第115話 閑話 パラーリ事件

 アンホレストが死んだ1303年。もう一つの大事件が起きていた。それは、神聖教にとって最大で、最悪の大事件だった。



 1303年当時の神聖教教主は、ポルファスト8世という人物だった。


 ポルファスト8世は、神聖教教主ニコラス4世の使いとして、反ヒールドルクス同盟の神命しんめいをグーテルに届けた司教枢機卿しきょうすうきけいベネジェクト・アナーニその人だった。



 ニコラス4世の死後、2年に及ぶ、揉めに揉めたコンクラーヴェを経て、クレティネス5世が1294年に84歳で、神聖教教主の座についた。



 だが、在位数か月にしてクレティヌス5世は、自ら「教主の器にあらず」と言い始め退位を希望し、教会法に詳しい教主官房のベネジェクト・アナーニ司教枢機卿に相談した。


 アナーニ枢機卿は、教会法に基づいた辞任の方法を教主に助言し、クレティヌスは自ら「教主に選ばれた者は、選出を拒否する権利を持つ」という法令を出し、結局半年たらずで教主を退位した。


 ここに、存命のまま教主が退任するという異例の事態が発生したのだった。存命のまま退任する教主は、神聖教の記録でも3人しかいなかった。



 実は、クレティヌス5世は、夜な夜な聞こえる、「ただちに教主職を辞し、隠者いんじゃの生活に戻れ」という声に悩まされた末に、アナーニ枢機卿に相談したのであるが、実際のところはアナーニ自身が、部下に教主の寝室まで伝声管でんせいかんを引かせて毎晩のように声を聞かせた上に、教主を不眠症と神経衰弱しんけいすいじゃくに追い込んだ張本人であったのだった。



 こうして、クレティヌス5世を退位させたアナーニが、コンクラーヴェにて次の教主に選ばれ、ポルファスト8世として神聖教教主に即位する。59歳だった。


 ポルファスト8世は、神聖教教主としての威厳いげんを示し、強権的きょうけんてきな教主として、権力の増大をはかった。


 当然、敵対関係も生まれる。それが、ランド王フェラード4世であり、ダリア地方中部で権力を持つダリア貴族ダロウナ家だった。



 ダリア地方中部で有力な貴族に、アルティーニ家とダロウナ家があった。ポルファスト8世は、両家の対立関係を利用し、アルティーニ家を優遇する。すると、ダロウナ家は、公然とポルファスト8世を非難し始める。



 そして、1297年、ダロウナ家はポルファスト8世の故郷のパラーリから移送中の教主の個人財産を強奪ごうだつするという実力行使に出た。


 その品はのちに返却されたが、ダロウナ家はその後も「ボニファティウス8世は真の教主にあらず」との声明文を発し続けたため、教主はダロウナ当主とその一族を破門とする命令を発し、一族討伐いちぞくとうばつのための「十字軍」を招集した。


 1298年、ダロウナ家は教主軍に屈したものの、その年のうちに反乱を起こし、やがてランド王国へと逃亡した。



 一方、ランド王国は、ヴァスコニアや、フランダースをめぐる、エグレス王国との戦いで疲弊ひへいしていた。そこで、教会課税を行うが、それに対して、ポルファスト8世は、激しく反発。ランド王国国王フェラード4世を公然と非難した。この時は、一旦、両者が歩み寄り大きな衝突にはならなかった。



 1301年、ランド王フェラード4世は再びランド国内の教会に王権を発動し、教会課税を推しすすめようとした。これに対して、ポルファスト8世は1302年に「ウナム・サンクタム(唯一聖なる)」という教主回勅きょうしゅかいちょくを発して、教主の権威けんいは他のあらゆる地上の権力に優越し、教主に服従しない者は救済されないと宣言した。


「ウナム・サンクタム」は、教主の首位権について述べた最も明快めいかいかつ力強い声明文であり、歴代教主が政敵から身を守る際の切り札として利用された。


 さらにポルファストは、「聴け最愛の子ら」という回勅かいちょくを発してフェラード4世に対し教主の命にしたがうよう促した。



 1302年、フェラード4世は国内の支持を得るために聖職者・貴族・市民の3身分からなる「三部会」と呼ばれる議会を王都の大聖堂に設け、ランドの国益を宣伝して支持を求めた。


 人びとのランド人意識は高まり、フェラード4世ははんヨーロッパ的(ヨーロッパは一つ)な価値観を強要する教主に対して、国内世論を味方につけた。


 ポルファスト8世は怒ってフェラードを破門はもんにしたが、フェラードの側も悪徳教主弾劾あくとくきょうしゅだんがいの公会議を開くよう求めて、両者は決裂けつれつした。


 このとき、教主とランド王の和解に反対し、フェラード4世に対し、教主と徹底的に戦うべきことを進言したのが、「レジスト」と称された世俗法曹家せぞくほうそうか出身のジョーヌ・ド・ガルイであった。



 そして、ついに事件が勃発ぼっぱつする。フェラード4世は、腹心のレジストのジョーヌ・ド・ガルイに命じ教主の捕縛ほばくを計ったのだ。


 ガルイの両親はかつて異端審問裁判いたんしんもんさいばん火刑かけいに処せられていたため、教主庁に対する復讐に燃えていた。


 一方、教主の政敵で財産没収と国外追放の刑を受けていたダロウナ家は、フェラード4世にかくまわれていた。ガルイは、ダロウナ家がランドの法廷で証言した各種の情報をもとに、教主の失点を列記した一覧表を作成し、これを公表した。



 1303年9月、ガルイはダロウナ家の一族と結託して、教主が教主離宮のあるパラーリに滞在中、同地を襲撃した。



 ジョーヌ・ド・ガルイとセロラ・ダロウナは、教主御座所きょうしゅござしょに侵入し、ポルファスト8世を「異端者」と面罵めんばして退位を迫り、弾劾だんがいの公会議に出席するよう求めた。


 教主が「の首を持っていけ」と言い放ってこれを拒否すると、2人は彼の顔を殴り、教主の三重冠さんじゅうかん祭服さいふくを奪った。


 これについては両者の思惑が異なり、セロラは教主を亡き者にしようと考えていたが、ガルイは逃れられないよう教主をつかまえてランドに連行して会議に出させ、いずれは退任させる腹づもりであった。



 2人は激しい言い争いになり、それが翌日まで続いたが、そうしている間に駆けつけた教主の手兵により、ポルファスト8世は救出された。



 教主の監禁は3日間にわたり、ダリア地方南方の二王。バブル王ケウロスとチェリア王ホフォリゴ2世が教主に対して暴力が振るわれていることを聞きつけて、その救出のための準備をしていたという。



 無事に救出された、ポルファスト8世は民衆の安堵あんどと大歓声に迎えられて教主庁への帰還を果たしたが、はずかしめられた彼はこの事件に動揺し、同年10月11日、急逝きゅうせいした。享年68歳だった。


 長年の不摂生ふせっせいで腎臓を患っていたのが死因であるとされているが、人びとはこれを「憤死ふんし」と表現したのだった。

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