第2話 夏鈴は好意を隠し切れない

 梅雨時の日曜夕方、部活の大会から帰宅した俺はシャワーを浴び、部屋着に着替えてからクーラーの効いた自分の部屋で大の字になって涼んでいた。


 すると、コンコンとドアをノックする音がした。


「どうぞー」


 返事をすると、ガチャリとドアを開けて夏鈴が部屋に入ってきた。


 夏鈴は好きなバンドのTシャツを着てショートパンツを穿き、髪を無造作にお団子にしたラフな格好をしていた。それもそのはず、夏鈴は期末テストを再来週に控え、この週末は家に籠って勉強していたのだ。


「ねぇお兄、勉強してて分からない問題があったから教えて欲しいんだけど、いい?」


 大会から帰って来たばかりの俺を気遣ってくれたのか、夏鈴はやや遠慮気味に尋ねてきた。


 昨日も半日練習があったし、今日は一日中動いていたからかなり疲れが溜まっていて、出来ればこうして寝転がっていたいし、頭を使う作業なんてしたくない。


 頼んできたのが友達なら間違いなく断っている。でも夏鈴だからなぁ…………。


「いいよ。準備するからちょっと待ってな」

「うん。ありがと」


 俺は重い体を起こし、立ち上がって隅にどかしていたミニテーブルを部屋の真ん中に戻す。それから部屋の入り口に立って待っていた夏鈴を呼んで、ミニテーブルの前に腰を下ろす。


「お待たせ。それで分からなかった問題というのは?」

「数学で図形の問題なんだけど……」


 夏鈴が問題集を開いた状態でテーブルの上に置き、その問題を指差す。見るとそれは、円に内接する多角形の角xの大きさを求める問題だった。


 ――うわ~、これ難しいやつだ……。


 難問にありがちな、いくつか別の角の大きさを求めて、最終的に図形の性質を用いてそれらを合わせることで答えが導き出される問題だ。


 こういう問題では補助線を引いて、それを利用することがセオリーだ。だからまず始めに補助線を引く場所を考える。


 この作業がかなり重要で、補助線を引く場所を間違えるとどれだけ考えても答えは出てこない。


 ――ここは………違うな。ならばここか? ………………ここでもないか。う~ん、こことかは………。


「あ、分かった」


 補助線を引き、それを利用していくつか角の大きさを求めることを何回か繰り返して、正解に辿り着けそうなものを見つけ出した。


 そして図形の性質を用いて異なる二つ以上の角の大きさを足し合わせて別の角の大きさを求めていくと、すぐに角xの大きさが求まった。


「本当に?!」

「ああ。まずここにこれと平行な線を引いて――」


 ということで、夏鈴にこの問題の解き方を教えていく。


 問題の解き方と言っても、この問題は補助線を引く場所さえ分かれば、あとは基礎問題を解くのと同じように進めていけばいいだけなので、補助線を引く場所くらいしか教えることはないのだが。


「それでこの角とこの角が同じ大きさになるから………って、なんでそんな離れたところに座ってるの?」


 解説している際中に夏鈴の反応を確かめようと横を向いたら、夏鈴が俺から40センチくらい離れたところに座っていたことに気付いた。


 いつも俺の隣に座ると腕が軽く触れ合うくらいまで近づいてくるのに。


「え、そんなに遠い?」


 俺の顔を見ながらキョトンとした顔で夏鈴が言う。


「うん。もうちょっとこっちに来なよ」

「分かった」


 1センチ、2センチと、ちょっとずつ夏鈴が寄ってくる。ところが、10センチも行かずに止まってしまった。


 ――え、なんで? シャワー浴びた後だからもう汗臭くはないはずだけど……。


 不安になって一度腕の匂いを嗅いでみる。


 …………ボディーソープの柑橘系の香りだ。


 ボディーソープは夏鈴も同じものを使っているから、ボディーソープの香りが原因だとは思えない。


 いや、待てよ。もしかして――。


 俺は一つの可能性に思い至った。


 それを確かめるべく、俺は立ち膝になって横にすすっと移動し、夏鈴と腕が軽く触れるくらいの位置に座り直す。


 そして夏鈴の表情を伺うと、夏鈴はやや引き攣った表情をして、ほんのり赤面していた。


 ――ははーん、やっぱそうか。


 思わず頬が緩んだ。


 どうやら夏鈴はシャワーを浴びたばかりの俺から漂う香りを嗅いで興奮してしまったみたいだ。それであまり俺に近寄り過ぎると匂いが強くなり、昂った気持ちを隠し切れなくなってしまうから、あえて距離を取ろうとしたって訳だ。


 そもそも夏鈴は俺がまだ好意を向けられていることに気づいていないと思っているらしく、気持ちが昂っていても平然を装い、俺への好意を隠そうとする。


 だけど、全然隠し切れていない。いつも明らかに挙動不審になるし、顔が赤くなっている。


 これで気づかない訳がないし、どうして気づかれていないと思えるのか不思議だ。


 何はともあれ、こうして変な努力をしていることに気付くと、ついいじりたくなってしまうのが性で――。


「それで、この角の大きさはこの角とこの角の大きさの和ってことになるから――」


 解説しながら俺はさりげなく顔を夏鈴の顔に近づける。時々手に触れてみたりもする。


 ――はははっ、夏鈴の顔さらに赤くなってる。


 ただ、残念なことにこの問題はすぐに答えが求まってしまうから、それほど長くはいじれなかった。


「これで角xの大きさが求まると。どう? 理解できた?」

「うん」

「そっか。なら良かった。お疲れ様」


 最後に夏鈴の頭を撫でながら耳元で労いの言葉をささやく。すると夏鈴が俺の方に顔を向けてきて、夏鈴と見つめ合う恰好になった。


 夏鈴は完全に乙女の表情だ。顔の赤らみが少し収まって、代わりに目がトロンとしている。


 カップルならこの後間違いなくキスシーンに入るだろう。ま、俺たちはしないけど。


「ッ! あ……あ…………お兄のバカっ!! 女たらし!!!」


 5秒ほど見つめ合っていると、夏鈴がハッと我に返り、再び顔を真っ赤にした。そして捨て台詞を吐くと、物凄い勢いで俺の部屋から出て行った。


 ……まったく、騒がしい奴だなぁ。


 夏鈴が自分の部屋に入って、勢いよくドアを閉める音が聞こえた。


 俺は立ち上がり、一応夏鈴が廊下にいないことを確認してからベッドにダイブする。


 そして枕に顔を埋めてこう叫んだ。


「あぁもう可愛いなぁ!!! てか、あの表情は反則だろぉぉぉぉ!!!」


 あいつまだ中学生だよな? どうしてあんな艶めかしい表情できるんだよ?! 夏鈴が我に返るのがもう数秒遅かったら俺キスしてたよ!!


 俺は高まった気持ちを堪え切れず、足をじたばたさせて悶える。


 元から夏鈴は世間一般的に見て可愛い方だったけれど、俺に恋してからというもの、化粧に挑戦したり、デートコーデに使えそうな可愛い服の数を増やしたりと可愛くなるための努力を熱心にするようになり、このところそれが実を結んで日増しに可愛くなっている。


 さっきだって夏鈴は香水を付けていて、夏鈴に近づいたらその香りに気持ちを昂らされてしまった。


 最近では夏鈴が必死に俺への好意を隠そうとしているのを見ると可愛いなって思うようになってしまって、俺が落とされるはもう時間の問題なのかもしれない。


「はぁ……義妹との恋愛、か」


 いま俺に彼女はいないから、そういう意味では問題ないんだけど………。


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