第六話

 アレほど毎日続いていた私へのイジメは、本当に蜘蛛の子を散らすという表現が正しいほどにパッタリと無くなった。

 私にとって無味無臭の学校生活となってから一週間が経った。

 今までは、毎朝教室に入るたびに私を見るやクスクスと笑う人が何人かいたけど。むしろ今では私が近寄ると、それまで楽しそうに話していた会話が急にピタッと止んでしまう。


 みんな、完全に私を腫物のように見ている。

 今まで私が周りに対して抱いていた恐怖が、そのままクラスメイトたちに跳ね返ったようになってしまった。


 でも、そんなことは別にどうでも良かった。

 あんなにイジメが無くなってくれればいいのにと思っていたのに……私の心には、イジメられないことに対してモヤモヤした気持ちが芽生えていた。

 一週間前、美月と大喧嘩になった日に五万円が振り込まれたのを最後に、私の口座には一円も入金されていない。

 イジメられるとあれだけの大金が手に入ると知ってしまった今では、イジメられない事でお金が貰えない事に対しての歯痒さを感じる様になっていた。


 美月も、あの日以来、私へちょっかいを全く出して来なくなった。それどころか、私と目が合うと向こうから視線を逸らす有様だ。


 イジメが無くなったのと引き換えに得たのは後悔と孤独。

 誰からも馬鹿にされない代わりに、誰からも相手にされない存在になった。そして暇を持て余すと、頭の中に『イジメられていれば買えた物』が次々と浮かんでくる。

「何であんな余計な事をしてしまったのだろう?」と一週間前のトイレでの騒動が頭をよぎる。そして、後悔の気持ちが湧き上がり、体がカーッと熱くなる。


 なんか、自分が少しおかしくなってしまっている事に気付いて来た。

 気を紛らわせる為に、阿雲さんから貰ったスマホを学校へ持っていき、ネットの小説とかを休み時間に読んだりして暇を潰す様にしている。


 もし、このままイジメられなくなってしまったら、サンプルの話はどうなってしまうのだろうか?

 折角、お母さんを楽させられると思ったのに。


 先週の自分の失態のせいで、もうお金はあまり期待できない。「イジメなさいよ」と言っても余計に怖がられるだけだし、そもそもそれはイジメではないのでお金は入らない。


 もうどうする事もできないのかな?


 放課後。

 ほとんどの生徒は部活に行ってしまい、教室に残っているのは日直の日誌を書いている私だけになってしまった。

 美月達も、早々に退散したらしい。

 私をイジめくなってから、美月たちの姿を休み時間に教室であまり見かけなくなった。

 一体、どこに行っているのだろう?


 日誌を記入し、職員室に届けて、もう一日のやることを全て終えてしまった私は、真っ直ぐ家に帰る事にした。

  

 帰りの下駄箱までの廊下が最近は異常に長く感じる。

 イジメのない世界は、正直、少し退屈だった。


「松葉ちゃん」


 昇降口で上履きから靴に履き替えようとしたら、聞き覚えのある声がして振り返った。と言うか、お母さん以外の人に呼ばれるのは一週間ぶりで、少しドキッとした。

 振り返ると、ぎこちない笑みを浮かべて静香ちゃんが立っていた。


「久しぶり、だね」


 静香ちゃんは緊張している感じの声で私にそう言った。

 そう言えば、最近、全然体育館裏に行ってなかった。と言うか、今まで忘れていた。

 イジメに対しての恐怖が無くなってしまったからなのか、あそこへ行く理由が無くなってしまった。

 実際、あんなに心の支えだった静香ちゃんが目の前にいるのに、今の私は彼女を目の前にしても、何とも感じていない。


「いいの? こんな所見られても?」


 私と静香ちゃんが隠密に繋がっているのは、二人だけの秘密のはずだ。

 別に私はどうでも良いけど、彼女はまだイジメられているはずだ。


 静香ちゃんは、私の質問に答えられず、黙って俯いてしまった。

 なんだろう? 

