形作っている。

 DNAとは遺伝情報の物質的な実体で、細胞内の核に多く含まれている分子。デオキシリボ核酸の略称なのだ。

「これでどうだ。いや、別の問題が――」

 白衣の青年が頭をかいた。ここは、研究室の一角。辺りには電子顕微鏡やフラスコなど、さまざまな実験器具がならんでいる。

「ジェイ。もう遅い。帰る時間だぞ」

 同僚に言われ、窓の外を見るジェイ。青年の目には、真っ暗な景色が映っていた。

「……」

 無言のまま、ジェイが片付けを始めた。それを、白衣の中年男性が見つめている。自分はとっくに支度ができているというのに、青年を待っているようだ。

 何も話さず、二人は部屋を出ていった。あかりが消える。


 自室に戻ったジェイは、まだ考え込んでいた。

「バッタの特性を。ダメだ。完璧とはほど遠い。なら、コウモリはどうか?」

 灰色の無機質な部屋で、ぶつぶつとひとり言をつぶやき続ける青年。

 それを、誰も見ていなかった。

「ゲノムそのものより、やはり遺伝子を――」

 ゲノムは、生物の細胞に含まれる全てのDNAを指す。

 遺伝子はゲノムの一部分で、生体を形作るタンパク質の設計図になっている箇所を指す。

 刻々と時間だけが過ぎていく。

 ジェイは、あらかじめ買っておいたもので食事を済ませた。少々遅い夕食だ。味気ないように見え、量もすくなかった。

「どうすれば完全な人間ができるんだ」

 ぐうぜん漏れたようなかすれた声を、やはり誰も聞いていない。

 聡明で、容姿も“悪くない”と言われることが多いジェイ。しかし、彼は一人だった。いつだって。

 壁に掛けられた時計の針の音が、むなしく響いていた。


「おい。もう昼だぞ」

 同僚の言葉など聞こえていないかのように、ジェイは顕微鏡をのぞいたまま。

 静けさが広がる研究室に、鼻息がひびいた。

「ああっ!」

「どうした」

 苛立ちを隠せない叫びに、同僚が反応した。本気で心配しているようだ。

「なんでもない。メシにするか」

「おい。待てよ」

 ジェイは、同僚のことなど眼中にないらしい。一人でさっさと先に行ってしまう。

 白衣の中年男性は、やれやれといった様子で静かに息をはき出した。おちつきはらい、歩いて後を追う。

 外に行かなければ、ここには食事をする場所はひとつしかない。

 食堂だ。

 一言も発しないまま、向かい合って座る二人。すでに、メニューを選んでお金も払っている。もっと言えば、お盆に乗せた料理を持っていた。

 白い机の上に、二種類のお盆が置かれている。

「……」

「こんなときにも考え事か。楽しく食べないと栄養の吸収率が悪いぞ」

 いかにも研究者といった感じの同僚の言葉に、ジェイは反応しなかった。

 苦笑いをする同僚。懐から写真を取り出し、眺めた。すこしやさしい笑顔になる。そして、すぐにしまった。

「何が足りないんだ」

 空になった食器を乗せたお盆を、カウンターへ持っていくジェイ。同僚も続く。

 まだぶつぶつと独り言を放ち続けるジェイに、同僚が言葉を投げかける。

「歯磨き、忘れるなよ」


 ジェイの実験は失敗続き。

 まるで、先の見えない迷路に迷い込んだかのようだ。

 実験にうまくいく保証はない。とはいえ、お先真っ暗ともいえるような状態だった。

 青年は、唇をかんだ。

「残された時間はすくないっていうのに、こんな事じゃぁっ!」

 いまにも暴れ出しそうなジェイを見かねて、同僚が慌てている。

「まあ、落ち着けよ。イライラしても何も変わらないぞ」

「何を! でも。いや、確かに」

 ジェイは、同僚の言葉で落ち着きを取り戻しつつあるようだ。

「ふぅ」

 両手で白衣の乱れを直す中年男性。

 若い男は、天を仰いでいた。

 ジェイが苛立っているのには理由がある。残された時間、それは溶けるろうそくのようなもの。早く実験を成功させないと、世界が滅んでしまうのだ。

 少子化。高齢化。人口爆発。食糧問題。

 さまざまな要因が重なって、世界は危機に瀕していた。

 問題を解決するためには、これまでにない抜本的な解決策を講じるしかない。

 現状のままでは、滅びは免れないのだ。

「黙って見ていることしかできないなんて」

 ジェイは、焦っていた。


 いつものように、白い部屋。白い服。

 席を外した同僚のことなど気にしていないジェイが、一人で黙々と作業をしている。

 ふと、奇妙なことに気づいた様子のジェイ。

 おそるおそる。そう、怖いもの見たさを隠し切れない様子で、眉間にシワをよせる青年。ジェイは、部屋の隅を見た。

 そこには、いるはずのないものがいた。

 少女だ。髪が肩よりも長い。

「……」

 ジェイは、何も言わなかった。部外者は出ていけ、と、普段なら吠えるはずなのに。

 目が合ったように見える。

 少女は、何も言わなかった。

「そうか!」

 突如、ジェイが大声を出した。

 机に向かって、何かぶつぶつと呟きながらノートにペンをはしらせている。

「特定のひとつにこだわっていたからいけなかったのか。あれとこれ、さらに――」

 研究室に戻ってきた同僚は、面食らっているようだ。

 驚いたような表情の同僚が、口元に力を入れる。ゆっくりと息をはき出した。

「よかったな」


 遺伝子操作が始まった。

 いきなり人間を対象にするわけにはいかない。まずは、ブタを使っていた。

「これで、完成なのか?」

「いや、まだだ」

「というと?」

「ブタはブタのままでいい」

 どうやら、作業はスムーズに進んでいるらしい。ジェイの口元がゆるんだ。

 それを見る同僚。にこやかな表情になる。

 一ヶ月後。

「何をした。ジェイ!」

「……」

 その生物は、何も言わなかった。

 もともとジェイだったもの。四つ足で、なんとも形容しがたい姿をしている。白衣の下は想像したくないほどだ。

 実験は成功していた。

 しかし、それは人間ではなかった。人間とは、不完全なものなのだ。

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