第九話
結局、何も思い出せずに翌日を迎えてしまった。
学校で廊下を歩く静香ちゃんが遠くに見えた。
きっと、もう、声をかけても無視される……彼女はもう私の存在なんて必要としていない。もう彼女の世界に私なんか存在しないかもしれない。
その一方で、私の世界での彼女の存在は、どんどんと大きくなっていた。
これから何が起こるのか、想像もできなくて、ただただ怖い。
何故だか分からないが、良いことが起きる気が全くしないのだ。
彼女に声をかける勇気すら整わない間に、静香ちゃんは私へ一瞥もくれずに通り過ぎて行った。
姿勢が一昨日までのビクビクした彼女ではなくなっている。一人でイジメと戦う決意をした、戦場へ向かう覚悟を決めた人間のようだった。
「あ、メガネ」
通り過ぎて行く彼女のメガネの縁が綺麗になっていて、金属部がキラッと一瞬光って見えた。
新しいメガネだ。
お金がちゃんと振り込まれたんだ。
お金が入る。それがもしかしたら、彼女の精神状態を良い方へ持って行ってくれるかもしれない。
たまたま、私の時は間違った方向へ暴走してしまっただけという可能性もある。
「静香ちゃーん」
後ろから、美月の声がした。
ビクッと自分が呼ばれたかの様に、私はビックリして後ろを振り返った。
美月は私の事なんて見えていない様に通り過ぎて、先を歩いていた静香ちゃんに後ろからいきなり飛び蹴りを喰らわせた。
後ろからいきなり蹴られた彼女は頭から廊下に倒れた。その拍子に新しいメガネが廊下を転がって行った。
美月は床に落ちた静香ちゃんの新しいメガネをこれみよがしに踏み潰した。メキっていうガラスの様なものが割れた音が少し離れた私の所にも届いた。
「あ、ごめんね。なんか踏んじゃったみたい」
新しいメガネは虫のように潰れ、床でグッタリとしてしまった。
静香ちゃんは、美月が足を退けた後の死んだ虫のようになったメガネを、無言でまたかけ直そうとした。
何度、フレームを戻そうとしても戻らず、うまく柄が耳にかからずに苦戦している。
それがおかしかったらしく、美月の取り巻きや廊下にいた周りの生徒までもがクスクスと彼女を笑った。
しかし、その時、私の背筋にゾクっと寒気がした。
俯いていて、長い髪であまり見えなかったけど……静香ちゃんが昨日と同じく、また笑った。
しかも、昨日の様な獲物を手に入れた動物の様な野蛮な笑みではなく、全てを上から眺めているような……全て、自分の掌の上で踊らされているのを上から見ているような貫禄のある笑みに見えた。
「ねぇ、こいつ、泣いてない?」
「ほんとだ泣いてるよ」
それに気づかない美月の取り巻きらが静香ちゃんを指差して笑っている。
もう、彼女に自分達のイジメ行為が少しも効いていないと知りもせず、猿のような馬鹿笑いを浮かべている。
「うううっ」
しかし、ついさっきまで笑っていた筈の静香ちゃんが突然、本当に大声で泣き出した。
「せっかく新しいのをママに買って貰ったのに、美月が壊すからぁ」
「別にワザとじゃねぇって」
静香ちゃんの泣き姿を見て、美月たちがご機嫌にはしゃいでいる。
私は呆然と美月達に揶揄われている彼女の姿を見ていた。美月達が静香ちゃんをイジメているんじゃない。静香ちゃんにイジメさせられているんだ。
私は不謹慎だけど、感心してしまった。
自分がサンプルの時とは全然違う。静香ちゃんは私の何倍も考えて考えて、一つ一つの所作まで計算している。
「すご……」
周りの笑い声の中、私は思わず呟いてしまった。
田舎から出てきた劇団員がプロの女優の演技を目の当たりにしたような圧倒的な差を私は見せつけられていた。
「じゃあ、静香ちゃん、涙で制服が汚れちゃいまちゅからねぇ。水で洗いまちょうねぇ」
美月らは赤ん坊の様にバカにしながら、泣いている静香ちゃんをトイレへ連れて行った。
──また笑った──
静香ちゃんが笑った。
それも私を見て、笑った。
明らかに私を見下している表情で、目だけは私を貫くように鋭く尖らせて。
廊下にいた他の生徒達は、静香ちゃんの悪口をクスクスと言い始めた。全ての生徒が静香ちゃんの手玉に取られている。
ただ、怖かった。
この生徒達はこれからどうなってしまうんだろう?
静香ちゃんをダメ元でも説得して、サンプルを辞めさせようと思っていたのに、いざ彼女の姿を見たら、私から彼女に言ってあげられる言葉なんて、一つも無くなってしまっていた。
私とは全然違う覚悟で、サンプルを遂行している。
翌日。
静香ちゃんはまた新しいメガネをかけて、学校へやって来た。
しかし、そのメガネを見て、私を含め周りの生徒は皆、ギョッとした。
昨日までと違い、赤い分厚い縁のあるメガネ。まるで「壊してみな」と挑発しているような派手なメガネをしていた。
「精一杯の抵抗?」
「また壊されるよ〜」
廊下を歩いていた他の生徒がクスクスバカにしながら、彼女の事を見ている。案の定、その日の内にそのメガネはまた粉々にされた。廊下にはまた笑い声が響いた。
さらに翌日も、その翌日も、静香ちゃんは新しいメガネを掛けて、学校にやって来た。しかも、毎日、違うデザインのメガネをかけてきた。
「安い眼鏡屋でも見つけたのかな?」
「お家が破産しちゃうんじゃない?」
その他大勢の生徒が毎日、品を変えてくる静香ちゃんのメガネを見てクスクスと笑っていた。
明らかに静香ちゃんが美月たちを挑発している。
私はそれを不思議に思った。
阿雲さんから「ずっとイジメられるように努力してほしい」と契約を結んでいる筈の彼女が、どうして美月達に挑戦するような態度を取るのか?