 彼女のそのイジイジした態度を見て、私は少し苛立ちを感じていた。今まで気付かなかったけど、彼女ってこんなにビクビクして空気を吸っているのか。

 彼女のクラスメイトが静香ちゃんをイジメたくなる理由がわかる気がする。


 静香ちゃんの鞄を見ると何十年間も使ったみたいにボロボロになっている。この前のメガネもまだ直っていないし、襟元からアザが見えた。

 彼女のイジメられている人間の証が私には懐かしくも思え、少し羨ましくも思えた。

 あれだけイジメられたら、お母さんに洋服でも買ってあげられるのに。

 それが余計にイライラする。


「ま、松葉ちゃん。最近、体育館裏、来ないよね」


 静香ちゃんがまた下手くそな笑みで私に言った。なんとなくだけど、彼女が私に怒っているように感じた。


「でも、別に約束してたわけじゃ無いし」

「……そうだけど、ね」


 静香ちゃんは終始ずっと俯いて、私の視線を必死に避けようとしているように見える。そのせいで話の語尾が聞き取りづらい。

 彼女が俯くたびに壊れたメガネのフレームが小さくカタカタと音を立てた。それが、また私のイライラを増長させた。


 これが彼女のイジメられている理由か。

 そんなに綺麗な顔をしているのに、そのスペックを大いに無駄遣いしている彼女のオドオドした性格に歯痒さを感じて、無性に傷つけたくなっていくのだ。


「静香ちゃーん」


 廊下の向こうから、別の聞き覚えのある声が響いて、静香ちゃんがビクッとそっちを見た。

 現れた美月が静香ちゃんの髪の毛を乱暴に掴んで、手慣れた感じにモミクチャにし出した。 

 なるほど……だから最近、教室にいなかったのか。


 美月は私の姿に気付いて、舌打ちを一回した。


「なんだよ?」


 美月は私に一言そう言った。


 私は返事もしないで、靴を履いて昇降口を出て行こうとした。


「松葉ちゃん!」


 チラッと振り返ると静香ちゃんが「行かないで」と言う顔で私を見ていた。


 そんな綺麗な顔してるのに、そんなイライラする表情を作るのに使わないでよ。

 だからイジメられるのよ。


 美月たちに引き摺られていく彼女の声が、背中越しに廊下の向こうへ消えて行った。



 帰り道、私は歩きながら考えていた。

 彼女は何しに来たんだろう?


 私に文句を言いたかったのかな?

 私に助けを求めに来たのかな?


 でも、そんな感じにも見えなかった。

 何かもっと別な事を言いたそうな感じだったように見えた。

 と、言うか、どこか今日の彼女には既視感があった。どっかであんな態度の人間を見たような気がする。


「あっ」


 私は足を止めた。

 その時、空からゴロゴロと傘をささない私を威嚇するような声が聞こえて来た。

 あの日と同じように、空が黒く濁って来ていた。

 傘を持って来ていないから、早く帰らないと多分、濡れてしまう。


 でも、彼女が何を言いたかったのかが分かってしまった。


 戻るべきかな?


 私は体を学校の方に向き直した。けど、スグに止めて、また家の方に体を戻し、歩き出した。


「さようなら、静香ちゃん」

 

 私が止めた所で、何も変わらない事は私自身が一番良く知っている。

 幸い私はサンプルに選ばれたけど、サンプルじゃ無いあの子は、この先も何も変わらない。地獄の日々が繰り返されるだけだ。


 あの子はイジメられる為に生まれて来たような子だ。

 オドオドして、言いたい事も口にできない。黙っていれば美人だが、その美しさを彼女の性格が見るに耐えないものにしている。


 学校から家までの帰り道、『彼女って、私にとっての何なんだったんだろう?』とふと考えた。

 先週までは、学校終わりの彼女と話す数分だけが掛け替えのない人生での貴重な時間だった。あの時間がなかったら、私はもっと早くに飛び降りていたかもしれない。


「友達……でいいのかな?」


 友達なら、引き返さずに帰るって事にはならないんじゃないか?

 友達なら、さっき美月から助けてあげたんじゃないか?

 友達なら、彼女を残して死のうなんて思わなかったんじゃないか?


「友達に、なれなかった子、か」


 その時、ポケットに入れていたスマホがブルって震えた。

 阿雲さんから久しぶりの電話。


「阿雲さん、どうかしたんですか?」


 私は首を傾げながら電話に出た。

 今日はイジメられてもいないから、電話はかかって来ないはずだ。


「あ、色鳥さん。突然、申し訳ありません。今、どちらにおられますか?」


 私はちょうど自宅のマンションのエントランスに入った所だった。それを見計らったように空から大量の雨粒が落下して来た。


「今、自宅ですけど」

「そうですか、ありがとうございます」

「それだけですか?」

「はい。こちらの要件はそれだけです。色鳥さんの方は何かありますか?」

「いえ、特に何も」

「では、失礼します」

「あ、はい」


 電話は切れた。

 なんだったんだろう、今の電話?

 少しモヤモヤする。


 私はエントランスの安全地帯から、しばらく空から降ってくる大粒の雨を眺めていた。

 この雨がなんとなく、彼女が死んだことを私に知らせている様な気がして、その雨に手を合わせた。


 友達にはなれずに終わった、彼女のために。

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