第七話

 彼女への手向けのように、その晩は黒い雨が降り続いていた。予定になかった大雨だったせいで、お母さんも仕事からずぶ濡れになって帰ってきた。


 居間でテレビを見ながらも、私はずっと窓の外を眺めていた。

 どこかに反射する赤いライトの光線も、大きなサイレンの音もしない。

 うちから学校まではそんなに離れていないはずだから、何かあったらスグに分かるはずだ。


「何かなかった、外?」


 私はお母さんにそれとなく聞いた。


「何かって何よ?」

「その……交通事故とか」


 私の質問に「変なこと言うじゃないの」とお母さんが怒った。

 阿雲さんの電話から、なぜか胸騒ぎが止まらない。

 そもそも、彼女が死ぬかどうかなど、私の直感と想像の話でしかないのに、早く死んだという報を聞いて安心したい自分がいた。


 しかし、朝まで大きなサイレンは聞こえず、街はずっと平和だった。


 翌日の朝になると雨はすっかり上がり、真っ青の空がベッドから見えた。学校から連絡も来なければ、朝起きてもお母さんに慌てたそぶりもない。いつもの日常だ。


「何かニュースとか、やってなかった?」

「何かって何が?」

「いや、この辺で事故とか」


 お母さんは、昨日から人の不幸を願っている娘に再び怒鳴った。


 おかしい。

 何か歯車がずれ始めている事に、私の胸騒ぎはどんどんと大きくなる。


 学校に向かう間も、昨日の出来事を噂している生徒は一人もおらず、学校の門の前に警察などがいる事もない。

 飛び降りたとしたら、遺体が落ちているであろう場所は、何もないいつもの花壇と駐車場だった。

 私の予感が外れていた事がそれで確定した。


 昨日、この学校で誰も死んでいないんだ。


 私にはそれが怖かった。

 じゃあ、静香ちゃんはどうなったんだ? 本当なら、この世にいるはずの無いあの子は、今、何をしているんだろう?


「あっ」


 私の視線の先、昇降口のところで、何食わぬ顔で靴を履き替えている彼女が目に入った。私は心臓を握られたようにドキッとした。


「なんで生きているの?」


 遠目から見えた彼女に、私の嫌な予感は完全に実体となった。

 なぜだか分からない。

 そもそも、彼女が自殺するかどうかなんて、根拠のなかった話で、私が頭の中で勝手に作り上げた妄想だ。


 だけど。

 遠くからでも、彼女が昨日までとは、どこかおかしい事に気付いた。


「顔の角度だ」


 昨日まで人の視線から逃げるように生きていたはずの彼女が、顔を上げて堂々としているのだ。

 まるで昨日までとは別の世界を生きているような感覚。むしろ、昨日の出来事辞退、私の夢の中のことだったのでは無いかと思うほど、現実と私の頭の中でのズレが大き過ぎて、何がなんだからわからない。


「ひっ!」


 その時、五十メートルくらい離れた昇降口から、彼女の冷たく鋭い視線が私に飛んで来た。周りに他の生徒が大勢いるにも関わらず、その視線は一直線に私だけを貫き、私は思わず声を出してしまった。


 やっぱり、ここは昨日の続きの世界だと、彼女の視線で再確認した。



 でも、何かおかしい。

 彼女に何があったんだろう?


 教室に入っても、彼女以外に異変が起きている様子は無かった。

 美月もいつもの通り、取り巻きと自分の席で冗談を言い合っている。

 昨日、あの後、彼女と何もなかったのだろうか?

 美月の様子からは、彼女の豹変に関わる手がかりは感じられない。


 凄く気になるけど、あの視線……もう彼女は私に心を開いてくれない。

 昨日、私は彼女を見捨てたんだ。

 

 しかし、移動教室のため、私が廊下を歩いていたら、向こうから彼女がこちらへ歩いていた。

 昨日までと明らかに違う。

 いつも俯いてビクビクしていた筈なのに、今日は胸を張って、前だけを見て歩いている。


「静香、ちゃん」


 私はダメ元で彼女に話しかけてみた。

 彼女は私を見て、表情を変える素振りもなく立ち止まった。


「何ですか?」


 そう力強く言った彼女の眼鏡、まだ縁は修理されおらず、応急処置のままになっていた。

 足元を見ると、上履きに落書きが施されている上に、昨日の雨で出来た水たまりの中に入れられたような汚いシミができている。


 またイジメられたのか。

 なのに、なんでこんなに堂々としているんだろう?