大人しく、毎日、同じメガネをして、イジメられていた方が安全なはずだ。
美月達の気分を逆撫でしたら、それこそ私の二の舞、もしくは命の危険にさえなりかねないのに。
一番最初に異変に気付いたのは、やはり美月だった。
その日、静香ちゃんのメガネを見るや、美月は舌打ちをした。
その後、美月の取り巻きが静香ちゃんのメガネを壊しても、美月は一人後ろで面白くなさそうにしている。そして、静香ちゃんの連日の悲しそうな演技にも気付き出した様子だった。
そして、廊下の向こうにいた私を美月が睨んできた。
私はドキッとして、一瞬、なんで睨まれたのかが分からなかった。
でも、この展開は美月からしたら私の時と同じだという事に気づいた。
もしかしたら、私が静香ちゃんに何かを吹き込んだのかと、彼女は頭が回ったのかもしれない。
案の定、美月はしずかちゃんを警戒したらしく、「もういい」と、そこでイジメを早急に切り上げて、去って行ってしまった。
周りの生徒達も面白くなさそうに、あっという間に散りじりになって行った。
これじゃ、私が失敗した時と同じ展開だ。
静香ちゃんも、美月の頭の回転の速さを見誤ったんだろうか?
そう思ったけど、誰もいなくなった廊下で一人蹲っている静香ちゃんの体が震えているのが見えた。
「クックック」
静香ちゃんは笑っていた。
まるで、全ての準備が整ったと言いたそうな、勝ち誇るのを必死で我慢しているが、堪えられなくなっているような小さな笑い声。
他の生徒は誰一人、気付いていない様子なのに、私の全身の鳥肌がゾゾゾっと立ち、危険を知らせて来た。
「静香ちゃん」
彼女がどんどん、私の手の届かない所へ行ってしまう。
その翌日に事件が起きた。
静香ちゃんがメガネを掛けて来なかったのだ。
廊下を歩いている彼女を見て、昨日までくすくすと笑っていた他の生徒達が、流石にソワソワし始めた。
「あれ、海道さん?」
「嘘、でしょ!」
変化はメガネだけじゃなかったのだ。
昨日まで三つ編みで地味だった髪型がファッション雑誌の女性のようにセットされていて、静香ちゃんのあの化粧気のなかった顔にも薄く化粧が施されている。
その姿を見て、他の生徒が騒然とし出した。
メイクまでして着飾られた静香ちゃんは、私が思っていた通り、アイドルの子みたいに可愛いかった。
彼女の豹変した姿に、数人の生徒が駆け寄って行った。
他の生徒からも「カワイイ」と声がチラホラと聞こえて来た。
「テメェ、なんだ、その格好は!」
しかし、静香ちゃんの周りにできた人だかりをかき分けて、美月達がやってきて、いきなり彼女の髪の毛を鷲掴みにした。
それを見たギャラリーの生徒達が「キャァ!」と大きな悲鳴を上げた。
昨日までクスクスと笑っていた筈の生徒達が、可哀想な子を見るような目で彼女の事を見ていた。
外見が変わるだけで、こんなにもリアクションって変化するのかと、私は驚いてしまった。
完全に頭に来ていた美月は、周りのその反応の変化に気付けず、いつもみたいに……いや、いつも以上に乱暴に静香ちゃんをその場で痛めつけ始めた。
静香ちゃんによる連日の挑発が美月のストレスを最高潮にしてしまったようだ。美月は取り巻きの「やめなよ」と言う制止にも気付かず、床に倒れた静香ちゃんを足で蹴り続けた。
「きゃあ!」
さっきより大きな悲鳴が生徒達から上がった。
私は静香ちゃんの狙いがわかった。彼女は美月一人にターゲットを絞って、挑発し続けていたんだ。
そして、潮目が変わる瞬間を冷静に見抜いて、行動に移したんだ。
美月は怒りが収まらず、静香ちゃんの頭を掴んでトイレへと連れて行った。
昨日まで静香ちゃんを笑っていたギャラリーが、一気に彼女に同情するようになった。
「やり過ぎよね、美月」
「てか、海道さんってあんな可愛かったの?」
「私も思った。なんか、可哀想だよね」
美月の味方だったはずの群衆が、一瞬で静香ちゃんの味方に傾いた。
でも、私は腑に落ちなかった。
イジメが無くなったら、静香ちゃんは契約違反になるはずなのだ。これでは明日から彼女をイジメるのは、いくら美月でも荷が重いんじゃないか?
それとも、まだ何か作戦があるって事なんだろうか?
静香ちゃんが何を考えているのか、私には全然分からなかった。
でも、ただ、全ての人間が既に彼女の手のひらの上に乗ってしまったことだけは確かだった。
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