「き、昨日はその……」


 謝ろうと思って言葉を切り出したが、自分が一体何を謝ればいいのかが分からず、しどろもどろになってしまった。


「見捨ててゴメンねって言いに来たの?」

「え?」


 静香ちゃんが私にニコッと笑った。


「気にしないで、アナタはもう私には関係のない人だから。もう、私に話しかけないで」


 彼女は私の話を聞こうともせず、そう言って去って行った。


「静香ちゃーん」


 静香ちゃんが歩いていく方向の先から、美月が取り巻きとこっちにやって来る。

 美月は、あっという間に静香ちゃんの髪の毛を掻き乱して、昨日のようにボサボサにした。

 他の取り巻きも彼女の両腕を掴んで、宇宙人の標本のように彼女を捕らえた。


「あれ、美月じゃん」


 さらに廊下の向こうから、今度は静香ちゃんと同じクラスの女子たちがニヤニヤ笑いながら、こっちに来る。

 この前まで静香ちゃんをイジメていた主犯格のメンバーたちだ。

 そこに私をイジメなくなった美月たちが加わって、今では全員を静香ちゃんが一人で相手している形になっていた。


「ちょっとコイツ、また借りるぜ」


 美月は静香ちゃんをそのクラスメイト達に見せて、レンタルの許可を得ていた。

 その後、2、3往復の会話があって、美月達に引っ張られて静香ちゃんはトイレの中へ消えて行った。


 別れた静香ちゃんのクラスメイト達は呆然と立っている私の横を冗談を言いながら通り過ぎて行った。


 自分がされたワケじゃないのに、静香ちゃんの立場の弱さを目の当たりにして足がすくんだ。

 トイレの中で静香ちゃんがこれから何をされるのか想像しただけで、ゾッとして止めに入りたくなった。

 

 だけど、そんな彼女を私は昨日、簡単に見捨てたのだ。


 今思い返すと、私が自殺しようとした日、彼女は私を止めようとしてくれた。でも私はそんな彼女を振り払って、一人で楽になろうとした。


 私は二回も彼女を裏切った。

 友達になろうと差し伸べて来た彼女の手を二回も私は振り払ったのだ。


 廊下で呆然と立ち尽くし、彼女が消えて行ったトイレを見続けた。入れ違いで同級生がくすくすと笑いながらトイレから出て来た。


 私はトイレから目を背け、次の授業の教室へ向かった。


 授業が始まるチャイムが鳴って数分後、静香ちゃんらしき影がすりガラスの窓越しに教室に戻って行くのが見えた。


 その瞬間、美月達がクスクスと笑った。


「なんで死ななかったの?」


 お腹から熱いものが込み上げて来て、必死で押し殺しても、ボソッと声が出てしまった。

 自分がイジメられていた方が数倍マシだ。私のせいで静香ちゃんの負担が倍になってしまったのをさっき目の当たりにしてしまった。

 

 昨日までの無敵になった気になっていた自分に腹が立った。私が静香ちゃんを虐める片棒を担いでいる様なものだった事に今気づいた。

 なのに……なんで、昨日、学校へ引き返さなかったんだろう。何で「何も変わらない」って達観していたんだ。


 私の瞳から涙が溢れた。


 彼女はきっともう死ぬ事はできない。あの恐怖を知っている人間なら、屋上に上がるだけで足がすくんでしまう。


「色鳥、どうした?」


 突然、泣き出した私を見て、先生が不思議がり、教室がソワソワしだし、授業がストップしてしまった。

 その時、離れた席から嫌な視線がカラスのように飛んできた。美月が私を見て、ニヤッと獲物をとらえた様に笑ったのだ。


 「しまった」と思った。

 美月は静香ちゃんを虐める事が、私への精神攻撃になると察してしまった。


 案の定、静香ちゃんはお昼休みも美月達に体育館へと連れて行かれていた。

 心配に陰で見ている私に美月が振り返って、ニヤッと笑った。


 でも、その時。

 私の方を振り返って勝ち誇っている美月の横で、静香ちゃんの頬が小さく動いたのが見えた。


「えっ」


 恐怖と何かよく分からない感情で私は足がすくんだ。

 今、静香ちゃんがニヤッと笑った。

 その笑みは、勝利に溺れている美月たちを食い殺そうとしているような狂気に満ちた笑みだった。


 そしてその顔は、ついこの前まで私が美月たちに隠れてしていた笑みだ。


 その瞬間、全ての違和感が一つに繋がった。

 昨日の阿雲さんのおかしな電話を思い出した。


 もしかしたら、阿雲さんが静香ちゃんに何かをしたのではないだろうか?




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